四 追憶――赤の夜/後

     3


 それからというもの、二人の泣かす泣かぬの抗争が繰り広げられるようになった。

 例えば恒例の雑巾投げ。

 少年に必ず止められるようになったこれ。ただでは取らせぬと、柏場かしわばは水が滴るほどびちゃびちゃに濡らした雑巾を投げつけた。

 そうとは知らず受け止めてしまった少年は、飛沫しぶきを浴びる。

 飛沫を散らすだけでは飽き足らず、雑巾は足元も濡らしていく。

 これには柏場も手ごたえを感じ、どうだという顔をしていた。

 しかし少年は涙目にもならず、

「雑巾を濡らず手間が省けました」と言い放ち、形勢有利で終わらせた。

 こんなこともあった。

 少年が掃除をしていたときのこと。

 縁側の半分を拭き終えた頃、突如、頭上から水が降ってきた。

 拭いたばかりの縁側に茶鼠色の水が広がる。

 背後を振り向くと、掃除に使っている桶を逆様に持った柏場が立っていた。

「足が滑った」

 明らかな嘘。もちろんえて言っている。

 桶を投げ落とし、柏場は去ろうとした。

 敵に背を向けるとは、考えなしもいいところだ。

 背を向けた柏場の足元めがけ、少年は蹴りを見舞う。

「足がずべった」棒読み。

 床に広がった雑巾のしぼり汁も手助けし、柏場はすっ転んだ。仰向けに倒れたために後頭部をおもいきり打ちつける。

「~~ってんめ、なにしやがる!」

 柏場は飛び起き、少年に掴みかかろうとする。

 少年はそれをひょいとかわした。

 気の済まない柏場が追いかけだし、二人は寺子屋中を駆け回ることとなった。

 そんな様子を柏場の腰巾着だった男児たちが傍観ぼうかんする。

「……柏のやつ笑ってるぞ」

「楽しくなったんじゃねえの」

 柏場はいつの間にか、少年をいじめて笑うようになっていた。以前の嘲笑ちょうしょうとは違う。

 それは、はたから見ればじゃれ合っているようであった。

 日々が過ぎてゆき、少年はここでやっていけるのではと、思い始めていた。


 少年と柏場はいつものように追いかけっこをしていた。

 追いかけっこは寺子屋を飛び出し、川にまで及んだ。

 川縁に追い込まれた少年はこれしめたと掴みかかる柏場を台に跳び、反動で柏場が川に落ちてしまう。

 川は浅く溺れることはないが、柏場は俯いたまま動かない。

「……大丈夫でずか?」少年は手を伸ばす。

 と、腕を掴まれ、川に引きずり込まれた。

 川は背筋がぞわぞわするほど冷たく、身震いする。

「なあ」

 驚いた。

「おまえは本当に……厄病神なのか?」

 柏場の顔は、今にも泣きそうに歪んでいて。

「俺にはもう……わかんねぇよ……」

 片膝に顔を隠し、柏場は再び俯いた。

 少年はなにも言わず、彼が顔を上げるまで、そこに座っていた。

 柏場は顔を上げてからもなにも言わなかったが、以前の彼とはどこか違うようだった。


 すっかり体が冷えきった少年は、寝床で身を小さくしていた。

 遊んでいる子どもたちの声や足音が聞こえる。

 少年はいつのまにか眠りに落ちていた。


 ――どんっ


 いやに大きな音で目が覚めた。

 自分が眠っていたことはわかったが、どれほどかはっきりしない。それは一瞬だったのかもしれないし、幾刻にもなるのかもしれない。

 立てつけが悪くなってできた戸の隙間からそっと覗き見る。

 わずかな隙間からでは外の様子はうかがえないが、暗くなっていることはわかった。

 灯りもなく、子どもたちの声や足音も聞こえない。もうみな、眠っているのだろう。

 先の音は誰かが寝返りを打って戸に足でもぶつけたのだろうと、そう思った。

 思ったが、違和感があった。

 本来なら聞こえてくるはずの微かな寝息、寝返りを打つ衣擦きぬずれの音、幼子が指を吸う唾液の音――それが聞こえない。

 代わりに漂ってくる、臭い。

 拭えぬ違和感に少年はそっと、戸を開けようと手を掛けた。

 しかし力を加えても戸は開かない。

「…………」

 より力を入れて開けようとする。


 ――出てくるなっ。


 警告に手が止まった。それは、聞き覚えのある声だったように思う。

 生唾を飲み込んで意を決し、両手で力いっぱい、体も使って戸に力を加えた。

 ドチャッ

 戸が開いた。と同時に戸に寄りかかっていたものが倒れた音。そしてぶわっ、と強烈な臭いが押し寄せた。

 少年はたまらず鼻を塞ぐ。

 雲がかかっているのか、戸を開けても部屋の様子はよくわからない。

 押し入れから出ようと、そろりと足を下ろす。するとなにか不安定なものを踏んで、転んでしまった。ぬるりとした感触を顔や手足に感じた。

 倒れた姿勢のまま少年は振り向く。

 間よく雲が晴れてきた。

 月明かりが部屋に差し込み、視線の先を照らす。

 見覚えのある小袖。背後の押し入れの戸に飛沫を散らして、彼は死んでいた。数刻前、川で顔を歪めていた柏場が死んでいた。

「かし……」

 名を言いかけて首を前方へ向ける。感じとったのだろう。――死体の気配を。

 みんな死んでいた。

 みんなは、部屋は、一色で塗り潰されている。

 月明かりだけでは色など判らぬが、少年にはそれの色がわかった。

 ――赤。

 まるで夢のようだ。

 空間を支配する血の臭い。

 背中、胸、首――さまざまな箇所を鋭利な物で斬られ、血溜まりで眠る子どもたち。

 天井まで走る飛沫と小さな手、足、体を引きずった血痕。

 子どもたちの叫び声が残響している。

 以前にも見た、悪夢そのものだ。

 縁側に通じる戸が開いている。血跡は外にまで続いていた。

 ぬるり、ぬるりとする赤の上を歩いて、少年は戸に近づく。滑ってまた転びそうになった。

 その赤が自分の足裏から出ているのではと錯覚しだした頃、戸にたどり着いた。

 縁側を境に赤は途切れ、夢の境界のようだった。

 境界の向こうは更なる悪夢であることを、少年は知る。

 向こうには、知った少女の後ろ姿があった。

 少女は――佐島さじまは振り向きこう言った。

「そんなところにいたんだ。捜しにいくところだったんだよ」

 いつもと変わらぬ柔和な笑顔。変わらないのに、いつもと違う。

 佐島が無事で喜ぶところのはずなのに、どうしてか喜べない。

「……さっちゃんは……どこにいたんでずか?」

 佐島はほくそ笑み「ここにいたよ。ずっと」

 ふふっ、と、吹き出す。そして、まるで愉快な劇でも見ていたかのように言うのだ。

「ずっとここで、みんなが死んでいくのを見てたの」

 絶句した。

 この少女はなにを言っているのだろう。

 なにがそんなに愉快なのだろう。

 みんなを殺したのは誰だろう。

 僕?

 僕がいたからみんなが死んだのか。

 僕が厄病神だから、みんなが死んだのか。

 僕が厄病神なら、この少女は、なんなのだろう。

「血、ついてるよ」

 佐島は自分の頬を指して言った。

「……さっちゃんは、なんなんでずか?」

 両手を後ろに愛らしい仕草で、佐島は答える。

「【人殺ひとごろし】」


 地上は『鬼』が跋扈ばっこし、人類を喰らう。

 が、命を摘むのは『鬼』だけではない。

 こんな時代でも、人が人を摘む。


「【人殺し】……?」

「人を殺すから【人殺し】。単純明快でしょ」

 それは個人を指すものではないらしい。佐島は名づけ方をくすくす笑った。

「今までずっと君のそばにいたんだよ。気づかなかった?」

 傍に、ずっと……?

 ずっとって、いつから――いつから僕の傍になにがいたって?

 思考するのが恐ろしい。

 答えの行きつく先には、途方もない恐怖が待ち構えている。目の前の少女と、同じ笑顔で。

 言葉を失った少年を置き去りに、

「“『鬼』から産まれた子”」

 佐島は紡ぐ。

「“生まれた頃は『鬼』の子の如く、感情の一切を感じず。三つを過ぎた頃からはまるで、人真似をしているようだ。人のふりをして近づき、死の代わりに不幸をもたらす『鬼』のようだ”……――話には聞いていたけど、まさか会えるなんて。たしの役目は君とは関係なかったんだけど、ついちょっかいだしたくなっちゃった」

 少年は漆黒の瞳を佐島へ向ける。

「役目?」

「寺子屋に潜り込んで、みんなを先導するの。【人殺し】のみんなをね」

「僕がいたからみんなを殺したのか?」

 突如、背後の寺子屋が燃えだす。驚いた少年は足を滑らせ、境界の向こうへ落ちた。

 火を放ったのは「みんな」だった。

 それは家屋を破壊するためであり、撤退の合図でもある。

 佐島は半身で少年の問いに答えを返す。

「半分間違いで、半分正解。寺子屋のみんなは、君がいなくても殺した。たしが来たのはそのためだもの。半分正解なのは、君に意識が向いているお陰で「みんな」が動きやすくなったから。いつもね」

 少女の後ろに彼女と同じ、無染の着物を着た「みんな」が見えた。

「じゃあね、厄病神くん」


     4


 なにかに浸かっている感触の中、少年はまぶたを開けた。

 そこにあるのは瞼を閉じているのと変わらぬ暗闇。

 温もりも冷たさも、においも音もない。あるのはなにかに浸かっているという感触のみ。

 指先を動かそうとする。

 と、確かに動かした実感があった。

 身を起こそうと手を突くと底が浅いのか、簡単に起き上がることができた。

 すると、光源のない暗闇の中に在って明瞭に姿の見えるものが三つ。

 自身の体と、自身が浸かっている鮮やかな「赤」。

 そして刀。

 さやに収まった漆黒の太刀。

 独りでにか支えている物が見えないのか、それは宙に浮いている。

 目が離せない。

 瞬きすることさえできなかった。

 手を伸ばしている。

 自分の意志の外で手を伸ばしている。

 そう自覚した途端、声が聞こえだす。

 ――取れ。

 ――取れ。

 ――取れ。

 幾人もの声が重なって、責め立てるように。

 ――取れ。

 姿は見えないのに確かに耳に入ってくる。不気味で恐ろしい。

 ――取れ。

 刀に手が触れる寸前。聞こえるのは契りの言葉。


 ――死して、生を得よ。


 取った。

 瞬間、よく知る臭いが少年を襲う。

 臭いと同時に襲ってくる強い意志。


 斬れ 斬れ 斬れ

 斬れ 斬れ 斬れ

 斬れ 斬れ 斬れ


 眼前で「赤」が集束する。

「赤」は一つの般若はんにゃ面と成り顔をおおった。

 般若面から刀と同じ、漆黒の毛が伸びていく。

 それは少年を喰らった黒鬼の髪によく似ている。

 次の瞬間、少年は刀を抜いていた。


 空が朱に染まる頃。黒鬼は少年を喰らってから一歩も動かず、夕日を背に立ち尽くしていた。

 と、黒鬼の腹に線が走り、中から小さな影が飛び出した。

 同時に赤黒い体液がどっと溢れ、影に降り注ぐ。

 影――少年は般若の面に身を覆い隠す毛皮を被り、手には抜き身の太刀を持っている。その姿はまるで鬼神の如し。

 降り注いだ体液を毛皮が弾き、少年を避けるように輪を描く。

 腹を斬られ大量の体液が流れでても、巨体の黒鬼は死んでいなかった。が、それも時間の問題だろう。『鬼』とて血がなくなれば息絶える。

 しかし少年は身をひるがえし、『鬼』の足を斬った。

 斬られた『鬼』の片足は鋭利な切り口からずるりと体勢を崩され、四肢を順に斬られていく。

 左手、左二の腕、右肩、右腕、右太股、右足首。

 斬っては跳んで、斬っては跳んで――。

 斬ったところが落ちるまえに跳び移り、黒鬼の体を駆けた。

 そうせずにはいられなかった。

 斬りほふることが手にした刀の意志、なのだから。

 四肢を失った黒鬼は木々を巻き込み、地に伏そうとしている。

 もう『鬼』は息絶えたというのに、まだだ、まだだと太刀がわななく。

 しかし少年はこれ以上、太刀を振るわなかった。

「――帰りたい」

 少年は平野と来た道を戻っていく。ひたひたと、赤黒い足跡を残しながら。

 気づかぬうち、太刀の黒が浮き出し、九匹の蜻蛉とんぼになった。

 うち七匹が飛び去る。

 二匹の黒い蜻蛉を連れて、少年は帰路に就く。

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