二 厄病神の名/後

     2


「おかえりなさい。おやおや、どうしたんです? 土まみれで」

「ははは……」

 平野ひらのとともに畑から帰ってきた少年は土で汚れていた。

「こいつ、かぶを抜くのに盛大にひっくり返ったんだよ」

「そうでしたか。裏に井戸があります。汚れを落としておいでなさい」

「俺は夕飯の支度してるからな」

 平野は収穫した野菜を持って、さっさと行ってしまった。

「替えの着物が必要ですね。戻ったら上がって待っていてください」

 少年が戻って間もなく、宗間そうまも奥の部屋から戻ってきた。

 用意されたのは白の小袖に青の野袴のばかま。新しくはないがほとんど痛みのない、きれいな物だ。

 少年は小袖に袖を通した。

「よかった、ぴったりですね」

 続いて穿いた野袴もぴったりだった。青が少年によく似合っている。

 長いことしまってあったのか、着物からは押し入れのにおいがした。


 寺子屋に来てはじめての夕餉ゆうげ。平野と宗間が手を合わせるのに続き、少年も手を合わせる。

「いただきまず」

 献立は雑穀ごはんに蕪の味噌汁、鹿肉と絹莢きぬさやの味噌炒めと、なかなか豪華な食卓だ。

 少年はわんを手に持ち、絹莢を一つ箸で摘まむ。それをゆっくり口に運ぶと、これまたゆっくり咀嚼そしゃくする。

 もう一つ箸で摘まみ口に運ぶと、ごはんも口に入れた。口に運ぶ速さは徐々に増し、終いにはごはんを掻き込んでいた。

「おかわりお願いしまぶ!」口にまだごはんが入っていながら椀を差し出し催促する。

 平野は椀を受け取り、ごはんをよそってやりながら文句を言う。

「食べ過ぎると腹痛くするぞ」

 少年に椀を突き返すと「これ以上はでないからな!」と言って、自身の食事に戻った。なんだかんだで面倒見のいい平野である。

「わたしも味噌炒めおかわり」

「味噌炒めの余りはねえ。宗間には元々多めに入れてやったんだから我慢しろ」

 そういえば、

「平野は先生を先生と呼ばないのでずね」

「宗間は物を知ってるけど俺がいないとなにもできないからな。敬語を使うのは変だ」

「と、いうことなので、君も無理して先生と呼ばなくていいですよ」

「無理じゃないので先生と呼びまず」

「そうですか。平野は昔から先生とは呼んでくれなかったので、新鮮ですね」

 それは宗間がむかしから壊滅的不器用だったことを意味していた。

「ごちそうさま」

 逸早いちはやく食事を終えた平野は食器を下げに行った。

「……あの」

 平野がいないうちに、少年は気になっていたことを切り出す。

「先生はどうして僕の肩を持ってまで、ここに置いてくれたんでずか?」

 宗間がいくらお人好しで寛大でも、恩知らずの蕪泥棒を教え子と反発してまで住まわそうとしたのが不自然に思えた。

 山姥やまんばのように獲って喰う気では――とまでは思っていないが、なにか裏があるのではと勘繰かんぐってしまう。

「……君は勘がいいんですね」

 やはりなにかあるのかと、身を強張らせる。

「実は、平野の友人になってもらえればと、君を引き止めたんです」

 思っていた理由と違い、肩から力が抜けた。

「あの子は、物心ついたときにはもう寺子屋にわたししかいなくて、友人といえる子がいないんです。この辺りには子どもがいませんし。そこに平野が君を担いできて、この子なら、平野の友人になってくれるのではと」

 少年は驚いていた。

「平野は口は荒っぽいですが、君がきて、喜んでいると思うんです。心根は優しい子ですから……わたしの目論見を知ったうえで、仲良くしてやってください」

 これほど他人ひといつくしむ人がいるのかと。

 宗間の声、表情、瞳からは平野に対する慈しみが溢れていて、まるで、我が子を見守る父のようで。

 少年は微笑んで「はい」と返した。


 片付けを終えた平野は布団を用意しに、自室へきていた。

 今までは平野の一人部屋だったが、少年がきたため今日から二人部屋だ。

 照らす物が蝋燭ろうそくだけの薄暗い部屋。

 ふと、箪笥たんすに違和感を覚えた。

 引き出しの一つに手をかけ、開ける。

 と、着物が爆発するように溢れ出した。平野は着物に埋もれてしまう。

「……宗間ぁ」

 少年に渡す着物を自力で探しだした宗間だが、見つけたあと、うまくしまい直せなかったらしい。

 宗間が自身でなにかすると、平野に倍の手間をかけさせるのだった。


 翌朝。

 少年は大量の疑問符を浮かべていた。目をぐるぐるにして混乱中である。

 寺子屋は手習い――つまりは勉学を教えるところでもある。

 そして現在、少年が寺子屋にきて初めての手習いが行われているわけだが、訳がわからない。目の前の木板に書かれた内容が全く理解できない。

 木板に書かれているのは高度な医学の知識である。

 それに齢十つ――少年の一つ上でしかない平野は、なんの疑問も抱かず受け入れていた。いつもこの調子なのだろう。

 少年のあまりの様子に、二人の視線は木板ではなく少年に向いていた。

「おまえ、大丈夫か?」

「はひ~」

 まともな返事ができないほど理解が追いついていなかった。大丈夫ではなさそうだ。

「すみません、ついいつもの調子でやっていました。なにぶん、新しい生徒を教えるのは久しぶりなもので」

 ちょっと待っていてくださいと手習いを中断し、宗間は部屋を離れた。

 ドサドサッ、という音ののち、間もなく本や巻き物を抱えて戻ってきた。

 間違いなくなにか落としたなと思ったが、平野は突っ込まない。

 宗間は机を挟んで少年の向かいに座った。

「君の学力を知りたいので、わかるところを教えてください」

 持ってきた書物から適当な物を選び、机に広げる。読み書きの学習に使う物で比較的簡単な漢字が使用された文章だ。これが読めれば年相応といえる。

 少年は開かれた頁の端から端まで視線を巡らすが、

「……わかりません」

「平仮名も読めませんか?」

 少年は身を縮め、同じ言葉を繰り返した。

「ふむ……では、読み書きは平仮名からということで、計算はどうですか?」

 宗間は次に計算式の書かれた巻き物を広げた。これは手習い用に、宗間がむかし書いた物である。

「文字が読めないならそれも読めないんじゃないのか?」

「そうですね。――まずこれは――」

でず」

 宗間が読みあげる前に少年は正解を言い当てた。

 二人は驚きの表情を浮かべる。

「ではこれは?」

「一が二つでず」

 式の解は十一だ。一を二つ並べたら十一と読める。

「そういう覚え方をしているんですね。――ではこれは?」

「これは?」

いつ

 難しい式も見せてみたが、少年は次々と正解を言い当てた。どれも二秒と考えていない。

「すごいですね」

「えへへ……数字なら読めるので」

「おまえ、寝方といい、ほんと変わってるな」

「おや、そうなのですか?」

「こいつ隣の布団で寝てたはずなのに、朝起きたら部屋のすみで寝てたんだ。座って布団にくるまって」

「横になって眠るの、落ち着かなくて」

「今までどういう生活してたんだよ」

 一瞬、少年の表情に影が落ちた気がした。

「……ははは」

 少年は笑って濁した。

 平野もそれ以上は追及してこず、その後も少年が己の過去を話すことはなかった。


     3


 少年が寺子屋にきて十日になろうとしていた。名が決まっていい頃だろうに、宗間の案が大変酷いもので、少年は未だに名無しであった。

 この数日のうちに少年は簡単な漢字を覚えるまでになり、その物覚えのよさには目を見張る。家事も平野に付いてひと通り教わった。至らないことばかりだが、雑巾掛けの速さでは平野を驚かせ、休日にはきじを獲り寺子屋に貢献している。今度、平野に狩猟を教える約束がある。

 日々は平穏そのものだった。

 しかし、そんな日々に変化が訪れる。事の発端は朝餉あさげの際、平野の発言であった。

「米がない」

 米の備蓄が底を突きかけていた。

「おやおや困りましたね。はたさんがまだ来ないんですよ」

「はたさん?」

「寺子屋にいつも来る行商人」

「二~三週に数回、食料や日用品なんかを持ってきてくれるのですが……そういえば一月ひとつきほど見ていませんね」

 生活に必要な物は行商人なくして手に入らない。

『鬼』の出現で買い物に行くということができなくなり、問題になったのは生活必需品の入手だった。町で暮らしていた者ほど問題は深刻で、飢えで死ぬ者が続出した。

 家の者だけでその全てをまかなうのは難しい。近隣の者と協力しようにも、隣の家まで三里離れているなんてこともざらだ。

 そんなとき現れたのが今の行商人だった。決まった地区の家を巡り、家から家へ、橋渡しを担ったのである。

 この行商人は各地に広まり、人々にとって欠かせない存在となった。

「なにかあったんでしょうか?」

「そうかもしれません」

「死んではないだろ」

「そうですね。死んではいないでしょうね」

 少年はこのときはてと思ったが、後に旗とはそういう男であると、自然と納得する。

「平野、あと何日持ちますか?」

「畑の野菜を合わせても二日持たない」

 糠漬ぬかづけだけでいいなら別だけど、と付け足す。

 宗間はしばし思案して、

「では半日待ってみましょう。半日待って来なかったら、捜しに行きましょうか。川沿いのご主人ならなにか知っているかも」

「俺が行ってくる」

「一人で行く気ですか?」

「誰か留守番しないといけないし、こいつを一人にもできないだろ」

「では二人で行っておいでなさい。まだこの辺の地理には詳しくないでしょうから、案内も兼て」

「こいつとぉ?」

 平野は嫌そうな顔で、内心めんどうくさいと思っていた。大概のことを一人でこなす平野からすれば、荷物が増えるようなものだ。

「平野がいいと言うなら行きまず」

「……別にいいけど」

 そう言いつつも、平野の顔はやはり嫌そうだった。

「おまえ、途中で寝たりしないだろうな?」

「しません。長時間歩くのには自信がありまず」

「言ったな。寝たら置いて帰るからな」

 宗間は子どもたちのやりとりを微笑ましく見ていたが、ふと思い出し会話に入る。

「そういえば旗さんに渡す薬、用意してありますか?」

 今や銭の類は金属としての価値しかなく、行商人はそれぞれの家が生産できる物を代金として、そして他の者に渡す商品として受け取っていく。

 この寺子屋では主に薬を渡していた。薬は生産できる者が限られ、重宝される。

「ああ、前に作っておいたのがあるけど買う量が増えたし、作り足さないと」

「では今日の手習いは薬の調合にしましょう。――いい機会ですから、君にも調合の仕方を教えましょう」

「先生は薬の調合ができるんでずか」

「いえ、わたしは……」

「こんな不器用にさせられるかよ。五回に一回はこぼすし、すぐ薬研やげんを壊すし……」

 薬研とは薬種を細かくするための道具で、薬の調合には欠かせない物だ。そして寺子屋で使っている薬研は石でできている。もう一度いおう。石でできている。

「どうしてあんな物、簡単に壊せるんだ……っ」平野は疑問と込み上げた怒りで震えている。

「というわけで、させてもらえないんです」

 平野は気を静めるように息を吐き「ただ知識だけは本物だから信じてもいいぞ」

「わかりました。知識だけは信じまず」

「喜んでいいのか悪いのか」


 薬の調合を終え、正午を回っても行商人の旗は現れなかった。

 少年と平野は旗を捜すため、出発しようとしている。

「見つかっても見つからなくても、日暮れまでには帰るんですよ」

「うん」

「はい」

「あ、そうだ」ふと思い出し、平野は振り返る。

「帰ってくるまでにこいつの名前、考えとけよ。いいかげん不便だからな」

 ちゃんとしたやつな、と釘を刺す。

「わかりました。とっておきを考えておきます」

「じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい」

「行ってきまず」

 宗間は微笑みながら手を振って見送る。

 二人の背中が見えなくなると、部屋の中へ戻っていった。


 山の中腹まで来たときだ。

 枝葉を揺らす音で気づいた。

 山の反対側から、こちらに向かってくる。

 身丈は少年よりも、平野よりも高く、山に生えたどの木よりも高い。

『鬼』の足音はいつも静かだった。

 猫のように音もなく、気づいたときにはそこにいる。

 徐々に視界に入るその姿は全身黒い、筋肉質な男のような姿。髪の毛らしきものが腰の下まで伸びている。頭には二本の角が生え、その姿はまさに“鬼”と云うに相応しいものだった。

「隠れろ!」

 声を潜めながらも強く、平野は言った。

 脇にれて少し走ったところで、木の影に身を潜める。

『鬼』が通り過ぎるのをじっと待つ。

 動作緩慢ながら広い歩幅で、『鬼』は二人がついさっきいたところへすぐに達し。そのまま通り過ぎ――なかった。

『鬼』はその場で歩を止めた。

 平野の呼吸が荒くなる。

 息を殺さなければと思う気持ちとは反対に、動悸どうきまで激しくなっていく。

 平野に比べ、少年は落ち着いているように見える。

『鬼』は歩を止めたままだ。

 平野の呼吸はうるさいほどに荒さを増していく。口と胸を押さえて、必死に抑えようとしているのに。

 眼球が水気を増していく。平野は混乱状態に陥っていた。

 微動だにしなかった『鬼』の首が、二人のいる方へ回った。

 一瞬、平野の呼吸が止まる。

『鬼』の双眸そうぼうは間違いなく、二人の方を見ていた。

 歩みを止めた理由は定かでないが、今、二人の方を見ているのは平野の呼吸音を聞き取ったからだと、そう思える。

 平野自身、そうなのではないかと思っているに違いない。しかし、それを自分で収めることはもうできなかった。

 胸を押さえる手に別の手が重なる。

「平野、深呼吸」

 平野は口を押えていた手を外し、なにを言ってるんだとでも言いたそうにするが、言葉が出ない。

 少年が繰り返す。

「深呼吸」

 少年の落ち着いた――どこか宗間にも似た声音に、平野は半ばやけくそで深呼吸をする。

『鬼』が二人の方に向かって動きだす。

「深呼吸」

 構うなというように少年はうながし、平野はそれを繰り返す。

 あれだけ荒かった呼吸と動悸が収まっていく。

 完全に動悸は収まっておらず、はっきり鼓動がわかる。が、落ち着きは取り戻した。

 平野の様子が落ち着いたのを見計らい、少年は微笑む。それは、子どものする表情ではなかった。

「逃げて。先生のところに帰って」

 少年は添えていた手を離す。

「おま、なに言っ――」

「僕、厄病神って呼ばれてたんでず」

 平野の言葉を遮り、己に付いた蔑称べっしょうを明かした。

「僕に関わるとみんな不幸な目に合うんでず。何回も、何人も死んでった」

 一度や二度じゃない、百も百幾も。

 うつむいていた顔を上げ、

「最期に一人、救えるのなら……嬉しいっ」

 少年は笑った。

 これほど切ない笑顔があるだろうか。

 平野はさとった。自らを犠牲ぎせいにして自分だけを、生かすつもりだと。

 少年は立ち上がり、平野に背を向け歩を進めようとする。


「一緒にっ! 帰るんだろっ!!」


『鬼』が迫っているというのに、平野は思わず声を荒げた。

 ピクリと動きを止めた少年は振り返り、

「……お願いでずよ」

 駆け出した。

 すぐ後ろにまで『鬼』が近づいていた。

 木の影から飛び出した少年を『鬼』の双眸がとらえた。

 二人が何十歩も駆けた距離を数歩で詰めた『鬼』の手が、少年を捕らえる。

 平野は意味のない手を伸ばす。

「――っ」

 ――では、名前を考えなければいけませんね。


 名のないそいつを、なんと呼べばいいのだろう。


『鬼』の手が少年を連れていく。

 平野はそれを目で追う。

『鬼』は、少年を己が口に放り込んだ。


 人類を喰らう、絶対的脅威。

 人類に抗う術はない。


 少年が喰われる音のみが聞こえる。

 振り向いた少年の顔は、微笑みながらも泣きそうで。生への執着がちらついていた。

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