第45話 イズ
木々が月明かりを隠し、暗い森の中。先頭を歩くシロメリアは橙色の光を放つランプを前方へと照らしながら、獣道を進んでいた。
最初は、暗い森の中を照らそうとナチが符を作ろうとしたのだ。
だが、マオに「体調が万全じゃないのに、符なんか作るな」と怒られる事態が発生した為、シロメリアが持参したランプに火を点け、森の中を歩く事になったのだ。
ナチも一度、マオに怒られてからは符を作ろうとはしなかった。それからは、イズの案内で森の中を歩いて行き、暗い森の奥へと四人と一匹は歩いて行った。
自分達が森のどこを歩いているのか分からなくなる程に、歩いた頃だ。イズは、マオの肩から降り、先頭を歩くシロメリアを追い抜くと、そこで立ち止まった。
「ここからは我一人で行かせてほしい」
シロメリアとネルがスカートを押さえながらしゃがみ込む。その後ろにマオとナチが立ち、イズを見下ろした。
「一人で大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。悪いな、シロメリア。それにお前達も」
「気にしないでよ、イズ。私達は勝手について来たんだから」
「そうだよ、イズさん。それに私とイズさんは拳で語り合った中でしょ?」
「僕達はここで待ってるから、心残りが無い様にね」
マオがナチの肩を小突く。
「どうしてお兄さんは、そんな事言うかな。最後のお別れみたいになっちゃうじゃん」
「あ、ごめん」
襟足を触りながら、少し焦った様子のナチは苦笑を浮かべながら、イズに謝り、マオに謝っていた。
「気にするな、二人共」
本当に心優しい二人組だ、と思う。冷静で冷徹な様で、意外と感情的で臆病な不思議な男と、見た目は美しく華やかで、中身は面倒臭がりで大雑把だが、心根は純粋で優しい少女。
イズはこの二人に、そこまで性格が正反対で疲れないのか、と質問した事がある。けれども、それは間違いだった。この二人の性格は正反対などではなかった。
心優しく、他人の心配ばかりをしているこの二人は、本質的には似た者同士だ。本質が似ているから、一緒に居ても疲れにくい。お互いに節度を守り、お互いに尊重し合っているから、一緒に居て苦痛にならない。
それでいて、距離感がある訳でもない。友よりも距離が近く、恋人というには距離が遠い。そんな曖昧な関係性ではあるが、それを二人が苦に思っている様子もない。
むしろ、この距離感を二人が望んでいる様な気さえする。特にマオはまだ恋を知らない様子だ。自身の感情と折り合いが付けられない場面を、この数日で垣間見た気がする。
この少女を、イズは応援したいと思った。純真で、純粋過ぎる気持ちを抱える少女の気持ちを、出来る事なら成就させてやりたいと、イズは思ってしまった。
息子と別れるのは悲しいが、帰った時の思い出話として二人の話が出来たら、それは最高ではないか、と思ってしまったのだ。
この誰の目から見ても不思議な関係性の二人の話を。
「行ってくる。良い子で待っておれよ」
笑顔で見送ってくれる心優しき者達の輪から外れ、イズは息子の下へとゆっくりと歩き出した。
ナチ達と別れてすぐ。イズは、木々に囲まれながら体を丸めて眠る息子の姿を見つけた。ここは、イズとクィルの住処。イズと夫のオスティが出会った場所。そして、クィルが生まれた場所。
その場所にクィルは一人、眠っていた。
大きな息子の背中に、イズはそっと触れる。こんなにも小さな体になってしまった。守るべき存在だったのに、今はもう守ってやる事すら出来ない。非力な自分には、息子を守ってやれる力は残されていない。
背中を優しく擦る。すると、目の前の大きな体は、静かに動きだした。
「……お母さん?」
動きだした大きな体から、イズは慌てて距離を取る。体を起こしたクィルに踏み潰されない様に、大きく距離を取った。前までは、こんな事をする必要も無かったのに。
起き上がり、地面に座り込んだクィルは、首を忙しなく動かし、母親の姿を探した。小さくなってしまった母親の姿を懸命に探していた。「お母さん」と何度も呼ぶ息子の前に、イズは小さな足を動かし、躍り出た。
「我はここだ」
クィルがイズの方へと視線を向ける。そして、しばらく沈黙。それから、首を僅かに傾けた。
「どこ?」
「ここだ、馬鹿者!」
大声を上げると、クィルはようやくイズの存在を視界に捉えた。その後に、イズを自身の手の平に乗せると、自身の眼前まで持ち上げた。重なる視線。イズよりも遥かに大きな顔。
こんなに大きくなったのか、とイズは感嘆の吐息を漏らす。
「お母さん、体は大丈夫? 何か体調がおかしくなったりしてない?」
「大丈夫だ。問題は無い。シロメリア達が側に居てくれたからな」
「そっか。でも、体調が悪くなったらすぐにシロメリアに言うんだよ。お母さんに何かあったら」
イズは自分でも手が震えているのが分かった。やはり、息子に真実を告げるのが怖い。でも、言わなければならない。もう一度、平穏な生活を取り戻す為に。
「クィル。お前に伝えなくはならない事があるのだ」
「……何?」
クィルが息を呑んだのが分かった。イズを持ち上げている手に僅かに力が入った事も。
「我は、ナチ達の旅に同行しようと思う」
「え?」
「我は体を元に戻す為に、ナチ達の旅に同行しようと思う。だから」
「そんなの駄目だよ!」
息子が紡ぎ出した大声。心優しき息子が大声を上げて、イズに何かを言った事はほとんど無い。赤子だった時に大声で泣き喚いた事ぐらいだ。
そして、その心優しき息子は震えた声を必死にかき集め、初めて母親に反抗した。
「クィル。これは我の問題なのだ。我が解決せねばならぬ」
「駄目だよ! そんな体で何言ってるの?」
「大丈夫だ。ナチ達も居る」
「それでも、絶対安全じゃない! お母さんに何かあったら、僕は」
「ここに残っていても、呪いとやらで我は死ぬかも知れん。だったら、我は少しでも生きていられる確率が高い方を選びたい」
クィルは首を横に振った。
「嫌だ。嫌だよ。だって、やっと会えたのに。シロメリアともお母さんともやっと会えたんだよ。また離れ離れなんて嫌だよ……」
「それでも我は行きたい。また、お前達と笑って生きて行く為に。お前達の隣で、お前達の一生を見届ける為に」
「……だったら、僕も一緒に行く。一緒に行って、お母さんを守る」
「何を言っておるのだ、馬鹿者。お前はシロメリアの側に居てやれ。今度はお前があの街を守る番だ」
「でも」
イズは手の平を歩いて行き、息子の顎に触れた。優しく、優しく、幼い子供をあやす様に撫でる。震えた手で、イズは何度も撫でる。
「身勝手な母ですまぬな、クィル。それでも、我はお前達との生活を諦めきれない。死に脅かされる事なく、お前達の横に在り続けたい。お前達が居るこの場所で、我は笑って死ぬ為に、生きる事に縋りたいのだ」
声が震える。喉から熱い吐息が漏れる。怖い。常に付き纏っている死の恐怖が、怖い。今この瞬間も、いつ訪れるのか分からない死が怖くてたまらない。
イズは震えた手で、全身で、縋りつく様にクィルを撫でた。
クィルが「お母さん」と言った。恐怖の海に溺れた瞳で息子を見る。
「言ったでしょ? 僕のお母さんは無敵なんだ。だから、呪いなんかには絶対に負けない。負けるはずがないんだ。だって、僕のお母さんなんだから」
「我の息子のくせに、無茶苦茶を言う」
だが、少しだけ気が楽になった。息子が死の恐怖から守ってくれているかの様で、イズは涙を一滴、息子の手の平の上に落とした。
「お前は優しい子に育ってくれた。他人を思いやる事が出来る、優しい子供に育ってくれた。ありがとう、クィル。お前は我の自慢の息子だ」
ありがとう、ともう一度だけ、囁きながらイズは、息子を何度も撫でた。愛しき息子の顔を、何度も何度も撫でた。息子を無条件で撫でられるのは、母親の特権だ。
五十年間の空白を埋めるかの様に、イズは息子の頬を撫で、涙を流し続けた。
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