第2話

 栗東の朝は早い。

 午前7時、日もまだ上り切らない薄暗いトラックの中で一頭の馬が駆けている。

 ミクルミルとその背に跨る竜野である。軽く流してるように見える六ハロンだが、実に美しいフォームと力感である。

 それを見守っていた調教師”林橋 力也”も満足そうな表情で彼女達を迎え入れる。

「和義。良さそうだな」

「ええ、さすがにお師匠の育ててる馬ですね。今のクラスならいつでも勝てますよ」

「それは、お前が乗ればって話か」

 林橋はいやらしく笑うが、これが彼の特徴、長所であり短所。何かと探ろうとするのは慎重な彼の性格を物語っている。豪腕と恐れらていた騎手時代からは想像出来ない程だ。

「やめてくださいよ。次走は決まってるんですから、とりあえずは勝たせてきますよ」

 そう、この馬ミクルミルはこの週末に出走する。舞台は京都の最終レースで二勝クラスの6ハロン戦。実に一年と一ヵ月ぶりのレースである。

「お前がそういうなら大丈夫そうだな。お前の本来の相棒に負けないレースっぷりを期待してるぞ」

「師匠。どこまで本気かわかりませんが、期待にはお答えしますよ」

 竜野らしく無い言いように驚く林橋だったが、一気に破顔して大きく頷く。かと思いきや申し訳なさそうな残念そうな表情を浮かべて重々しく言葉を発する。

「別件で一つ報告しておくとな。お前の忠告は聞き入れられず、ラックはオーナーの意向でフェブラリー確定したよ」

「そうですか、まあ仕方ない無いですね。アイツなら勝ってしまう可能性があるのが怖いですけど」


 同じく林橋が育てる、かつての相棒"サンコウラック"は現在の競馬界で最強馬の称号を手にしている馬だ。竜野は2年前の丁度同じ頃には三冠を確信していたし、実際に彼を背に2歳秋の未勝利から4連勝で皐月賞馬の称号を得た。

 しかし、そのまま続くかと思われたコンビは、ダービー前に突如解散される事になる。

「前走のG1で竜野君は良い騎乗で勝ってくれた。しかしだ、その前の重賞であわや斜行かというレースがあった。結局降着にはならずに済んだが、天下のダービーでそれをされると敵わん」

 ダービーの一週前にそう発言したのは、サンコウの冠名でいくつもの栄光を手にしている三好オーナー。元々悪い人では無いし、理不尽な乗り替わりを強いるような人でも無いのだが、この時は少し事情が違った。

 しかも、この十年間でリーディングトップ10を守り続けている竜野からの乗り替わりだ。それ相応の騎手を連れて来るなら納得もするが、選ばれたのは前年20勝するのが精一杯だったの三年目の若手騎手だった。

 もちろん、そのニュースにファンは怒り、アンチは狂喜した。

「ここまで勝てる馬にした騎手を降ろすとかありえんわ。竜野が乗ってなかったら皐月取れて無かったどころか、ダービーに出れてたからすら怪しい」

「これだから馬鹿オーナーは。弥生の時の斜行とか、完全に馬の未熟さだろ。むしろ竜野のおかげでで降着免れたレベル」

「あーあ。ラックのファン辞めるわ。しょーもな。ってかオーナーはダービー取りたくないんかな?」

「いいぞ! もっとやれ。これでダービーでこの馬キレる」

「馬はオーナーの所有物だしな。その人が乗せないってならいいんじゃね」

「乗り替わり如きでつべこべ言うな。こんなの日常茶飯事だろ」

「競馬人の夢、ダービーで私情を挟みまくるとは、やりよる」

競馬サイトの競走馬掲示板は荒れに荒れた。一向に沈静化を見せなかったが、それを治めたのは当の本人、竜野だった。

「まあ、良くあることです。人気馬を飛ばす事で有名な俺ですから仕方ないですよ」

 このあっさりした発言でファンもアンチも何も言えなくなり、ある人物の心に火を付ける。

 東の重鎮、神の手、熱血漢、ラストサムライ。数々の異名を持つ調教師"金崎 誠侍"だ。

 ルカ・モンテッラで3歳マイルG1を制した"キールロック"の騎乗依頼を竜野に持ってきたのだ。

 その週はルカがイタリアに帰るおかげで屋根が決まっていなかったのだ。体の空いた竜野に依頼が来るのはなんら不思議では無かった。

 これにファンは沸き立つ。"曲者"竜野はこういうシチュエーションでこそ力を発揮するのを熱心なファンは知っているのだ。

 竜野はもちろん二つ返事だ。

「依頼が無かったので丁度良かったです」

などと言ったとか言わなかったとか。

 こうして迎えたダービー当日。騒がれた割にはファンの判断は冷徹だった。

 一番人気は大方の予想通りサンコウラックである。それも単勝2倍を切るオッズ。続くのは皐月2着のファストステップ、青葉賞勝馬のマウンテントレイル。

 竜野鞍上のキールロックはG1馬ながら6番人気。距離不安の声が強かったのだ。

 前走のマイルカップも皐月賞に距離不安から路線を変更したと見られていたし、なんと言っても直前の調教に跨った竜野のコメントが影響していた。

「さすがはG1馬ですね。乗り心地が圧倒的に良い。でも、皐月賞を走ってたら自分の乗ってたサンコウラックに適正で負けてたかも知れないですね」

 最大の因縁馬との比較しての実質敗北宣言。そして、適正不足の肯定。

 厳しく本音を言うので有名な竜野だけに、この発言で人気は落ちきったのだ。それでも6番人気。

 その後人気に多少の変動はあったものの、2頭の人気は変わらぬまま発走を迎える。

 綺麗に揃ったかと思われたスタートだったが、直後の観客に歓声は一瞬にしてどよめきに変わる。

 確かに、逃げ馬不在と言われていたレースだが、その先頭に立ったのがキールロックだったのだ。距離不安と言われた馬でまさかの逃げ。

「さすがは竜野。やってくれる」

「おいおい、竜野は何やってんだよ」

「いいぞ、勝手に潰れてくれ」

「嫌な事してくるね。ホント」

「あーあ、絶対直線で失速するわ」

「最悪だ。俺、竜野の馬券持ってねぇわ」

 色々な所から色々な声が聞こえるが、レースをする18人は意外に冷静だ。この程度の事で狼狽える騎手に栄冠を手にする資格は無い。その事を知っている騎手だけが、この舞台にいるはずなのだが――

 その騎手達の判断は「放置」で一致だった。誰一人動かない――表面上ではそう見えたが本能的に手綱を緩めてしまった数名、彼らのダービーはそこで終わった。頭で分かっていても体はその通りに反応する訳では無いのだ。

 しかし、逃げるキールロックの鞍上竜野は心の中で舌打ちをする。

「予定と違うけど仕方ないか。最初から逃げるしか勝ちはなかったんだからな」

 ペースを落ち着けたいが、数名の失策によりキールロックのペースを変える訳にはいかなくなり、勝ちが少し遠くなる。

「分かっちゃいたけど、今年のダービーは怪物だらけだわ」

 呟いたものの、竜野の跨がるキールロックもまた怪物。コンビを組んで僅かだが、その事は竜野自身が一番知っている。だからこそ、着は拾いにいかず勝ちを優先する。

 最初の千メートル通過タイムは1分1秒、平均的なペースだ。予定とは違うが竜野はその都度レースを調整する。

 ペースは変わることなく進むかと思いきや、向正面で一頭動きを見せる。

 最後方で待機していた"サンコウラック"が前方の競走馬は次々と追い越して最終コーナーを曲がる頃には、キールロックの外から馬体を合わせる様に二番手まであがる。場内にどよめきと歓声と野次が飛び交う。これに竜野はまたも舌打ち。

「やだやだ、良いタイミングで上がって来るじゃねーかよ」

 しかし、キールロックも並の馬では無かった。直線に入り2頭が並ぶとそこから驚異の粘り込みを見せる。

 追抜こうとするサンコウラックだがそれを許さないキールロック、大歓声に押されて2頭が競り合う。

 残り1ハロンを過ぎた瞬間、歓声がさらに大きくなり2頭に差が開いた。キールロックが抜け出し、サンコウラックが後退する。

 流石にあのロングスパートは堪えたのだ。しかし、ファンが沸き立った理由はそんな事ではない。竜野もその事を知っているのか、必死に相棒を追い、残り100m。そこで、キールロックの脚も止まった。

 馬の力、展開、作戦。普段のレースーーいや、ダービー以外のレースなら勝負はここで決まっていただろう。

 しかし、ダービーだ。ドラマは終わらない。

 一頭の馬がサンコウラックを躱し、逃げるキールロックとの差をグングンと縮めゴール手前で並ぶ。

 勢いが違う、これは差し切る。誰もが確信した瞬間に二頭はゴールした。

 今日一番の歓声が場内を揺らし、後続馬が次々とゴールしていく間に少しずつ音量が下がっていく。

 そして、至る所でざわめきが起こり始める。

「どっちだ? 同着じゃないのか」

「いやいや、流石にあの勢いだ。差してるだろ」

「ぎりぎり残してるようにも見えたぜ」

「ここは天才の手腕が炸裂してるだろ」

「曲者だからな。これは逃げ切ったな」

 1,2着は判定のランプが点滅したまま、3着以下が確定した。その掲示板を眺めたファンは誰一人帰ろうとしない。

 十分後、場内に歓声とどよめきが響き渡る。

 それは竜野とキールロックの敗北を表示したのだ。

 そして、サンコウロックとキールロックの最新かつ最後の敗戦でもあった。


「まあ、去年は完全に二頭の年だったからな」

「そうですね。歴代最強とまで言われてますからね」

「何を他人事のように。その片割れ、キールロックの相棒さんよ」

「止めてくださいよ。キールは誰が乗っても勝ちますよ」

「それなら、ラックなんてもっとだ。競馬学校のひよっこに乗らせても勝てるだろうに」

 去年の古馬中長距離G1の6レースを全て攫って行ったサンコウラック、国内の短距離、マイルG1の4つに加えて香港スプリントを制したキールロック。確かに誰が乗っても勝てるかも知れない。

 但し、それは適正内での話だ。未知数の舞台でどこまで通用するかはわからない。竜野から見て、サンコウラックにダート適正は無い。

「それにしてもですよ。ドバイを見てるんでしょうけど、ダートは駄目でしょうね」

「それでも、能力で勝てると思うか」

「ええ、今は特に強いダート馬もいませんからね。でも、負ける覚悟はしといた方がいいですね」

 竜野の言葉に林橋は大きく息を吐く。

「負けるのは覚悟してるさ。問題はオーナー夫人だな」

「ああ、あの人は厄介ですからね」

 二人で顔を見合わせ肩を竦める。

「それじゃあ、自分は次の依頼があるんで」

「ああ、上手く乗ってこいよ」

「ええ、巧くね」

 いつものやり取りを終えて竜野は次の調教へと向かうのである。

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