曲者
Zumi
第1話 プロローグ
天候はあいにくの雨。スタンドを埋める人もいつもより少ない。芝生は雨を吸いすっかりと重くなってしまった。
それでもサラブレットは走り、騎手は手綱を握る。
そんな日の真冬の阪神競馬場の午前最後のレース。
第四レース 二歳未勝利 芝二千メートル
パドックを周回する十六頭、その主役たちに跨る十六人の騎手達。あるモノは興奮に鼻息を荒くし、また別のモノは淡々と歩き続け、これから向かう戦地へと思いを馳せるモノもいる。その中でも一際目立つ馬が、数少ない観客達の失笑を招いている。
一枠一番 カウントエスケープ 鞍上は竜野 和義
大柄なその馬は、パドックの中を駄々をこねる子供の様に暴れくるっている、大きく振る頭は鬣までも揺らし、四肢はチャカチャカとせわしなく動き回る。ゼッケンと汗がこすれて出来た白い泡がその胴を伝って”よろしく無い”状況を物語っている。その上に前走の未勝利戦ではスタートの大きな出遅れから暴走し、早々に先頭を捕まえるがレースを見ていたファン達の予想通りゴールをかけ抜けた時はビリである。さらにその前の新馬戦に至ってはレース直後に騎手を振り落としての競争失格。そんな前科もあり、今回で二度目の乗り替わりだ。つまり、走るたびに鞍上が変わる。目の前の馬を見ればその意味にファンは勘づくものだ。
そんな経緯もあり断然の最下位人気、単勝万馬券コースである。溝に金を捨てている奴がいる。とまで言われている有様だ。
そんな外野のざわつきも関係なしと言わんばかりにカウントエスケープの激しさはさらに増していく。
そんな中、ただの一人だけ冷静な思考で「今日はどうやって勝とうか」などを瞳をぎらつかせている男がいた。外面には出さない静かな闘志で。
上位人気馬に乗る騎手達はもちろんだが、それでも彼ほどの熱量は持っていない。むしろ、断然の最下位人気に乗ってそこまでの闘志を燃やしてしまう竜野こそが異質であるのだ。
普段は飄々としていて自由奔放という言葉を形にしたような奴だ。馬に跨ってもそれは変わらない。本気でやっているのか、ふざけているのか区別がつかない。一番人気に跨っては着外に沈む、人気薄に乗っては単勝一倍台を蹴散らす。競馬ではよくある事なのだが、それでもそんなイメージの騎手である。
もちろん成績を調べれば、一番人気でも勝つべきところは勝っているし、人気薄で勝ちまくっている訳でもない。人の心理とは恐ろしいものである。
そんな評価とは反対に、本人はすべてのレースを勝つつもりで騎乗している。乗る騎手によっては勝つことを諦め、入着狙いをしたくなるような馬の騎乗でも竜野は勝つ事しか考えない。
そんな竜野だが地下道を進む中、今回は勝つ事よりも重大な事を考えていた。
「どうやって競馬を覚えさせるかな」
誰にも聞こえないようにつぶやいたのだが、カウントエスケープを引く厩務員、小林には聞こえていたようだ。
「竜野さん。エスケに競馬を教えるって本気で言ってるんですか」
暴れる担当馬を宥めながら疲れた様子で聞くが、竜野は真逆の反応を示す。
「当たり前だろ。それさえクリア出来れば視界良好だ」
そう笑顔で答えながらターフを駆けていく一騎の背中を見送りながら幸運を祈る小林であった。
輪乗りに混ざることなく暴れる馬を宥めながら竜野は作戦を考えようとするが――やることは決まっていた。勝負は一瞬で決まる。作戦と言えるほどのモノでもないが、それしか選択の余地はないと腹を括っていたのだ。
そうこうしている内にゲート入りが始まり最内の白い帽子は最初にゲートに促される。入るときは問題ない。彼が敵意を見せるのは四方が囲まれてからなのだ。ゲートの扉が閉められた瞬間、竜野の背筋が一瞬にして凍る。
カウントエスケープから殺気と呼んで良いほどの空気が放たれる。不安、怒り、混乱、恐怖。様々な感情が狭いゲート内で渦巻くが、竜野は焦らない。この馬のゲート難は前の2レースを何百回と見返して把握している。
同調せず、何を見ているかを見る。そして馬――カウントエスケープを自分と同調させる。竜野が何を見て、何を考えているかを伝える。
ゲートに入った瞬間から、それだけの事に集中していた。
馬は喋らない。意思の疎通は困難である――だが高い知能はある。人の意図を理解するサラブレットも少なくは無いが、その馬に競走能力があるとは限らない。どちらも兼ね備えた馬でようやくG1に出れるかどうか。さらにその先は時の運、もしくは絶対的強者のみに与えられる。
竜野は今またがる馬にその可能性を見ていた。世代を代表する馬になる希望を――そう、この荒れ狂う気性さえ何とか出来れば。
「いいじゃないか、夢をみせてくれよ相棒」
つぶやくと同時に、小気味いい音が耳に響く。
カウントエスケープは過去二戦がウソのような絶好のスタートをきった。場内が一瞬どよめくに包まれるが、いつもの暴走だろとすぐに落ち着きを取り戻す。しかし、一部のコアな競馬ファンは驚きを隠しきれず、単勝万馬券を握りしめる馬券師は熱を帯びる。それを演出してい本人は鞍上で笑いを抑えるので精一杯だった。
一周目の直線を通過し二周目に入ろうかという頃、すでに後続との差は四馬身になろうとしていた。
無謀な逃げ、周りの目にはそう見えただろう。後続のサラブレットに跨る騎手達もトップを走る人気薄の馬など眼中にない。勝手に潰れるだろうと思い込んでいる。
「ここまでくれば、後は競馬を教えるだけだ」
調教で跨った感触で気づいていたが、カウントエスケープは単走ならとびっきりの走りを見せる。その評判で新馬戦は一番人気だった程だ。だが、それだけで勝てる程競馬は甘くないと多くの人は知っている。もちろん、鞍上の竜野も。
「エスケプ君よ。ここらで一旦抑えてくれると有り難いんだけど」
問いかける様に呟くが、走る本馬は聞いてくれはしない。唯一の救いはこれまでの2走と違い、馬自身が気持ち良さそうに走ってる事だ。しかし、バックストレート中間地点、後続は十数馬身後方でまさに一人旅である。
「折り合いって意味ではこのままがベストか。行けるとこまで行くか」
このペースだと流石に最後は追いつかれて接戦になるのは確実だと腹を括る。そこで競馬とは何かを覚えてくれれば――いや教え込む。
そんな竜野の期待は見事に裏切られる事になる。4角を曲がって直線に入ったぐらいでがっくりとペースが落ちると思ったが、そんな事は無かった。
確かにペースは落ちたが、後続はまだまだ後方、十馬身以上は離れている。残り400メートルでカウントエスケープが差される事は無いだろう。竜野は思わず笑みを漏らす。
「いいじゃないか。なんだよ、誰も邪魔しなけりゃ最強だってか。ただ――」
竜野が驚きと冷静さと呆れの入り混じった複雑な感情に浸っている間に、カウントエスケープは勝手にゴール板を駆け抜けた。もちろん誰よりも真っ先に、静かにざわつく場内の中で。初勝利である。
人は理解出来ないモノに遭遇すると無言になってしまう。唯一それを無視していたのは場内の実況である。
『なんとなんと! 最下位人気のカウントエスケープ! 二番手ステップボールに大差をつけての初勝利!』
約十馬身後方でようやく二着馬がゴールした瞬間、その実況に反応したかのように爆発的な歓声が降り注ぐ。
「なんであんな馬が最下位人気だったんだ!」
「タイムが二分一秒五だってよ! 重馬場だぞ! 怪物じゃないのか!」
「うおおーーー! 間違えて買った単勝が万馬券!」
「竜野ーーーーー! そのままクラシックまで持って行けよ!」
「竜野馬鹿野郎! こんな所で来なくていいんだよ! おめでとー!」
競馬ファンは強い馬をまじかで見ると魅了される。サラブレットはそれほど美しいのだ。
それをより間近で見る騎手もまた例外ではないが、竜野は冷静だ。厩務員の小林が馬を引き受けながら興奮気味にまくしたてる。
「竜野さん! こいつ凄かったですね!」
「いや、まだまだ。正直全く競馬を教えられなかったよ。まあ、スタートの重要性だけでも理解してくれてれば儲けモンかな」
次にどこを走らせるかは定かではないが、今日のパフォーマンスだ。一気にOP、重賞にチャレンジする可能性もある。ただ、このままで通用するほど温い世界ではない。
「まあ、次も機会があればよろしく頼むぜ。相棒」
こうして一つ勝ち星を増やして、しかしあっさりと竜野は次のレースに向かう。その瞬間の勝ちも負けも次のレースには置いて行く。忘れるわけではなく刻み込むのだ。サラブレッドの一部に。
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