三 追憶――赤の夜/前

     1


 少年は『鬼』から産まれた。

 明瞭めいりょうには『鬼』のむくろに抱かれてみつかった。

 誠、奇怪な光景であった。完全に白骨化した『鬼』の骸。それを中心に広がる鮮血の池。そんな中ですやすや眠る赤子。

 人の子か『鬼』の子か……。

 ひとまず、みつけた男は赤子を連れ帰ることにした。

 男の家には妻と、その間にできた乳飲み子がいた。

 事情を聴いた妻は拒絶せず、己が子と違わず乳を与えたが、子は赤子を拒絶するかのように泣き通した。

 泣き通す我が子に比べ、赤子はまるで泣かなかった。

 どころか微動だにしなかった。生きているのか、死んでいるのか、疑うほどに……。

 それは赤子が乳離れする頃になっても変わることはなく、男はとある老夫の元へ駆け込んだ。

 老夫は寺子屋をしていたが、齢のため新徒は受け入れていなかった。

 しかし、男の懇願に赤子を受け入れた。

 五つになるまで、少年はこの老夫に育てられる。狩猟と言葉づかいと、生きるに必要最低限の事を教わった。

 名ももらったが、老夫は坊主、坊主と呼んだので憶えていない。

 三つになっても少年の瞳は虚空を見つめているようで、生気のない、空っぽの人形のようだった。兄弟子たちは不気味がったが、老夫だけは少年を見捨てなかった。

 少年が笑わずとも老夫はにかりと笑った顔を向け、ときにはガミガミ言い、ときには武骨な手で頭を撫でる。他の子と変わらず接し、育てた。

 四つになると少年は自ら言葉を発するようになり、物心がつくと笑うようにもなった。不活発ではあるものの、その瞳は目の前を見据えていた。

 少年は世界を知らなかったが、日々に充足を感じていた。

 成人した門下生たちが去り、寺子屋には老夫と少年と、兄弟子一人を残すのみとなった。束の間。

 寺子屋は焼失した。

 原因は油への引火。油が零れたのは、老夫が倒れた拍子のことだった。

 一人狩りから戻った少年が目にしたのは、赤く燃ゆる寺子屋と、炭になった老夫を抱き泣く、兄弟子の姿であった。

「おまえのせいだ……じいちゃんが死んだのはおまえのせいだっ!!」

 兄弟子の顔はまるでかたきを睨むが如く、憎悪に満ちていた。

 我のない少年は受け入れてしまった。

 じいちゃん先生が死んだのは自分の所為。

 自分は恨まれて当然なのだと。


 少年は当てもなく歩いた。新しい家を探して。

 それは寺子屋であったり民家であったり色々だったが、どこも、誰も大差なく。みな不幸になっていった。

 不幸になるのは少年の所為。みながそう言った。

 そしていつからか「厄病神」と呼ばれるようになった。所が変わっても、いつの間にかみながそう呼ぶようになっていた。

 しかし一人だけ、少年をあだ名で呼ぶ歳近い男児がいた。

 男児は濁点の多い、濁ったしゃべりをした。少年の「す」が濁る癖は彼の影響であった。

 彼は唯一友と呼べる存在だった。しかし顔が思い出せない。

 最後に見た彼の顔が、跡形もなく殴り潰されていたからだろうか。

 ただ、右頬に赤い傷模様があったことだけは憶えている。

 老夫が焼け死んだのも、男児が死んだのも、自分の所為。

 自分に関わったから、みな、不幸になったのだ。

 そう、思っていた。


     2


 人は他人をしいたげるとき、笑う。もしくは酷くいやしいものを見るように顔をしかめる。

 けれど少年を罵倒ばとうし、痛めつける奴は違う顔をする。

 恐怖、憎悪、怯え、不安、畏怖いふ。それらの滲む歪んだ顔。

 齢九つになってもそれは変わらなかった。

 が、今度は少し様子が違った。少年をいじめて笑う奴がいたのだ。

 新しい寺子屋に身を寄せてしばらく経った頃。

 少年が縁側えんがわに出た瞬間、顔面に雑巾が飛んでくる。

 雑巾は見事、左顔面にぶつかった。

「掃除しとけ」

 投げつけてきたのは同じ寺子屋に住む男児だ。名を柏場かしわばという。

 これが少年をいじめて笑う奴である。

 少年より身丈が高く、歳も上。誰に対してもつくろわず、周りを引っ張っていく質の彼は、寺子屋の中心人物だった。

 柏場につられて後ろにいる男児たちまで笑っている。

 言い捨てた柏場たちは背を向けた。

 少年はその背に雑巾を投げ返さない。投げられるのが当然だと思っていたからだ。

 今まで投げられた物を避けたり、言い返したりしたこともなかった。

 かといって泣きべそをかくこともなく、代わりに「平気な顔」をする。全く意に介していないような、そんな顔。渋い茶を飲んだときのほうが余程いやそうな顔をする。

 今回も「平気」な顔で、床に落ちた雑巾を拾った。

 当番だから言われなくてもやるのにな。

 そんなことを思っていた。

 この寺子屋では家事は当番制で、少年は掃除の当番だった。

 やりたがる者は少なく、以前からよくやらされたため、数少ない得意ごとになる。特に雑巾がけは大したもので、丁寧な仕事を他の倍速くこなす。

 さて、様子の違う者はもう一人いる。

 庭で帯跳びをして遊ぶ女児の中、無染の小袖を着た少女。短めの髪に、愛らしい顔立ち。人当たりのいい柔和な表情で笑う、名を佐島さじまといった。

 佐島は寺子屋の人気者だった。柏場が男児の中心なら、佐島は女児の中心といえた。

 入所初日、寺子屋で少年の質はまだ知られていなかった。佐島も例外でなく、気味悪がるどころか親切にしてくれた。教科書を逆さに見ていたところ、こっそり教えてくれたのだ。

たし佐島っていうの。さっちゃんって呼んでね」

 人称が「わたし」とも「あたし」とも取れる調子なのは彼女の癖らしい。

 翌日には寺子屋中に質が知れ渡っており、微笑んでそう言った彼女も話しかけてはこなくなったが。

 異物を見るような目を彼女はしない。無関心なのかとも思うが、そうではないとも感じた。


 夜には押し入れで眠った。そこが寝床だった。

 戸をへだてて他の男児たちが横になって眠っている。

 少年も最初はそちら側で眠ったが、次の日には押し入れに放り込まれていた。いつものことだ。

 押し入れの片側は葛籠つづらが埋めているため足を伸ばして眠れない。少年は身を小さくして眠る。

 物心ついたときには狭いところや隅っこにいるのが当たり前だった。今や身を小さくしていないとそわそわして眠れない。

 そのことに不満はなかったが、「平気」でもなかった。


 別の日。縁側に出た瞬間、雑巾が左顔面にぶつかった。

「掃除しとけ」

 柏場である。投げるのが好きな奴だ。

「ついでにそのきたねぇ顔もそれできれいにしろよ」

 そう言い捨て、柏場はぎゃははと笑う男児たちと去っていく。

 少年は雑巾を拾い、水を汲みに行こうと思った。

 そのとき、視界に手毬てまりが入り込んだ。

 転がっていた手毬は少年の目の前で止まった。

 顔を上げると佐島が小走りでこちらへ向かってくる。庭で女児と遊んでいたようだ。腰に付けたすずめの根付が揺れている。

 少年は手毬を拾おうかと思ったが、止めた。

 佐島は表情を変えることなく少年の前にきて手毬を拾う。

 そのまま戻るだろうと思っていると、

「ねえ」

 ただ上体を起こす動作の中、少女は言う。

「どうして避けないの?」

 目が合う。

「避けたらいいのに」

 周りからは話しているようには見えなかっただろう。

 呆然ぼうぜんとする少年を置き去りに、佐島は戻っていった。

 避ける?

 避けて、いいの?

 そのとき初めて、自身の常識が間違っていたやもしれぬと知った。


 水を汲みに縁側を歩く。と、庭で蹴鞠けまりをしている柏場たちが目についた。

 柏場たちはよく蹴鞠をする。

「おまえが見証けんぞしろよ」

「やだよ。俺は蹴るほうがいい。――おまえがやれば?」

「ふざけんな。てめぇがやれ」

 そして、いつも誰が見証――審判をするかでキャンキャン吠えている。ちなみに一人目が柏場だ。

 みなが鞠足まりあし――鞠を蹴る人――をやりたがり、なかなか決まらない。

 結局見証なしでやることになるのだが、それぞれ自分に都合のいい判定をしてまた揉めることになる。尊重するということを知らないらしい。

 交代でやればいいのでは。

 思いながら少年は見ていた。

 すると、柏場が少年に気づく。

「なに見てんだよっ」

 柏場は抱えていた鞠を少年めがけて蹴り飛ばした。

 いつもなら顔面や胴体なんかに命中するのだが。

 鞠は少年の横を素通りした。後ろの壁に当たって戻っていく。

 柏場たちは啞然あぜんとする。今まで外れたことなどなかったのだ。

「おい、柏しっかりしろよ」

「お、おう」

 男児たちは柏場が珍しく外したと思ったようだ。

 柏場は戻ってきた鞠を拾い、今度こそぶつけようと投げた。

 少年はそれをひょいと避ける。

 柏場たちはまたも啞然とした。今まで避けられたことなどなかったのだ。

 彼らは勘違いしていることがある。一つは柏場の制球はたいして正確ではない、ということ――

「な、おまえなに避けてんだ!」柏場は鞠を再び投げる。

 もう一つは的に当てていたのではなく、的が当たりにきていた、ということだ。

 少年は向かってきた鞠をまたも軽やかに避けた。そのまま場を逃れる。

 避けるとこういう反応をするのか。


「面白かった?」

 裏庭で水汲みをしていると背後から声がした。振り向くと縁側に佐島がいる。

 自分で問うたことの返事を待たず、

「次は言い返してみるといいよ」

 それだけ言うとまたどこかへ行ってしまった。


 少年は縁側の雑巾がけを始めた。

 先程ひと悶着あったところへ行くと、柏場たちが蹴鞠をしているのが見える。

 通り過ぎようとしたとき、壁になにかがぶつかった音がした。

 はてと思いつつ雑巾がけを続ける。

 身を反転して同じところへ迫ると、またなにかぶつかった音。

 今度は停止してそれを確認しようとする。

「おい」

 向くと、蹴鞠をしていたはずの柏場たちが横並びに立っていた。

「止まるなよ。的当てしてんだから」

 いつもなら掃除中に突っかかってくることはないのに、避けられたままでは気が済まないらしい。

 少年は音の正体を確認する。

 床に砂利が二つ転がっていた。

 壁が的ということはないだろう。

「的って僕のことでずか?」

 少年は柏場に問うた。

「だったらなんだよ」

 柏場や横の男児らはニタニタ笑っている。少年が反抗しないことを知っているからだ。

 しかし今日は違う。

「汚れるのでやめてください」

 少年はおくすることなく言い返した。

 言葉自体はなんの力もないが、少年が発しただけで力を持つ。

「おい、あいつ言い返したぞ……」

「厄もらったらてめぇのせいだぞ柏」

 あざけ笑っていても、ひょんなことで男児らの恐怖心は顔を出す。

 普段黙っている少年が言い返すだけで、なにかされるのではないか、不幸な目に合うのではないかと思ってしまう。

「嫌ならおまえらはしなけりゃいいだろ! びびりやがって」

「あ? てめぇがやれって言ったんだろうが!」

 男児は柏場を突いた。

「やれなんて言ってないだろ! やろうって言ったら喜んで参加してきたじゃねえか」声を荒げて柏場も突き返した。

 対する相手がすっかり少年から移っている。ついには取っ組み合いの喧嘩を始めた。

 もう一人の男児が仲裁に入るが、とばっちりを受けて喧嘩に混ざってしまった。元々相手を思いやる気持ちの乏しい彼らには無理な話だろう。

 周りにいた他の男児らが止めようとするが、喧嘩中の三人は寺子屋の年長で一番体格がいい。なかなか難航しそうだ。

 言い返すとこうなるのか。

「面白いでしょう」

 すぐ後ろから声がした。佐島の声だ。

 少年の背後には戸がある。戸の向こうに佐島はいるのだろう。

「もっと面白いものが見たかったら、今度は投げ返してごらん」


 翌日。縁側に出た瞬間、雑巾が飛んできた。

 少年はそれを避けず、片手で受け止める。

 雑巾が飛んできた方向には柏場と腰巾着の男児たち。昨日喧嘩していたが、和解したようだ。

 少年は受け止めた雑巾を投げ返した。

 乾いた雑巾では威力は生まれず、不意打ちでもないので簡単に止められてしまう。

 が、昨日の如く、少年の行動には力が生じる。

「おい、こいつ投げ返したぞ……っ」

「た、たたられる――――!」

 わあああ、と、男児たちはわめいて逃げ出した。

「おいっ、おまえら!」

 投げ返すとこういう反応をするのか。……投げ返したはいいけど、これでは掃除ができない。

 少年は雑巾のことを考えるほど、反応に面白味を感じていなかった。

 柏場はキッと睨みを効かせ、雑巾を投げ返してきた。それもまた受け止める。

「こんなへなちょこ雑巾、痛くもかゆくもねえ。涼しい顔してられるのも今のうちだぞ。ぜってー泣きべそかかせてやる」

 柏場は指をさして宣言した。

 僕が涼しい顔をしている? この人にはそう見えているのか。

「泣きべそなんてかきませんっ」

 寺子屋にきて初めて、少年は笑った。

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