第44話 七日後

 喰蝦蟇との戦闘から七日後。禁書にまつわる騒動から七日も経ったというのに、ナチは未だに目を覚まさなかった。


 生きてはいるのに、死んだ様に眠り続けている彼は時折、涙を流す。


 何を思って泣いているのかは分からない。けれども、無表情のまま零れる涙は、悲しい顔をして零した涙よりも、一層、悲哀を帯びて見えた。


 それが幼い子供の様に見える時もあれば、男泣きの様にも見えて、判断に困ってしまう。


 どちらにしても、何故か一緒に居てやらねば、という気持ちが芽生えてくるのだから不思議だ。


 それから、ナチは寝言で「ナキ」という単語を度々、口にした。その単語を口にする時は決まって、涙を流す。枕を涙で濡らしながら、彼は譫言で「ナキ」と呟くのだ。


 しかも、時々「イズ」と呟く時もある。その時は涙を流す事はないが、それでも何故、自分の名前は呼ばないのだ、と怒りたくなる。


 腹いせに鼻をつまんでやるが、ナチは一向に目を覚ます気配はない。


 とはいえ、イズの事を呟きたくなる気持ちは分からないでもない。結局、ナチはイズを発見してすぐに意識を失ってしまったのだから。


 さぞ、心配な事だろう。寝言で呟きたくなってしまう程に。


 ナチが意識を失ってから、大変だった。


 全員が青褪めた顔で発見したイズを見つめ、言葉を発する者は現れず、静かな寝息を立てるイズとナチの寝息だけが聞こえてくる、という状況が長い時間続いたのは今でも記憶に新しい。


 シロメリアとネルはしばらくすると平静を取り戻していたが、クィルは二人の様にはいかなかった。


 状況を中々、受け入れる事が出来ず、あまり喋っていなかったように思う。


 とはいっても、シロメリアとネルも事実を受け入れたというよりは、無理矢理に納得したと言った方が良いだろう。マオだってそうだ。現実を受け入れられた訳ではない。


 現実として起こってしまったのだから、と無理矢理に納得しただけ。


 納得するしかないのだ。もう過去には戻れないのだから。そんな事を思いながら、マオはシロメリアが淹れてくれた紅茶を一口啜った。


「ナチはまだ起きぬのか!」


 一階の作業場。暖かな朝日が差し込むその場所で、苛立ちを隠そうともしない小さな黒い兎は、作業台を力強く叩いた。凛々しい声が作業場を駆け抜ける。


 そして、二階で眠り続けているナチに対して苛立ちを募らせている、この小さな黒い獣は、正真正銘イズだ。


 疲労困憊だったナチが気を失う直前に見つけた、小さな黒い兎。マオが抱える事が出来る程に小さな黒い兎は、確かにイズで間違いなかった。断言する事が出来た理由はクィルが匂いで判別したからに他ならない。


 信じられない、と言った顔でクィルが「お母さんだ……ちっさ」と言っていたのを思い出しながら、マオは紅茶を啜る。


 ナチと同じく深い眠りに着いていたイズは、今より三日前に目を覚ました。


 一応、体が縮んだ原因を聞いては見たが、本人曰く、黒い球体に包まれた瞬間に意識を失い、気が付いたら体が小さくなっていたとの事。つまり、何も分からないという事だった。


 それに、禁書に記されていた文字も七日前に全て消えてしまい、禁書は再び何も書かれていない本に逆戻り。


 禁書を調べる事も出来ず、イズの体が縮んだ呪いを調べる事も出来なくなっていた。文字通り、八方塞がりだ。


 それから、マオとネルとシロメリアとクィル。その四人で話し合った結果。


 森の中で体を休ませるよりも、外敵が存在しないシロメリアの仕立屋でイズを休ませた方が安全だろうという結論に至り、イズをシロメリアの仕立屋へと居候させる事になったのだ。


 マオもそれが最も安全な策だろうと思った。


「まだ起きないんだね、ナチ」


「あの寝坊助は気合が足らぬのだ、気合が」


「まあまあ。疲れていらっしゃるのですよ、ナチさんは」


「そうだよ。お兄さん、ずっとイズさんの心配してたし、疲れてるんだよ。今も寝言でイズ、イズって」


 少し演技調でマオが言うと、イズが机から手を離し、椅子の上で体を丸めた。


「む……まあもう少し寝かせてやってもよい、か」


「イズは単純だねえ」


 ネルがけらけらと笑いながら、紅茶を両手で掴んだ。「我は単純ではない。心が広いだけだ」とイズが即、反論していたが、ネルは笑って「はいはい」と適当にあしらった。


「それにしても良く寝るねえ。マオが毎晩、心配して枕を濡らしているというのに」


 急激に顔が熱くなるのを感じながら、マオは机を叩き、ネルを見た。


「濡らしてないし!」


「本当かなあ?」


 からかう様な口調と、上目遣いで見られて、マオは更に顔が火照っていくのを感じた。


「本当だし!」


「ネル、いけません。マオさんの純情な心をからかってはいけません」


「そうだぞ、ネル。本人が無自覚な所を見るのが楽しいのではないか」


 イズの言葉に、うんうんと頷くシロメリア。二人が何に納得しているのか、マオには分からなかったが、マオを揶揄しているのは何となく分かる。


 苛立ちを隠す為に、マオは紅茶を一口飲んだ。紅茶を啜っていると、シロメリアがイズを見ながら「話は変わりますが」と話を切り出した。


「イズさん」


「何だ?」


「クィルに言わなくてよいのですか?」


 その言葉に、イズの視線はシロメリアから床へと移った。心なしか体も小さくなった様な気さえした。


「まだ……心の準備が、だな」


「早く言った方が良いと思いますよ」


「それは分かっておるのだが……」


「そうだよ。マオ達の旅について行くって事は、しばらく会えなくなるんだよ。ちゃんと、言わないと」


「それはそうなんだが……」


 マオはしばらく黙って、イズを見た。体が大きかった時には恐ろしく見えた爪も、今は可愛らしく思えてしまう程に、小さくなってしまっている。その爪でイズは猫の様に顔を掻いた。


 手と同様に可愛らしい長い耳を小刻みに動かしながら、イズは頻りに手で顔に触れる。


「……せっかく、再会できたというのに、また別れ、だからな。少し怖いのだ」


 マオは横に座っているイズを抱き上げ、膝に置いた。そして、背中を優しく撫でた。


 怖い、とイズが口にした事が正直意外だった。いつも毅然とした態度を取る彼女が、怖いと言うのが、意外過ぎてマオは思わず彼女を抱き締めた。


 イズの体に降り掛かった呪い。それが完全に解呪された、という保証は無い。呪いは体に残っているのかもしれないし、今もそれはイズを蝕んでいるのかもしれない。


 そして、イズは意識が戻ったすぐ後に決断をした。この街で死に怯えながら暮らすよりも、完全に呪いが解呪されているという証拠を得る為に、マオ達に同行すると。


 それが、クィルとシロメリア。二人と安心して暮らせる事に繋がるのだ、と。気を遣われるのは嫌なのだ、とイズはマオとネルにだけ口にした。


 二人とは対等でありたいのだ、とイズは静かに、震えた声で口にしていた。


「待っているだけなのは、怖い。我は息子を待っていた五十年でそれを知った。もう戻って来ないのではないか、とずっと歯痒かった。何度もクィルは戻って来る、と納得しても、怖かった。怖かったのだ」


 マオの膝上で体を丸めるイズは声を震わせながら言った。


「その苦痛を息子にもさせてしまうのが、我は怖い」


「旅に同行するのを止めるっていうのは?」


 イズは首を横に振った。


「それはならぬ。我の体の事なのだ。我自身が動かねばならん」


 マオはイズを抱き締めた。胸に収め、彼女の赤い双眸に視線を合わせる。


「なら、今日行こうよ。お別れを言うのは寂しいし、辛い。でも、二人共まだ生きてる。だから、再会の約束をしに行こうよ。お別れじゃなくて、もう一度、巡り会う為の約束を」


「別れでは無く、もう一度巡り会う為の約束……」


 イズがマオの視線を真っ直ぐに見つめる。二人の間に生まれた沈黙。マオは微笑を浮かべながら、首を少し傾げた。


「……そうだな。そうするとしよう」


「私達も一緒に行けば怖くないでしょ?」


「別に暗がりが怖い訳ではないぞ」


「はいはい。それまでにお兄さんも起きればいいんだけど」


「最悪、叩き起こそう」


 何故か、ネルの提案を誰も否定しなかったが、本当に叩き起こすつもりなのだろうか。マオは少しばかりの不安を抱くと共に、紅茶を飲み干した。







 太陽と入れ替わりで月が昇る頃。陽光が月光に入れ替わった時、ナチは目を覚ました。月が雲間に隠れてしまっているのか、部屋は真っ暗で、ナチはしばらく目が闇に慣れるのを待った。


 頭も瞼も体も、全てが重い。瞼が再び下りようとしては、それを堪える。それを何度も繰り返した。少しずつ目が暗さに慣れて来ると同時に見えて来る、部屋の輪郭。


 見覚えがある部屋だ。天井に吊るされたランプも、部屋の隅に置かれた木箱や布類なども見覚えがある。この部屋にあるのは全て見覚えがある物ばかり。


 ここはシロメリアの仕立屋の物置。ナチが与えられた部屋。ブラスブルックに居る間、ナチが過ごした場所だ。


「そうか……僕は……」


 眠ってしまったのだ。いや、眠ったというよりは気絶したという方が正しい。脳が行った意識の強制シャットダウン。霊力の酷使によって行われたそれは、睡眠では無く、気絶だ。


 ナチが額に右手の甲を当てると、気絶する直前の記憶が、じわじわと甦って来る。喰蝦蟇と戦闘し、禁書に呑まれかけ、それをイズに救ってもらった。


 そして、物置売りの男を禁書に捧げ、イズを包んでいた黒い球体を止めた。


 その後、どうなったんだったか。


 黒い球体があった場所に、イズは見当たらず、ナチは無理を承知で符を作った。それから、属性を込め、イズを捜索。


 その後に自分はイズを見つけられたのか。分からない。


 記憶が混濁している。


 最後の瞬間、ナチが何を見つけたのかは、分からない。黒かった。それだけは、朧気ではあるが覚えている。小さな黒い何か。ナチは最後に、それを風で拾い上げた。気がする。


 それが何だったのか、思い出せない。寝起きで重たい頭が、記憶の引き出しに鍵をしてしまっている。


「僕は……救えなかったのかな」


 そんな事を思わず口走ってしまう。暗い夜がナチを悲観的にさせてしまっているのかもしれない。ナチは額に乗せた右手を強く握り締めた。皮膚が破れるのではないか、と思う程の力で拳を作る。


「イズ……」


 黒い渦に飲み込まれていく時のイズの背中が、鮮明に脳裏に浮かぶ。あの時、何も出来なかった。闇に、黒い世界に怯えるだけで、身動き一つ取る事が出来なかった。


 弱い。弱すぎる。何て弱さなのだろうか。技や力だけでは無く、心も強くなっていたつもりだったのに。心が脆弱過ぎる。自分でも驚くほどに、脆く弱い。


 どうしてこんなに弱いのか。どうして強くなれないのか。もう、何も失いたくないのに。


 ナチは右手で額を殴った。軽く小突く程度の力で。


 まだナチは守ってもらっている。ずっと、ナチは誰かに守ってもらっている。ナキに守られて、今度はイズに。守る側になりたい。誰かを守れる様な存在になりたいのに。


 ナチは奥歯を噛み締め、再び右手で額を小突いた。


 すると、不意に扉が開いた。扉が開く音。それはゆっくりと、音を立て無い様に気を遣っている様な開け方だった。その後に、聞こえてくるのは足音だ。しかも、一人では無く複数。


 ナチは反射的に、身構えた。寝たまま、いつでも体を動かせる様に準備をする。


「起きてるかな?」


「起きてなかったら、起こそう」


「乱暴は駄目ですよ?」


「大丈夫ですって。丈夫そうですし」


 マオとネル、シロメリア。三人の声だ。その声にナチは、体を脱力させる。身構える必要もない。


「起きてますかあ?」


 呑気なマオの声が耳元で囁かれる。少しくすぐったいが、どのタイミングで起きるべきか、ナチは悩んだ。部屋に入ったタイミングで起きれば良かった、と少し悔やみながらも、ナチは考える。


 そして、すぐに結論を出す。次、誰かが声を掛けてきた時に起きよう。


 ナチは待った。ぱたりと喋らなくなり、足下も聞こえなくなってしまった女性三人に若干の恐怖を抱きながら、ナチは待ち続けた。


 すぐに声が掛かると思いきや、一向に声が掛かる事は無く、その代わりに聞こえてきたのは、何かが落下する音。


 その音がしてすぐ。ナチの腹部に強い衝撃が掛かる。「ぐえっ」と呻き声を漏らしながら、ナチは飛び起きた。上半身を起こし、瞼を上げる。


 開ける視界。首を動かし、辺りを見回す。マオとネル、シロメリアの三人はすぐに視界に飛び込んできた。


 全員が、笑いを堪えている理由は謎だが、ナチは腹部にしがみ付いている、小さな存在に目を向けた。


 小さな黒い兎の様な生き物。ナチを射抜く赤い双眸。どこか懐かしい感じがする雰囲気。


「ペット?」


 ナチは女性三人に顔を向けながら、言った。


「我はペットではないわ、馬鹿者!」


 目を見開きながら、素早く視線を小さな黒い獣を見た。通る凛々しい声。強気な物言い。だというのに、どこか安心するこの声。


 ナチは震えた手で黒い兎を腹部から剥がし、持ち上げると、自分の顔の高さまで上げた。


「……イズ?」


「ああ。寝過ぎだ、馬鹿者」


 寝坊した子供に言う様な物言いに、ナチは苦笑を浮かべながら、確信する。この物言いはイズだ。理屈じゃない。本能がこの生物はイズだ、と確信させる。


「そっか。僕は助けられたんだね……」


「ああ。お前のおかげだ」


「良かった……。本当に良かった……」


 頬を伝うのは汗か、涙か。ナチはイズを抱き締めると、嗚咽を漏らしながら、部屋に差し込み出した月明かりに目を細めた。


「めそめそと泣くな。男だろう」


 ナチはイズを床にそっと置くと、目尻に溜まった涙を拭った。鼻を啜りながら、笑顔を浮かべる。


「うん」


「そうだ。笑っていろ。男の泣き顔など見ても、誰も得はしない」


「その内、得するかもしれないよ?」


「屁理屈を言うでない」


 可愛らしい前足で足をぺしぺしと叩かれるが、笑顔のまま、ナチはイズの頭を撫でた。「触るでない、馬鹿者」と手を払われるが、ナチの笑顔は崩れなかった。


「ほら、お兄さん。起きたなら、準備して」


「準備ってなんで?」


「出掛けるよ、ナチ」


「う、うん」


 状況が上手く呑み込めていないが、ナチは床に手を着きながら、立ち上がった。だが、立ち上がろうとした瞬間、急に視界がぼやけた。目の前が霞む。


 立ち眩みだ、と頭では分かっていても視界も体も、バランス感覚を失っていく。


 足下がふらつき、ナチはそのまま背中から倒れそうになった。だが、それを支える少女が一人。ぼやける視界に映ったのは、薄いオレンジ色。


ナチの背中を支えてくれているのはマオだ、と理解したのと並行して、体にバランス感覚が戻って来る。


「ごめんね、マオ。急に動いたから立ち眩みが」


「七日間も眠ってたんだから、しょうがないよ。大丈夫?」


「うん。もう大丈夫」


 ナチは今度こそ自分の足で立ち上がると、一度大きく深呼吸した。視界も、もう平常を取り戻している。足も問題ない。ちゃんと立てている。


 七日も眠っていたのか、と軽く肩を回しながら、背後に立つマオへと振り返る。


「ありがとう。じゃあ、行こうか」


「うん!」


 嬉しそうに、はにかんだマオを見て、ナチも笑顔を浮かべる。今回の霊力回復には七日間掛かった。意外と短かったな、と思いながら、ナチは先に歩いて行った女性陣三人の後ろを歩いて、部屋を出た。


「ナチが倒れてから大変だったんだよ?」


「そうなんだ。ごめんね」


「本当だよ。マオが毎晩、枕を濡らしちゃって、そりゃあもう大変だったよ」


「濡らしてないから!」


 マオの抗議にネルは「ごめんごめん」と謝りながらも、あまり反省している様子は見られない。姉妹のやり取りの様な光景にナチは微笑みながら、階段を下っていく。


「でも、お兄さんが目を覚まさなかったらどうしよう、とは言ってましたよね」


「シロメリアさん!」


 階段を下り、作業場に出たナチは天井に吊るされたランプの光に目を細めた。闇に慣れた瞳は、光に慣れるまでに時間が掛かる。目を細めていると、マオが袖を引っ張った。


「違うからね。お兄さんがあんまりにも寝過ぎだから、少し心配になっただけで」


「心配してくれてたなら、嬉しいよ」


「……本当に?」


 少し顔を赤らめながら、視線をいじらしく向けて来るマオに、ナチは頷き、笑顔を向けた。


「本当だよ。マオに嘘ついてもしょうがないでしょ」


「そっか。お兄さんは嬉しいのか」


 口角を上げ、目を細める彼女は、背中で腕を組みながら、ナチに白妙の歯を見せた。少しだけ、高鳴る鼓動。マオの笑顔に見惚れて、言葉が出ずにいると、誰かがナチの左肩を叩いた。


 左側へと視線を向けると、そこにいたのはネル。口に手を当て、目には悪童の様な邪な感情を浮かべながら、ナチを見ていた。


「見惚れる気持ちも分かるけど、早く行くよ。ナチ」


「別に見惚れてた訳じゃ」


「マオもイチャつきたいのは分かるけど」


「別に違うし!」


「ネル。イタズラしたいのは分かりますが早く行きますよ」


 分からないでくれ、と思いながら、ナチ達は玄関へと向かって行く。「お前達は仲が良いな」とイズがマオの右肩に乗り、ナチに顔を向けながら言った。


 そして、四人と一匹は次々に扉を潜り、夜の街へと消えていく。少し肌寒い夜のブラスブルック。


 それを囲む薄暗い森は、まるでナチ達を誘っているかのように、風に枝葉を揺らしていた。

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