一 厄病神の名/前
1
少年は
長いこと人が足を踏み入れていない山、道はない。木々の間、茂る草を踏みつけて進む。
揺らした草から小さな羽虫が飛ぶ。葉の隙間から差し込む陽光に照らされ、光の粒のようでも、
背には風呂敷に包んだ
足取りを重くする鍋だが、幾度世話になったか知れない。最後に世話になったのはいつだったか。そろそろまた世話になりたい腹具合だ。
唐突に鼻がそれを嗅ぎ取った。血の臭いだ。
一つ深い息を吐く。と、臭いの強い方へ急ぎ足で向かう。
少年は別段鼻が利く質ではない。しかし血の臭いだけは、犬よりも敏感に嗅ぎ取ることができた。
これでいい思いをしたことは一度もない。が、役には立つ。
木漏れ日が降り注ぐ場所にそれはあった。鹿の死骸。さっき死んだばかりで腐敗していない。これなら食事にありつくことができる。
しかし先約がいた。
口元を赤く濡らした山犬が鹿の
食事を続けていた山犬が気配に気づき、こちらを見た。
山犬は血の
自分より大きな野獣が敵意を向けているというのに、少年は平静だった。
ただじっと、山犬から視線を外さない……。
睨み合いの末、退いたのは山犬のほうだった。
なにも映さない漆黒の瞳に恐怖を抱いたのか。
山犬が木々の向こうへ消えると、少年は腰の
鹿の死骸に近づき、肉を入れる鍋と竹皮を用意する。すぐに食べる分は鍋へ、いくらかは竹皮に包んで後で食べる。それでも食べきれない分はこの場に放置していく。先の山犬が戻ってきて腹に収めるだろう。
少年は腰の鉈包丁を引き抜き、無表情で肉を切り取った。
鉄鍋いっぱいに鹿肉を抱え、火を起こす場所をめざして歩く。場所の見当はちょちょいと木に登ってつけておいた。
と、木の根元に新たな食材を見つけた。
ぎゅるぎゅる、と、腹が嫌な音をだす。
少年は見知らぬ地を
少年は腹を下していた。
焼いて食った鹿肉が原因ではない。それの少し前、今より数刻前に食べた
苦かったのか相当いやそうな顔をして一口で捨てていたが、それでも十分な毒性があったらしい。
そこら辺の茸を採って食べることはよくあるが、腹を下したことはなかった。今までは運がよかったようだ。
実際、少年に茸の知識などない。見つけたら毒があるかどうか考える前に食べていた。というより茸に毒があることを知らない。教えてくれる人はいなかった。
今もどうしてこうなっているのか、わかっていないだろう。
ふっ、と意識が途切れ、少年はついに倒れてしまった。
このままここで野垂れ死に――。
と、そこに
「……鍋?」
少年が目を覚ますと、そこは道端ではなかった。
まず視界に入るのは木目の見える天井。肌に感じるのは柔らかな布団の感触。
少年は布団の上で横になっていた。
横になって眠るのはいつぶりだろう。布団というのも珍しい。
ぼんやりした意識のまま上体を起こし、周りを見る。
見覚えのない部屋だった。
白い紙の貼られた障子。ささくれ立っていない畳。目立った傷のない柱や壁。
時代でも
籠には青々とした
蕪を映した少年の瞳は
気づけば倒れるほどの腹痛はどこかへ消え去っている。
少年は蕪を手に取り、指で土を
「おい」
目の前に備中鍬を構えた少年が立っていた。
三白眼でこちらを睨んでいる。
「この蕪泥棒」
今にも鍬を振り下ろしてきそうだった。
鍬を持った少年の顔と、己が手に持った蕪を交互に見て、少年はようやく目が覚めたらしい。
やってしまったという顔で口元を引きつらせた。
「ずみませんでしたっ」
少年は土下座していた。
三白眼の少年に連行され、家主の前に
因みに「す」が濁っているのは泣いているのでなく、少年の癖だ。
家主は名を
「食べてしまったものは仕方ありません。それより元気になったようで、よかったです」
宗間は怒るどころか誰とも知れない少年の身を案じていた。その隣で睨みを利かせる平野が閻魔なら、宗間は仏である。
「許すのかよ」
「蕪の一つくらい、いいじゃないですか」
「勝手に
「こうして謝っていることですし、許してあげたらどうですか?」
「い、や、だ」
閻魔様はかなり御怒りのようだ。
「あの」
視線が少年に集中する。
「どうしたら許してもらえるでしょうか……」
「…………」
無言が恐い。「誰ガ許スカ、畑ノ肥ヤシニシテクレル」ザクザクと、備中鍬で殴り殺されたり、「蕪ノ代ワリニオマエヲ食ッテヤル」ぐつぐつと、鍋で煮て食われたりと、行き過ぎた想像までしてしまう。
「……肉」
少年は一瞬びくっとした。「オマエノ肉ヲ差シ出シタラ許シテヤル」「腕一本デ勘弁シテクダサイ」と、変な想像がよぎる。
「――肉を獲ってきたら許してやる」
「……獣の?」
「他になにがあるんだよ」
少年の顔がぱっと明るくなる。
「それなら僕、鹿肉持ってまず。荷物の中に入ってるので取ってきまず」
言うや否やダァッと駆けだし、疾風の如き速さで荷を手に戻ってきた。荷を解き、竹皮に包んだ鹿肉を取りだし、差し出す。
「どうぞ」
包みの中身を検めた宗間と平野は、少し驚いた様子だ。
「これは君が?」
「はい。狩猟と獲物の
「そうですか。この辺りには狩りを
宗間は詫びの品に十分満足いったようだ。
問題の閻魔様はと、少年は視線を向け窺う。
「……許してやる」
「ありがとうございまずっ」少年は頭を下げた。
「どこへでもいっちまえ」
「はい。介抱していただいたようで、ありがとうございました」少年は再び頭を下げた。
荷を背負い出発の準備をする。
「君、どこか行く当てはあるんですか?」
「? いえ」
「よければこのままここに住みませんか?」
思いもしない申し出に少年は目を見開く。
当然、平野が黙って受け入れることはなく、つっかかる。
「なに言ってんだよ。ここに住まわせるなんて冗談だろ?」
「おや、冗談ではありませんよ。ここは寺子屋。行く当てのない子どもを住まわせるのは当然です」
寺子屋――『鬼』の出現以降広まった孤児院の別称だ。
『鬼』は人間を喰らうが、手当たり次第というわけではない。その多くは成人――肉付きのいい若者を好む。中でも筋肉質な男が狙われやすい。
この世代は子どもを
以前の時代より孤児院は存在したが、時代の変わり目、寺の
その形態は個々別々。学問に力を入れている処、道場のように武術を教える処など。外から通う子どもも教える寺子屋もある。
ここも各地に存在する寺子屋の一つであった。
「~~でも……」
無断で蕪を食ったこと、許しはしたが信用はしていない。道理はわかれど受け付けないといった様子だ。
「それに、狩猟のできる人がいるのはありがたいでしょう?」
「それは……まあ……」
「追い出す理由はどこにもないでしょう。それでも嫌だと言うなら、平野、君が出て行きなさい」
宗間は保護者らしく強気にでた。しかしそれが
「…………わかった。俺が出て行く」
平野は自らが去る方を選び、部屋から出て行こうとする。
と、戸の口で立ち止まり、言い残す。
「今まで俺がやってた炊事、洗濯、掃除に畑の世話。これからは宗間がやるんだな」
なにやら雲行きが怪しくなってきた。
「まあ二人になったんだし、問題ないよな? そうそう、
「まって。ごめんなさい、まって」
宗間が平野の腰にしがみつき、必死に引き止める。
実のところ、寺子屋の家事は平野が一人でこなしていた。宗間は壊滅的な不器用で、家事もなにもできたものではない。今まで生きてこられたのが不思議なほどだ。どちらが保護者かわからない。
本当に平野が出て行ったら、少年は大変な苦労をすることになる。
「あーもー冗談だよ! みっともないからやめろ」
今回は
「おい」
尚も
「次、変な真似したら出てってもらうからな」
「はいっ」
こうして少年は寺子屋に身を置くこととなった。
尚、少年の中で寺子屋の頂点に平野が位置付けられたことは、言うまでもない。
「まだ名乗っていませんでしたね。わたしは
宗間は線が細い
「おい、いいかげん離せよ」
平野は帯を掴まれ、未だに解放されずにいた。
「で、この子が
宗間は構わず続けた。
平野は三白眼で吊り目のせいか、目つきが悪い。束ねて尚、荒々しく跳ねる剛毛と態度も合わさり、人馴れしていない獣を思わせる少年だ。
膝丈の小袖から伸びる脚や腕は筋肉質で、色白の宗間に反して健康的に焼けている。
「紹介とかいいから。俺、畑の世話残してんだよ。絹莢枯れてもいいのか――っぶ」
「か」を半音いったところで解放された。前に重心を傾けていたため、床と顔面が接触した。
因みに絹莢は宗間の好物だ。
「畑の世話は彼の名前をきいてからでも遅くありませんよ。――君の名前も教えていただけますか?」
少年の顔から明るさが消えた。
「…………名前は、ありません」
起き上がった平野も少年に視線を向ける。
「…………」
言葉を続けられず、少年は顔色を悪くした。
身寄りがないとはいえ、この歳で名がないのはおかしい。
しかし宗間は
「では、名前を考えなければいけませんね」
少年は
「名づけなんてできるのか?」
「今まで機会はありませんでしたが、きっといい名前を考えてみせます」
「不安だな……。試しに言ってみ」
宗間がなにも訊かないからか、平野も調子を変えることはなかった。
そんな二人の様子に少年の顔に明るさが戻る。
「よろしくお願いしまず!」
突然の声に視線が集まる。
少年は名づけに対してよろしくと言ったのだが、宗間はこれからという意味で受け取ったらしい。
「よろしくお願いします」
(……ん?)
言葉の不合致に少年は疑問符を浮かべるが、深く考える前に平野が部屋を出て行く。
「じゃあ俺、畑行くから」
「あ、平野ちょっと待ってください。――今日は手習いがありませんから、君も付いて畑を手伝ってください」
「はい」
立ち上がり部屋をあとにしようとしたところ、宗間にちょいちょいと袖を引かれる。
宗間は顔を近づけひっそりと、
「倒れていた君を連れてきて
介抱してくれたのが平野であったことには驚いたが、宗間がなにを言わんとするのかわからない。
が、次の一言で合点がいった。
「大丈夫」
不思議だ。
出会って間もないこの男の言葉に、安心を覚える。
「行くぞ」
待ってられないと、平野が庭から声を上げた。
少年も続いて縁側から庭へ出る。
爽やかな風が頬を撫でた。
さああ、という草の擦れる音に垣根の向こうを見る。と、荒れた段々畑が広がっていた。今はもう僅かな区画しか使われていない。
荒廃した景色の反対にはそこだけ時間が止まっているような、立派な建物。
山と山の間に
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