第4話
フリー騎手の平日は調教さえ済ませてしまうと暇だ。その時間はトレーニングと趣味にあてる竜野である。
昼前に全ての調教依頼を済ませた竜野が行きつけのトレーニングジムに向うと先客がいた。若手騎手の"塚田 文"はデビュー前から可愛がっている後輩だ。
「文、お前がこんな時間にいるなんて珍しいな」
まだフリーになっていない塚田は西にホープ調教師"野村 智人"厩舎の所属騎手である。
竜野の様に何年もリーディング上位の騎手はフリーになる事が多く、塚田の様な四年目の若手はまだまだ所属騎手である事が常である。
所属騎手は基本的に厩舎の仕事があり、自由に動けるのは16時以降な事が多いのでここで会うのは稀なのだ。
「ええ、昼から蘭子さんと食事の約束がありまして、お師匠から最優先だって言われたもので」
「ああ、そりゃ最優先だな」
「もうすぐ来るはずですけどね。カズ先輩も良かったら一緒にどうですか」
「馬鹿、よせ。俺が殺される」
軽い調子の塚田に対し竜野の断りは本気も本気。それが面白いのか塚田は吹き出す。
「そんなに怖い人じゃ無いですってーー言ってたら来ましたね」
塚田が目向けた先にはかっちりとスーツを着こなしたハリウッド女優クラスのスタイルの美女が立っていた。いかにも出来る若手女社長といっところだーー事実そうなのだが。
「文くん。お待たせ」
その声は何か意志を感じさせる力強さと、洗礼された美しさが伴っていた。それは時として人を恐怖に陥れるがこの二人は数少ない例外だ。
「殿山さん。この間はどうも」
「あら、竜野くん。こちらこそありがとう。いい騎乗だったわ」
「いえいえ、馬に助けられましたよ。1走前に乗ってた騎手が優秀だったんでしょう」
そう言ってから、チラリと横を見るが本人は、知らん顔である。
「それじゃあ、僕はシャワーに行って来るので」
それだけ言ってその場を離れて行く。その姿を見た竜野は肩を竦めるが、殿山蘭子の目は笑っていない。
「竜野くん。君はどうしてそういう事を言うのかしら」
それは、怒りというよりも呆れである。人によっては萎縮してしまうが、竜野は動じない。
「まあ、早く元のアイツに戻って欲しいってのが一番に理由ですよ」
「それは私もだけど、粗治療は良くないわよ」
「そうですね。でも、もう二年になろうって所ですよ。待っているのは俺だけじゃない。いつまでも調教ばかりを乗せてて良しとする騎手じゃない」
「でも、それは貴方のエゴでしょうに。人はそれぞれペースがある。得意な事も不得意なことも」
「諦めてしまうのも人です。殿山さん。俺はね、諦めたく無いんです。全てを肯定する事も否定する事も出来ない世界ってのは分かってます。だけど、諦めるのは俺には無理なんです。文の件も例外ではない」
竜野の真っ直ぐな目を見て殿山が薄く笑う。
「ホントに文くんが幸せ者ね。こんな先輩がいるんだから」
「いえいえ、アイツの最大の幸運は貴女に出会えた事だと思いますが」
「だといいけど」
否定も肯定もしない殿山だが、まんざらでも無さそうだ。機嫌を取った所で竜野は悪戯心を出す。
「そういえば、今から文とご飯でしたよね」
「ええ、彼の気晴らしにね。定期的に誘う様にしてるの」
「では、自分もご一緒しても?」
「貴方それ、本気で言ってる?」
思いっきり睨まれた。今度は正真正銘の怒りの感情だ。
「いえ、もちろん冗談ですよ。その表情が見れただけで満足です」
肩を竦める竜野を見て殿山の沸点が下がる。
「ホント嫌な騎手ね、貴方って。でも敵には回したく無いから、これからも宜しく頼むわよ」
「ええ、もちろん。先約がなければ依頼はいつでも受けさせていただきます。では、自分はトレーニングに戻るんで」
塚田が戻ってくる頃合いを見て、ストレッチ器具の方に向かう竜野。
「それじゃあ、竜野くん。私達は行くわ」
「先輩、お先に失礼します」
ジムを後にする二人の姿はお似合いだと思う竜野だが、決して口にはしない。
「さて、運動運動」
気合いを入れるように呟いてから、入念ストレッチを始める竜野であった。
30分程で体をいい感じでほぐしてから、筋力トレーニングをしようと器具に向かった所で、入口の方から知った声が飛んでくる。
「あー和義さんだー」
その間延びした声にげんなりする竜野。無視しようかと思ったが、その前に声の主は近付いてくる。
「こんな時間に会うなんてーラッキー」
「四谷さん。自分トレーニング中なのでーー」後にしてくれ
と言えば最後なので、絶対に言わない竜野。四谷と呼ばれた女性もそれを知っているので受け身にはならないーーと言うよりも彼女自身が"攻め"そのものである。
「えーじゃあ、終わったら相手して下さいー」
「すみません。トレーニングの後は約束があるので」
「えーそれ私も行って良いですか」
「良い訳ないでしょ」
「えーそれじゃあ、相手は男ですか、女ですか?」
「男です」
「じゃあ大丈夫ー」
それだけ言ってパタパタと立ち去って行く姿を見て竜野は、大きくため息を吐く。
「あれが今の世界で一番って、大丈夫か競泳は」
げんなりしている竜野はよそに、彼女"四谷 羽美"は可愛すぎる金メダリストとして絶大な人気を誇っている。本人たちにはまるで関係の無い話ではあるのだが、事実そうなのだ。小動物を思わせる容姿とガチな天然っぷりは老若男女問わず人気でメディアに取り上げらる数はその辺の芸能人では太刀打ち出来ない。
本音ばかり言うが、それが裏表の無いだとか、天然だと言われいつしか人気になっていたのだ。金メダリストの称号も手助けしたのは間違いないが。
そんな超人気の有名人はどうやら竜野にお熱な様で、それは様々なメディアでも公言している。好きなタイプを聞かれる度に
「騎手の竜野さんです!」
と元気よく答える。
そのせいで竜野の名前だけは無駄に有名人の仲間入りをしている。二人を揃ってキャスティングしようする番組も多いが竜野は全て断っている。ピエロになる事はかまわないが、それは競馬に関してだけだ。
誰かに好かれるのは嫌な気分はしない、しかも嫌いな所かアスリートとして尊敬出来るクラスだ。
だが、熱量の違いは人を疲れさせる。
竜野がぐったりした気分を立て直しトレーニングに戻るのであった。
トレーニングの後は気になっていた映画を見に行く。シネコンを出ると待ち合わせの時間まで10分
「完璧な時間計算。さすが俺」
自画自賛しながら待ち合わせ場所に向うと、待ち合わせの相手"曽我 賢"は既に到着していた。お互い片手を上げて挨拶をする。
「相変わらず好調そうだな」
「お前こそ、絶好調らしいな」
「同期が優秀なもんでね。馬と人を見る目だけは付いちまったのよ」
「良く言うよ。堅実さはお前が一番だっただろうが」
「どうだったかな。どちらにしても昔の話だ。それよりも早く行こうぜ」
曽我はさっくりとした態度だが竜野は一瞬寂しそうな表情を見せるが、すぐに笑顔作る。
「ああ、そうだな」
行きつけの店に向かう2つの影は楽しげに揺れている。
店に入ってからまず頼むのは二人揃ってヒレ酒である。一年中それが飲めるからこそ通っているのだ。さらに競馬好きの店長は二人の事を知っていて決まって個室に案内してくれる。
「先週はよかったな。次はG1だな」
「まあ、一つも落とせなかったからな。少しホッとした」
「何言ってんだよ。あのクラスの馬にお前が乗ってそうそう負けるかよ」
曽我はいやらしく笑っているが、竜野は安心した様に頷く。
「お前にそう言って貰えると自信が持てる。お前以上に馬を見れる奴は他に知らないからな」
こっち側に戻って来いよ。そう言えたらどれだけ素晴らしいだろうか。"最良"と呼ばれた曽我 光という元ジョッキーが馬にまたがれ無いのは竜野の苦痛でしか無いのだ。それを乗り越えて来た本人には何も言わないが、竜野が勝ちにこだわるのは曽我の存在は大きい。
「まあ、中の事はお前と天才様に任せるよ。外は俺が盛り上げてやるよ」
「ああ、任せろ」
競馬の話はそこそこに、つまらない雑談を始めた所で曽我の携帯が鳴る。
「はい、曽我ーーって着いたのか。俺の名前出したら案内してくれるからーーそう、それじゃあ頼むわ」
「天才様か」
「ああ」
どこか含みのありそうな相槌にツッコむ前に、個室のドアが開かれると、そこには二人の人物がいた。一人は競馬界の天才、神里。そしてもう一人は競泳界にスーパーアイドル四谷の姿があった。
唖然とする竜野を見て吹き出したのは曽我だった。
「お前、そんな顔出来るんだな」
「賢、お前が手回ししたのか」
「酷い言いようやな。そういうのアカンと思うな俺は」
何故か神里からの援護も入り、思いっきり顔をしかめる竜野。そして、神里は当たり前の様に曽我の隣に座り、空いている竜野の隣には四谷が座った。
「今日は2回目ですね」
とびっきりの笑顔を向けているが、困り顔な竜野。それを面白そうに眺める向いの二人。
「お前ら覚えてろよ」
「もちろん。覚えておいて貰わないとな」
「ホンマやで。結婚式はもちろん行くがな。そんな感謝せんでもええわ」
「お前らって奴らは」
眉間に皺を寄せている竜野をよそに、三人は盛り上がっていく。
「私、子供は三人が良いです! 男の子二人と女の子で」
「おお、ええな。それやったら賢のとこと同じやな」
「子供はいいぞ。マジ天使だからな。羽美ちゃんと和義の子なら絶対可愛いぞ」
その日の同期飲みは不貞腐れた一人と、やたらとテンションの上がった三人で行われたのであった。
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