第46話 溶けない氷

 クィルと別れを済ませた翌日の早朝。ナチ達も新たな旅路へと出発するという事で、ネルとシロメリアは、ナチとマオにある贈り物を渡していた。


「おお、馬子にも衣裳とはこの事だね」


 ネルは作業場の丸椅子に座り、目の前で恥ずかしそうに立っているナチとマオに向かって、そう言った。二人共ボロボロだった上着ではなく、シロメリアとネルが仕立てた上着を羽織っている。


 さすがに、短期間では全身を作る事は出来ず、仕立てられたのは上着だけになってしまった。それでも、上着が変わるだけで、大分印象は変わる。


 特にボロボロの白いコートを羽織っていたナチなんかは、印象の変わり方が顕著だ。


「変じゃないかな?」


「うん。変じゃないよ、ナチ」


 鋼色のコートを身に纏いながら、何度も姿を確認するナチは、照れ臭そうに頬を掻いていた。シロメリアの仕立屋にある最高級の皮や装飾を使用して仕立てた一級品のコート。


 コートに使った素材の値段を計算すると、貴族が泣いて値下げを交渉してくる様な値段に実はなるのだが、本人には言わない方が良いだろう。


 コートを返す、などと言いかねない。


「ポケットがたくさんあるんだね」


 上着に付いた六つのポケット。左右に三つずつ付けられたそれを、ナチは嬉しそうに口角を上げながら、頻繁に触れていた。


「うん。マオが付けてくれって言ったから」


「ちょっ、ネル!」


 顔を真っ赤にしたマオが、ネルに釘を刺す。本当に可愛い妹分だな、と思いながらネルは舌を出して、誤魔化した。


「え? そうなの?」


「そうだよ。お兄さんのポケットいつもパンパンだから、って健気に言ってくる可愛いマオの頼みを誰が断れるというのか」


「そんな事言ってないし!」


「えー、言ってたよ」


「……言ったけど」


 少し拗ねてしまった様子のマオに、ネルは苦笑しながら丸椅子から立ち上がった。そして、マオが羽織っているナチと同色のジャケットの襟を正した。


 二人の羽織っている上着が同色なのは、シロメリアの仕業だ。「二人は旅を共にする仲間なのですから、結束を強める為にも、色は同じにしましょう」などと言い出したのが発端。ネルも概ね同意した。


 その結果、最初は白色になるはずだったマオのジャケットは、ナチと同色の鋼色になった。


 マオのジャケットには特に変わった装飾は付けていない。ポケットが左右に一つずつ付いているだけの一見、何の変哲もないジャケット。だが、その代わり、重量が軽く、機能性も高い。


 マオが氷を使うという事もあり、防寒にも優れており、見た目よりも機能面に特化したジャケットと言って良いだろう。


 それに、マオは綺麗な顔立ちをしており、体型もスレンダー。シンプルな格好の方が、より本人の美しさが際立つという、世の女性を嫉妬の渦に巻き込みかねない様な現象を既に起こしていた。


「マオは何を着ても似合っちゃうから、特に驚きは無いんだけど、ナチはかなり印象変わるね」


 ボロボロの服を着て、男性にしては少し長めの髪の毛のせいか、浮浪者の様に以前は見えていた。が、新たなコートに着替えたナチは、浮浪者感が限りなく薄れ、割と整った顔立ちの好青年、という印象に変わった。


 あらあら、とシロメリアが僅かに眉を上げ、口を半開きにしている位には、ナチは変貌を遂げていた。正直、ネルも驚きを隠せない。ここまで大変身を遂げる事になるとは予想もしていなかった。


「身だしなみを整えれば、お前もまともに見えるではないか」


「それだと前までまともじゃなかった、みたいな感じになるんだけど」


「まともな格好では無かったよ、お兄さん」


「普通にやばい人だったかな」


 そんな馬鹿な、と少し視線を落とすナチの肩をマオがそっと二回叩いた。すると、笑顔を取り戻すナチ。それを見て、マオも笑顔を灯す。


 ネルはその光景を見て、自然と微笑を浮かべた。その暖かな光景を見て、ネルは一つの確信を得た様な気がした。


 この人なら、大事な家族を任せられる。甘えん坊で、我が儘で、でも人一倍優しいネルの大事な家族を、ナチになら任せる事が出来る様な気がした。


 ウォルフ・サリ以外にも大切な何かを見つけてほしい、とずっと願っていた。ウォルフ・サリに依存し過ぎるマオは、ずっと不安定な精神状態だった様に思う。


 すくなくとも、ネルがウォルケンに在住していた二年前までは、マオの精神は酷く不安定だったのは間違いない。


 けれど、この街に現れた時、マオはウォルフ・サリの人間ではない男性を引き連れていた。家族ではない男性に、素の自分を見せていた。


 それが、ネルにはとても不思議な光景に見えて、嬉しいと思うのと同時に、寂しくもあった。


 ウォルフ・サリ以外にも大事だと思える存在を見つけられたのだと、嬉しくなり、とうとうウォルフ・サリ離れが始まってしまった事に寂しさを覚えたのは、紛れもない事実だった。


 家族離れをマオに望んでいながら、いざ家族離れが始まると図々しく寂しくなっているのだから、我ながら勝手だな、と思う。


 分かってはいるのだ。自分がブラスブルックに移住し、夢を追い始めた様に、マオだって成長する。何かのきっかけさえあれば、マオも成長する事に。


 いつまでも、ネルの可愛い妹では無い事に。頭では分かってはいるのだ。


 それでもやっぱり寂しいと思う。手塩に掛けて育てた一人息子が旅立っていく瞬間と同じ。大事な妹が巣立つ瞬間も、やっぱり寂しい事なのだ。


 それに寂しくて良いのだ。だって、それはネルがマオを大事だと思っている証なのだから。家族なのだから。寂しいと思う事は当たり前の事なのだ。


 それから既に旅支度を終えていたナチ達と共に、ネルとシロメリアは扉を潜り、外へと出た。シロメリアの仕立屋の前で、変な置物を売っていた男性はもう居ない。


 その男性と入れ替わりで露店を開いている男性は、ネルが良く知っている果物を売っていた。


 同じ商売人として、軽く挨拶を交わしたネル達は、早々に男性と別れると、ブラスブルックの未だに修繕中の門の前まで歩いて行く。


 そして、ブラスブルックの外へと出たネル達は、戦場の跡が色濃く残る街道を見渡しながら、門から少し離れた場所で立ち止まった。


「マオ」


 ネルはマオを手で自身の下へと手招いた。素直にネルの下へと歩み寄るマオを、ネルはそっと抱き締めた。


「どうしたの? ネル?」


「大事な妹が無事に帰って来れます様に、っておまじない」


「……」


「困ったら帰って来なさい。私はマオのお姉ちゃんなんだから。遠慮なく頼っていいんだからね」


「……うん」


 マオがネルの腰に手を回し、強く抱きしめる。それに合わせてネルも腕に力を入れる。マオの背中を擦り、愛する家族の温もりを感じながら、目の前で微笑んでいるナチに視線を向ける。


「ナチ。マオの事、よろしくね。私達の大事な家族を頼んだよ」


「大丈夫。僕が必ず守るよ」


「うん」


 ネルは笑顔を浮かべて、マオから離れた。そして、ナチにマオを預ける。


「じゃあ、行っておいで、マオ。ナチ、イズも気を付けてね」


「うん! ネルも元気でね。シロメリアさんも」


「はい。皆さんも気を付けてくださいね」


「ああ、さらばだ、シロメリア。クィルをよろしく頼む」


「はい。任せてください」


「じゃあ、行ってらっしゃい」


「行ってきます!」


 ナチとマオ、そしてイズは、ネル達を見ながら手を振り、街道を進んでいった。徐々に小さくなる三つの背中。それも、すぐに見えなくなった。


 別れは寂しい。今でも、胸を締め付ける寂しさは心を蝕んでいる。でも、これは最後の別れではない。ネルもシロメリアも、三人と約束を交わしたのだから。


 もう一度、巡り会う為の約束を。だから、いつまでも寂しいと言っている訳にはいかない。


「さあ、帰って仕事しましょう、シロメリアさん」


「そうですね。戻りましょうか。仕事していないと、ネルが泣いてしまいそうですから」


「そんな事ないですよ。私はお姉ちゃんですから」


 ネルの頭をシロメリアが撫でる。優しく慈愛を含ませた笑顔を浮かべながら。


「もうマオさんはいませんよ?」


「……はい」


 地面に落ちていく、雫。黒い斑点を地面に作り上げていく涙を拭う事もせず、ネルはしばらく涙を流し続けた。


「やっぱり、寂しいものは寂しいんですよ」


 路地を歩きながら、ネルは言った。睫毛に付着した涙を指で拭いながら、鼻を勢いよく啜った。


「そうですね。でも、この寂しさも無駄な物じゃないですよ。寂しさを溜め込んで、次にナチさん達と再会した時に喜びに変えてやりましょう」


「じゃあ私、一杯寂しさを溜めます。溜めまくって一杯喜びに変えます」


「仕事に支障が出ない程度でお願いしますね。ネルには期待しているんですから」


「はい! お任せください!」


 シロメリアの仕立屋の前に到着した二人が、店の入り口に手を掛けようとすると、前方から三人の子供達がネル達に手を振りながら、走って来た。


「ネル姉ちゃん、シロメリアさん、おはようございます」


 口を揃えて言った子供達に、二人は笑顔で対応。二人はしゃがみ込んで、子供達と視線を合わせ「どうしたの?」と笑顔で言うと、子供達は手に持っていた透明な水晶玉をネルに渡してきた。


 それを手に持つと、ひんやりと冷たく、すぐにそれが水晶玉ではなく氷だと気付いた。だが、溶ける気配が一向に見られず、一見本当に水晶玉の様だった。


「これどうしたの?」


「これ、オレンジの髪のお姉ちゃんが作った氷。全然、溶けないから教えてあげようと思って」


「そうなんだ。ありがとね。でも、オレンジの髪のお姉ちゃんは旅に出ちゃったから、これは君達にあげよう!」


「本当?」


「本当だよ。だから、お姉ちゃんが帰った時に教えてあげれる様に、君達にはその氷を守る使命を言い渡します!」


「はい! 任せてください!」


「よろしい。じゃあ、お姉ちゃん達はお仕事があるから、じゃあね」


「お仕事頑張ってね!」


 そう言って、走って大樹の方へと歩いて行く子供達。


「元気で良い子達ですね」


「はい。元気で良い子達ばかりです」


「では、仕事に戻りましょうか」


「はい!」


 扉を潜りながら、ネルは先程の氷の事を考えていた。あの氷はおそらくナチとマオが特訓していた時に作られた氷。少なくとも五日以上は経過している。


 氷という物は、そんなに長期間、溶けずにいられるのだろうか。中には、そういう氷も存在するのだろうか。


 マオが作り出した氷だから?


「ネル? どうしましたか?」


「いえ、何でもないです」


 きっと、気のせいだろう。あの氷も、あと数日も経てば溶けて水に戻るだろう。きっと、そうだ。溶けない氷が存在する訳がない。


 でも、もし溶けなかったら?


 止めよう。ネルは首を横に振った。今は仕事に集中しよう。せっかく、期待してもらっているのだから。その期待に応えなくては。


 よし、と頬を両手で叩くと、ネルは店頭を抜け、作業場へと消えていった。

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