第43話 禁書

「クィル! ナチさん!」


 シロメリアの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。だが、それももう遅い。黒い渦がナチ達を包む様に広がっていく。触手の様な形に形状変化を遂げた黒い渦は、ナチとクィルを包み込もうと、天高く伸びていく。


 ナチとクィルは黒に閉ざされる前の青空を見ていた。雲一つない青空が、消えていく。閉ざされていく。混沌とした闇に呑まれていく。


 怖い。手が震える。足が震える。肩が震えだす。泣き叫びたいのに、声が出ない。助けてくれ。誰でもいい。ここから出してくれ。誰か。


 ナチとクィルは、全身を恐怖で震わせ、震えた瞳で青空を見続けた。息を呑む。これから何が起きるのか。何も分からない。その未知に対しての恐怖が更に体を震わせる。


 ここで、死ぬのか……?


 死ぬ。その言葉を意識した瞬間、塞がっていく青空。代わりに広がっていくのはどこまでも黒い世界。闇。消えた青空を見つめながら、ナチが目を閉じた瞬間、声は届いた。


「諦めるな、馬鹿者!」


 黒を引き裂く黒。突如として黒い渦に侵入してくる黒い獣。ひしひしと感じる怒気は、主に二つの赤い双眸から放たれている。兎の様な顔が眼前に迫るが、何が起きているのか認識するまでに、数秒の時間を要した。


 震えるクィルの手が母親へと伸ばされる。震えたナチの瞳が、イズへと向けられる。涙が出そうだった。必死に漏れ出ようとする嗚咽を喉の奥に飲み込んだ。


 イズの手が、クィルの腕を掴む。腕を引っ張り、ナチ諸共、クィルを黒い渦から引きずり出した。視界に再び現れる青空と、街道の緑。そして、人々の顔が視界に入り込む。


 地面を転げ落ちたナチとクィルは、先程まで自分達を飲み込んでいた黒い渦へと視線を戻す。


 そこには、黒い渦に飲み込まれていくイズの背中があった。


「イズ!」


「お母さん!」


 二人が同時に叫んだ。ナチは雑草を引き千切り、霊力を放出。符を作り出す。符を作った瞬間に、視界が揺れ、霞んだ。


 霧が立ち込めたかの様に靄がかかり、霊力の過剰使用の反動が、ナチに襲い掛かる。瞼が落ちようとする。


 ナチは眉間を右手で殴る。鈍い音が鳴り響くと共に、痛みで開けていく視界。


 もう少しだけ起きてろ、と脳を怒鳴りつける。


 完全にイズを包み込んだ黒い渦は、球体の様な形状に変化し、宙を浮いた。一定の高度を保ち続け、静寂に包まれている。


 その静寂さが、嵐の前の静けさにも思えて、ナチの焦りを助長させる。


 それでも、手が震えていたとしても、ナチは符を投げた。


 霊力を流し、属性を解放。「加速」と「硬化」の属性を付加した符は、真っ直ぐに、イズを包む黒い球体を通り抜け、黒い本を手に持ち、未だに何かを呟いている置物売りの男へと向かって行く。


 鋼鉄の様な硬度を手に入れた符は、進む度に速度を上げ、目にもとまらぬ速さで男に迫る、符の弾丸と化す。


 硬化した符は、男の右手に直撃。男が手に持っていた黒い本を弾き飛ばし、男の遥か後方へと吹き飛ばす。慌てて本を拾いに行こうとする置物売りの男を、五人の体格の良い男達が取り押さえた。


 地面に押さえつけられた置物売りの男に、ナチはふらふらとした足取りで近付いていく。人を掻き分け、落ちそうになっている瞼に必死に抵抗し、霞む視界の中でナチは、一歩ずつ男に迫っていく。


 とてつもなく長い距離の様に感じながらも、ナチは置物売りの男の眼前に立ち、跪いた。視線が下がる。崩れ落ちたかのように膝が地面に触れる。


 膝から伝わる痛みを無視して、ナチは今も取り押さえられている置物売りの男に視線を向ける。


「あれを止めろ」


 男の口角が歪に上がる。目が充血し、ぎょろりとナチに視線が向けられた。


「無理でさ。あれは発動したら二度と止める事は出来ないでさ」


「……本当か?」


 ナチは落ちていた木の枝を取り、男の右目に突きつける。後一センチも奥へと動かせば、眼球に突き刺さる距離。そこにナチは木の枝の先端を置いた。


「本当でさ。あの本には解除方法なんて書かれていなかったでさ」


 焦りを滲ませる男の声。その声の変化に、ナチは理解する。この男は、所詮小物だ。この程度の脅しで簡単に口を割ってしまう程の小物。


 コルノンがナチの脇をすり抜け、吹き飛んだ本を拾いに行くのを視界の端に映しながら、ナチは木の枝を男の眼球に少し近付ける。


「あの本には一文字も掛かれていなかったはずだ。お前、何をした?」


「あ、あの本は人の邪気を吸うと、文字が浮かび上がるんでさ」


「邪気?」


 あり得るのか? そんな不可視の感情を吸い取る本が実在するのか、と疑問が浮かぶ。


「そ、そうでさ。あっしが売っていた置物は、本当は邪気を祓う物じゃないんでさ。邪気を溜め込む物なんでさ」


「どうしてそんな物を売っていた? まさか、お前知っていたのか? あの本がどういう本なのか」


「あっしはあの黒い本を手に入れる為に、街に来たんでさ。あの本は人を呪殺する方法が記された邪本。邪気を吸う事で、呪殺の方法が浮かび上がる異端の本なんでさ」


 ナチは視線を一度、コルノンへと向ける。真剣な眼差しでページを次々とめくっていくコルノン。そこから少しだけ見えた本に書かれた赤い文字。


 本当に文字が書かれている。この男の言う通りに。


 なるほど、とナチは心の中でほくそ笑む。あの置物を売っていた理由は本の文字を浮かび上がらせる為。住民達が抱いた負の感情を吸収し、頃合いを見て回収する為、という訳だ。


 それに人に売らなくても邪気は発生する。街中に置いておくだけで、置物は邪気を吸収する。最近は、悪魔騒ぎで人々は苛立ち、不安や恐怖に駆られる人々が多かった。


 邪気はさぞ大量に集まった事だろう。


「お前はあの本を手に入れて何をするつもりだった? 人を滅ぼそうとでもしていたのか?」


「そんなつもりはなかったんでさ。あの本は闇商人の間ではお宝中のお宝。売れば、一生遊んで暮らせるだけの金が手に入ったんでさ。だから」


「なら、あれは何?」


 枝の先が白目に触れる。痛みに目を閉じようとする瞼をナチが手で開かせる。閉じる事は許さない。現実から目を逸らす事は許さない。


「……あっしは商人でさ。偽物を売れば、信用が消える。この本が本物だと試す必要があったんでさ!」


 歯を食いしばる。このまま木の枝を眼球に押し付けてやりたい感情が、マグマの様に沸々と湧いて来る。ふざけんな、と怒りをそのままぶつけてやりたくなる。


 息を吐く。鼻から、口から大きく息を吐く。ナチは木の枝を持つ手に、力を入れた。瞳から感情の色が消え失せる。


「お前を殺せば、あれは止まる?」


「わ、分からないでさ。試してみない事には……」


「そうか」


 ナチの口角が上がる。無感情の瞳を向けたまま、口角は上がり続ける。


「待ってほしいでさ! 金なら用意するでさ! いくら欲しいでさ? 金でも旅に使う道具でも何でも用意するでさ! だから、命だけは助けてほしいでさ!」


「金の神様に命乞いでもするんだね」


 ナチは一度、木の枝を手前に引いた。眼球から離れていく木枝を、男は凝視している。そこに安堵は無い。漏れ出る大量の吐息と、目から零れる涙。


 口元から垂れている涎は地面に溜まっていき、小さな水溜りを作ろうとしている。


 ナチは表情を変える事無く、木枝を男の眼球に向けて突き出した。


「ナチさん!」


 木枝が止まる。男の眼球に突き刺さる直前で、木枝は動きを止めた。過呼吸の様に息を荒くしている男は、大量に汗を掻きながら、下腹部辺りに水溜りを作り出した。


 その後に、男の黒目は瞼の裏へと消えていき、そのまま地面に左の頬を着けた。失禁しながら気絶した様だ。


 ナチは木枝を捨て、声を上げたコルノンの下へと歩いて行く。


「何か、分かりましたか?」


「はい! この本の表紙にいきなり文字が浮かび上がったんです! 見て下さい!」


 ナチは黒い本の表紙に浮かびあがっている赤い文字を見た。横に連なった文字の羅列を見るが、ナチは首を横に振った。


「僕は文字が読めません。呼んでもらっても良いですか?」


 コルノンは、一瞬だけ驚いた表情を浮かべるも、すぐに首を縦に振り、書かれた文章を読み上げた。


「呪いを解呪する方法は、全て同じだ。この禁書に触れた、愚かな使用者の魂を捧げよ。血肉を捧げ、骨の髄まで、この本に捧げよ。さすれば、呪いは解呪されるであろう。そして、最後に呪文を唱えよ。その呪文は、《アン・リ・フィメイリ》。呪に囚われた愚かな魂に、我は救いを与えん」


「使用者……」


 ナチは気絶している置物売りの男を見た。魂を、血肉を、骨の髄まで捧げる。つまり、この男の命を捧げれば、イズを包んでいる黒い球体は消える。


 迷いは無かった。ナチは男を取り押さえている、体格の良い男達を離れさせると、コルノンから本を受け取った。


 そして、本を気絶している男の頭に乗せると、ナチは男から距離を取り、その場にいた全員に距離を取る様に指示を出す。


「何をするんですか?」


「本に書かれた通りです。こいつの命を使ってイズを助ける。この男の命で、イズを助けられるんだったら、僕は迷わない」


 ナチは気絶している男に目を向ける。呪に囚われた憐れな魂。金に目が眩んだ愚か者。善悪の判断を見失った小物にナチは一歩近づいた。


 目を閉じ、息を大きく吸った。そして、それを一気に放出すると共に目を開く。


「《アン・リ・フィメイリ》」


 呪文を口にした瞬間、本は赤黒く光り出した。赤黒い光に包まれていく、置物売りの男。それから、本は宙を浮き、男の頭上まで浮き上がると、制止した。


 そして、本は男を包んでいる赤黒い光を吸収していく。その過程で、本は男の全てを奪い取っていった。


 まず吸い込まれたのは、皮膚だ。筋肉と神経が剥き出しになった男。気絶から飛び起き、絶叫を漏らす。赤い光のせいか、血液が飛び散る事も無く、血管がピクピクと動いているのが、妙に生々しかった。


 その次は血肉。神経が抜き取られ、全ての血液を抜かれた瞬間、残された干乾びた肉が最後に吸収される。


 そして、残された骨はドロドロに溶かされ、瞬く間に骨格を失い、液状に変わった。宙に浮く、牛乳の様な液状の骨は一瞬で本に飲み下され、そこに男が居たという痕跡は男が失禁し、溜まった水溜りだけになった。


 男の全てを飲み込んだ禁書は、最後に赤黒い光を吸収すると、地面に落下した。落下した本を手に取ろうと、ナチとコルノンは本に近付いていく。


 ナチが本を手に取ろうとした時、前方から黒い光が、高速で本に迫って来る。ナチとコルノンは尻餅をつき、そのまま後退。禁書から距離を取る。


 禁書に吸い込まれていく黒い光。それはイズを包んでいた黒い渦。イズを呪殺しようとしていた黒い呪。本に書かれた事が本当ならば、解呪は正常に起動したという事になる。


 だが、まだ禁書に書かれた内容が事実だという保証は無い。表紙に記されていた解呪方法が嘘という事もあり得る。


 それに、禁書と称される本の多くは、基本的には人に触れられては困る様な内容が書いてある。


 だから、人から遠ざける為に禁書という大袈裟な名前で呼び、人が触れる事の無い様にどこかに隠したりする。


 まだナチ達の思いも寄らぬ様な、不吉で凄惨な現象を自発的に引き起こす可能性は十分にある。


 まだ気を抜く事は出来ない。


「お兄さん!」


 尻餅をつき、黒い光が本に吸引される様を見ていたナチとコルノンの下にマオが全速力で駆けて来る。


 息を切らし、目に一杯の涙を溜めたマオはナチの横に滑り込む様に座り込むと、ナチの手を両手で握った。


「生きてる? お兄さん生きてる?」


 震えた声。嗚咽が混じった声を紡ぎながら、マオはナチの手や腹、背中などを頻りに触れ、最後に頬に触れた。震えている。


 マオの手は触れなければ気付かない程に小さく震えていた。


「生きてる。お兄さん生きてる……」


「そんなに焦らなくても生きてるよ」


「だってお兄さんが死んじゃうかと思って……」


 とうとう目尻に溜まった涙は重さに耐えきれず、頬を伝い、細い顎に流れて行くと、地面に落下した。


 黒い光に煌めいた涙を静かに眺めながら、ナチは頬に触れ続けているマオの手に、自身の手を重ねた。温かい手。安心する温もりだ。


「大丈夫、生きてる。僕は生きてるよ。マオの前に居て、マオの温もりを感じられる。僕は確かに生きてる。僕は……ここに居るよ」


 マオの手に触れて、ようやく自身が震えている事に気付いた。黒い光に包まれた瞬間の恐怖。それが手に再び宿ったのかの様に、ナチの手は小刻みに震えだす。


 近寄らなければ気付かない程の微細な振動が、微かに震えたままのマオに伝わっていく。それを気付かれなくて、ナチがマオの手から離そうとした瞬間、マオがナチの手を両手で包み込んだ。


「二人共、手が震えてる」


 えへへ、と涙を零しながらはにかんだマオ。ナチはどこか照れ臭くて、不自然にマオから視線を逸らしてしまう。


 逸らした先に居たコルノンが目尻に涙を浮かべ、指でそれを拭っていたが、ナチがそれに気付くと顔を赤らめながら、コルノンは視線を逸らした。


 何をやっているんだ、僕達は、と少しだけ馬鹿らしく思うのと同時に、心が軽くなり、それに伴って手の震えも収まっていく。


「イズは?」


 そうぼやきながら、ナチは黒い球体があった場所へと顔を向けた。黒い光は完全に収まっている。禁書は地面に落下し、何の光も灯していない。禁じられた書物は、力無く男が失禁した場所へと落下し、表紙を濡らしていた。


 ナチは、そこから自然に視線を外し、その奥へと視線を移した。


 黒い球体があった場所。そこに居たのは黒い獣が一頭だけ。尻餅をつき、シロメリアが傍らに寄り添っている黒い獣は、おそらくクィルだ。


 イズの姿が見えない。ナチはマオの手を借りて、立ち上がると、ふらふらとした足取りでイズが居たはずの場所へと向かって行く。


「お兄さん」


 そう言って、ナチの腕を自身の肩に回すマオ。それから、ナチの腰に手を回し、体全体を支える様に体を寄せるマオに「ありがとう」と礼を言いながら二人は歩き出した。


 猛烈な眠気から視界が歪み、何度も転びそうになる度にマオに支えてもらいながら、ナチは黒い球体があった場所にたどり着いた。


 見上げる程、巨大だったイズの姿はどこにも無い。辺りを見回しても、イズの姿を見つける事は出来なかった。


 それでもナチは霞む視界の中で、不器用で、全く素直じゃない黒い獣を探した。本当は優しさに溢れた黒い獣を探す為に、視界を凝らす。


 居ない。どこにも居ない。あの黒い背中がどこにも居ない。


「イズ……」


 間に合わなかったのか?


 嫌な予感が心の奥底から噴き出してくる。呪殺され、禁書に飲み込まれてしまったのだろうか。それがあり得ない話ではないという事は、さっき男が禁書に呑まれた一連の流れを見ていれば分かる。


 あの禁書はイズを殺せる力を持っている。


 それを意識した途端に、脳内に広がる嫌な想像が蓋を開ける。


 皮と血肉を剥がされ、骨を液状化されているイズの姿を嫌でも想像してしまう。その想像を脳内から切り離す事が出来ず、ナチは顎に力を入れた。


 奥歯が砕けるのではないか、という勢いで奥歯を噛み締め、顎に生じた痛みによって、脳内から嫌な想像を削除しようとする。だが、その結果は無駄に終わった。


 何度も脳内から削除しては甦る、イズの死を連想させる嫌な想像。脳内にこびり付いて離れてくれないそれは、ナチにイズの死を認めさせようと躍起になっている様だった。


 認めない。認めたくない。


 ナチはズボンに引っ付いていた雑草を手に取り、それを符に変えた。霊力を使用した反動で、ナチの意識は一瞬、途切れた。マオの肩から転げ落ち、頭から地面に落下した所で、ナチは再び意識を取り戻す。


 そして、符に「大気」の属性を込め、それを手に持ったまま、属性を具象化した。それが自傷行為だと分かっていながら。


 瞼が下りていくと同時に吹いた風は、周囲に存在する生物、障害物を探知していく。


 何処かに居るはずだ。居るはずなんだ。


 風が周囲を探る。違う。違う。違う。違う。お前じゃない。違う。違う。居た。


 見つけた。長く伸びた雑草の中。それはイズが黒い球体に呑まれた場所から数歩、歩いた場所。


 ナチは完全に瞼が下りる前に、それを風で持ち上げ、マオの胸の中へと優しく送り込んだ。マオが受け止めたのは、小さな黒い兎。


 静かな寝息を立てて眠っている小さな存在を視界の端に捉えた瞬間、ナチの意識は途切れた。

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