第5話
1週間は早い。競馬をしている人々の多くはそう感じていると竜野は予想している。
土日が過ぎると、次の土曜日の為に仕事に向かう。変わらない毎日を消化して週末を迎える。慣れてしまうと時間は勝手に摩耗するのだ。
自身も先週の快勝も忘れたかのように別の馬に跨り、新たな戦場に向かう。
その日の1レース。中山に来ていた竜野は珍しく困っていた。
「お前ホントに水曜日と同じ馬かよ」
竜野が騎乗するモクモクは前走、前前走と続けて2着だった。その時も竜野が騎乗していたのだが、人気は12番、3番と徐々に人気が上がり今回は堂々の1番人気だ。
その1番人気様のやる気が全く感じられないのだ。俗に言う"覇気がない"というやつ。
水曜日の追い切りでは実に素晴らしい走りを見せて、竜野は勝ちを確信していたレベルである。
それがどうだ、まるで別馬の様になってしまっている。
「まあ、頑張ってみますか」
それでも勝ちに向かう姿勢消えないのが竜野の美徳だが、そう簡単にヤル気を出させる事が出来れば苦労はしない。
モクモクを引く厩務員ももちろん変化に気付いており、心配そうにしている。
「竜野さん、すみません。こっちに来た瞬間からこんな調子で……2戦前に戻ってしまったみたいで」
「気にしないで下さい。多分輸送が原因でしょうね。自分が何とかしてみますよ」
そうは言ったものの、正直2戦前より酷いと感じている竜野だった。能力だけなら重賞を走っていてもおかしく無いのだが、それだけでは勝てないのが競馬である。
G1馬が下のクラスすら勝てなくなるのは能力の衰えだけが原因ではないのだ。
「さて、どうしたものかな」
ここに来て前走で勝たせてやれなかったのが悔やまれる。そして、竜野の騎乗がオーナーに気に入られてしまったのも悪いほうに出ていた。
関西馬のモクモクは開催があるなら関西を軸に出走すべき馬だ。未勝利戦なのだから尚更だ。
しかし、この2走で竜野を気に入ってしまったオーナーから指名があり中山で騎乗予定だった竜野に合わせてこっちまで来たのだ。
「いつかは重賞を走るんだ。今のうちに輸送経験させといた方が良い」
もっともらしい事を言っての強行が現状を作った。
ゲート入りまでにヤル気が上向いてくれればと思っていたが、結局モクモクがヤル気を出す事は無く発走を迎えた。
スタートは難なく飛び出したが案の上ダッシュがつかない。ズルズルと下がっていきペースが落ち着いた頃には後方から3番手だ。ダート1200という距離を考えるとレースを見ているファン達は負けを疑い始める。
「一番人気だろ! 伸びてくるよな!」
「だから、重賞以外で竜野の一番人気は駄目だって」
「竜野らしいわ」
「いやいや、竜野はこっからだから」
「そもそも、この馬なんで一番人気だったの」
1レース目から場内をざわつかせる竜野だが、当の本人には聞こえちゃいない。げんなりとしながらモクモクの手応えの悪さを手綱越しに感じている。
何も出来ないままレースは後半戦に差し掛かり、最後方にいた馬が仕掛けコーナーを捲くって行く。モクモクは抜かされ、その背中は遠くなるがモクモクからの反応は無い。直線入りさらにもう一頭にも抜かれるが、気配は変わらない。
先頭は既に10馬身は離れている、目の前の馬の背中も2馬身先だ。それでも、竜野は馬を追わずに待っているがーー
「駄目か。リミットいっぱいだ」
呟いた瞬間、モクモクから待ちに待った手応えが返ってくる。前に進もうと自ら加速を始めた。
「いい子だ! まだ遅くない」
その手応えを更に加速させる為に、鞭を振るい更に気合いを入れさせる。
しかし、他も馬もまだ脚が残っているのか差は少しずつしか縮まらないーーが残り100の標識を通過した辺りから景色が一変する。
周りの馬が止まっているかの様な加速を始め、減速を始めた他馬を飲み込んで行く。
前で唯一粘っていた2番人気の馬を捉えたかと思ったその瞬間、2頭が並んでゴールした。
掲示板には写真判定のランプが点灯しているが、竜野は結果を見るまでも無い。
「残念だったな。次こそ勝たせてやるからな」
その言葉に嘘は無いし、勝てる手応えはある。モクモクは賢い馬だ。今日の経験も糧に出来るだろう。能力も賢さもある馬は上に行ける。それを証明する為に竜野は勝たなければならない。竜野の1日はそんな決意と共に始まるのである。
その日メインレースは皐月賞トライアルの弥生賞。
本日8レースに乗り、勝ちは無いが2着3回の竜野が乗りに来たレースだ。
未勝利、条件戦と圧勝してから、この舞台に上がったカウントエスケープは現在5番人気。
「良い人気だなエスケープ」
ここが並のOP戦なら1番人気だっただろう。しかし、3歳トライアルとなれば話は変わってくる。
1番人気の阪神FS王者や、2番人気の無敗での京阪杯勝馬、ホープフルステークスの
2、3着馬がそれに続く。重賞の実績は信頼出来るし、実際に強者である。
但し、人気なんてモノはただのファン投票である。誰が勝つかを予想するだけで、その確率が高い訳でも、その馬が強い確証がある訳でも無い。もちろん強い馬は勝つのだが、勝った馬が常に強い訳でも無い。
重賞を1度勝って、それっきりという競走馬も山のようにいる。もちろん、一度も勝て無い馬の方が多い訳だが――カウントエスケープを買う一番のタイミングはここだろう。と竜野は心の中で思う。
勝つとは言いきれ無いが、勝てるだろうとは言えるぐらい信頼はしている。
今年のメンバーが低レベルなのでは無く、カウントエスケープが桁違いなのだ。
それを前走で確信していた竜野だ。前走の1勝クラスではゲートにも苦労せずにすんなりとスタート。驚く事に、竜野が押し出すよりも先にゲートを飛び出したのだ。
着差こそ違うものの、未勝利戦をなぞったかのような快勝だった。
「能力だけなら、歴代でも随一ですね」
レースを終えた後、カウントエスケープを管理する調教師にそう言い放ったくらいだ。
但し、竜野にはもう一つの確信があった。
「ただ、今日の好スタートですが馬が考えて出たわけじゃないですね。前走で単走逃げ切る楽しみを覚えただけだと思います。なので負けるまでは逃げるしか無さそうですね」
そう、考えて走る馬では無く、本能のみで走る馬だ。そして子供だ。
その話を覚えているのか、厩務員の小林は顔を蒼くしている。
「今日、大丈夫ですかね。逃げれますかね」
「ああ、ロマンティコの事を気にしてるのか。まあ大丈夫だろ、あの馬は逃げ専用って訳でもないし」
前走のスタートと1完歩目からの加速を考えると、エスケープが抜かれる事は無いと確信している竜野には愚問だ。
返し馬の手応えも良くゲートも難なくおさまる――が、ここで問題が起こる。
最後の馬が一向にゲートに入らないのだ。競馬ではよく見る光景だが、先に入っているゲート難の馬からすればたまったものでは無い。
カウントエスケープもその一頭である。とは言ったものの、それは未勝利までのゲートが嫌いという感情では無く、早くぶっちぎりたいという感情から来ているのだが――悪くは無いが良くも無い。
ようやく全頭がゲートインすると、小気味良い音をたてたゲートがレース開始を合図した。
カウントエスケープのスタートは前走と同様に絶好だったが、後続馬を引き離す速度は前走以上だった。竜野は思わず舌打ちする。
「これは覚悟しないと駄目かもな」
普通に見るなら大暴走だが、ここ2走のパーフォーマンスを見れば期待したくなる逃げである。予想通りの展開なこともあり多くのファンは静観している。後ろから己の本命馬が差して来ることを願って。
そして、数字は正直だ。1000メートルを通過した瞬間に通過タイムが表情される。
59秒フラット。ペースの落ち着きやすい中山の2000では中々お目にかからないハイペース。それも重賞といえど3歳戦だ。異例のタイムだ。
しかし、カウントエスケープの暴走は止まらず、中山のタフな直線に差し掛かる頃には二番手と15馬身近い差があった。ファンは沸き立つ。
「竜野ーーーーそのままいっちまえ!」
「馬鹿野郎! 人気馬早く仕掛けろ!」
「流石にオーバーペースだろ。潰れる潰れる」
多くのファンが理解していたように、直線に向いてすぐ、その勢いが鈍くなった。
竜野は舌打ちをするが焦ってはいない。
「エスケープ。どうする、行くか止めるかはお前次第だ。出来れば、意地を見せてくれよ」
竜野は相棒に語りかけるかのように問いかけてから、エスケープへの鞭を初めて振るった。
鈍った脚は力を取り戻したが、二の足と呼べるほど立派なモノではなかった。
ただ、加速もしないが減速もしなかった。
後続との脚色の差は歴然だが、リードが大きい。
目に見えて差は無くなっていくが、セーフティリードと言えるだろう。
「ここが中山じゃ無かったらな!」
残り200を過ぎた瞬間、ついにエスケープの脚が止まる。中山の坂にスピードを奪われたのだ。遠かった後方からの蹄の音が異様に大きく聞こえたが、竜野は懸命にエスケープを追う。
エスケープもそれに答えるようにしぶとさを見せるが、後方からの気配は濃くなってくる。
「勢いが違い過ぎるだろ!」
竜野が奥歯を噛み締めた瞬間、急な加速を感じた。坂を登り切ったのだ。
それと同時に後方馬は坂に捕まり、その差が縮まらなくなる。
後続が坂を登りきり再加速を始める頃にはエスケープのリードは十分なモノへと変わっていた。
結果、2着馬に2馬身の差を付けての重賞覇者になったエスケープであった。
しかし、その姿は人馬共にボロボロだった。
「クッソ疲れる競馬だったな、おい――でもまあ、お疲れさん」
タフなレースで憔悴しているエスケープを労りながら、竜野は一つの決心をしていた。
満面の笑みで迎え入れくれた厩務員、調教師、さらにはオーナーまでいたが、馬を降りるとすぐに口を開く。
「一つ提案させて頂いてもいいですか」
竜野の申し出に真っ先に反応したのは、オーナーだった。
「ぜひとも、聞かせて貰おうか」
このレースに勝てた事を喜んでいる様だが、その目に浮かれは無い。経営者によくいるタイプで竜野は嫌いでは無い。だが、言いたいことは言うのが竜野という男だ。
「はい。差し出がましいとは思いますが、こいつ――エスケープの次走ですが、皐月では無くダービーに向かうべきかと」
先程までのお祭りムードが一転、竜野の周りを中心に温度が冷え込む。
「理由を聞かせて貰ってもいいかな」
「まず、エスケープの疲労です。このレースで消耗は見ての通りです。一ヶ月後の皐月までに回復するとは思えません。そしてもう一つ、これは自分が悪いんですが、今回でエスケープの弱点を晒してしまいました。おそらくG1では通用しないでしょうね。特に今回一緒に走った掲示板までの馬には対策されるのは間違いないです。万全ならやりようもありますけど、年末からの使い詰めでG1に出れるデキでは無いです」
竜野が言い終わるとオーナーは少し考える仕草を見せるが、表情を変えずに真っ直ぐと竜野を見る。
「それは君個人の意見だろ? 競馬は走って見ないとわからないんのではないかね」
「ええ、もちろんそうです。でも、走る前から分かる事もあります」
「もし私が君の助言を聞かずに皐月賞に出すと言えば君はどうする」
「どうもしません。オーナーの意向は最優先だと思いますからね。ただ、自分は依頼があっても乗りません。その後のダービーも含めて」
そうなれば皐月も負けるし、ダービーには出れる状況には無いだろうが――とまでは言わなかった。
「君の意見はわかった――駒澤さん。皐月賞までに逃げ馬の得意な騎手を探しておいて下さい」
駒澤は渋々と言った感じで、何も言わずに頷くだけだ。小林厩務員は先程まで興奮で赤かった顔を蒼くしている。
竜野は落胆を隠しもしない。
「残念です。さあ、表彰式に行きましょう」
残念には思うが引きずらない。物事が見えない馬鹿を相手にするのは無駄な事だと知っているのだ。勝ちにこだわる竜野は勝ち目の無い戦いはしない。
ロマンを求めるのも結構だが、競馬はギャンブル。全てが思う様に行く事など無い事を竜野は理解している。
それが面白くて、命を賭けてこの世界にいるのだ。
「竜野、考え直さんか」
困った顔の駒澤調教師だが、竜野も苦い笑いを見せる。
「もう決まった事です。皐月も頑張って下さい」
こうして、竜野とエスケープのコンビは解散した。
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