第42話 黒い本
三人は、喰蝦蟇の所までゆったりと歩いて行き、その死体をまじまじと眺めた。吹き飛んだ顔や胃袋の所在は分からないが、それでも確かに死んでいるのは分かる。
吹き飛んだ顔を埋める様に飛び出ているのは、腸だ。赤く濡れた腸は極太のミミズの様で、この腸が自立して動いたりしないだろうな、と少し不安になるも、そんな事は何時まで経っても起きはしない。
沈黙の中で喰蝦蟇の全身を見ていると、風に乗って運ばれてくる焦げた臭いに混じって、饐えた臭いが鼻を通った瞬間、三人は顔を顰めた。
その理由も明確だ。
喰蝦蟇の肉体が腐り始めていた。煮込み過ぎた肉の様に崩れ落ちていく体。粘り気のある糸が絡み、肉が地面に落ちる度に、腐臭は辺りに広がっていく。
そうして、辺りに漂い始める死臭が、この戦闘は間違いなく終わったのだ、とナチに告げているかの様で、ようやくナチに溜まった不安が心の外へと漏れ出て行く。
腐敗する速度が早すぎる気もするが、それは考えた所で意味を成さない。喰蝦蟇が死んだ瞬間を見た者など、ブラスブルックには居ないし、イズも知りはしないだろう。
調べたとしても、誰も証明できないのだから、記憶に留めておく程度で問題ない。
「どうだ? 勝利の実感は湧いたか?」
言った後に、大きな欠伸を掻いたイズは体を丸め、顔をナチの視線の高さに合わせた。
ナチは喰蝦蟇の死体を見つめながら、瞬きを二回繰り返した。勝利の実感が湧かなかった理由は、もう分かっている。目の前の死体が、それを教えてくれた。
足下に転がった死肉を見つめながら、ナチは言った。
「今はね。でも、これだけボロボロになって、考えられる全ての策を弄して、ようやく勝てた。僕達は、あれだけ苦戦していたはずなのに、死は一瞬で訪れた。だから、実感が湧かないんだと思う」
存在感が強ければ強い程、消えた時の実感は遅れて来る。
本当は死んでいないのではないか、誰かが嘘を吐いているのではないか、などと憶測を重ね、現実を虚偽に塗り替えようとしてしまう。
今回もそうだ。これだけ苦戦し、これだけ追い詰められ、何度も死を意識させられた相手が、こんなにあっさりと死ぬ訳がない。
ナチはそう思ってしまったのだ。
「またそんな難しい事、考えてるの? もっとシンプルに考えなよ」
「そうだぞ、ナチ。勝利したら、嬉しい。敗北したら、悔しい。もしくは死ぬ。それだけの話だ。何をそんなに小難しく考えておるのだ」
「二人が単純すぎるだけだよ」
とは言いつつも、二人が言っている事は間違ってはいない、と思っていた。むしろ、真理だ。
ただナチが複雑にして、自らを追い込んでしまっているだけで、二人が言っている事の方が、世間一般からすれば、おそらく正しい。
「でも、たまには僕も二人を見習おうかな」
穏やかにそう言うと、マオは少し目を細めながら、下唇を突き出していた。
「お兄さん。私達の事、馬鹿にしてるでしょ?」
「若造のくせに生意気だぞ。全く。礼儀がなっておらぬ若造だ」
「してないよ。馬鹿にしてたら、今一緒に居ない」
そう言うと、マオとイズは頬を掻きながら、ナチから視線を外した。イズの表情は読み取れないが、マオの顔が朝日に照らされて、少しだけ赤くなったのを見た気がした。
「さ、さあ街に帰ろう!」
「そ、そうだな。シロメリア達が心配しておるだろうしな。早く、帰るとしよう」
「何、照れてるの?」
「うるさい!」
「黙れ!」
「……はい」
体を地面に出来るだけ平行にさせたイズの上に、マオが先に乗ると、ナチもその後に続いた。
霊力を酷使したせいか、頭の中身が岩にすり替わってしまったのではないか、と思う程に重い頭。脳が霊力回復と、体を休養させる為に、睡眠を要求しているのが考えなくても分かる。
街はもうすぐそこに見える。ナチ達の行く手を阻もうとする敵はもう居ない。
街に着いたら、ゆっくりと寝かせてもらおう。何日、眠り続けるだろうか、などと考えていると、イズは街に向かって走り出した。
壊れた石造りの門の前。イズはそこで立ち止まった。「我は疲れた。さっさと帰りたい。だから、ここからは歩いて帰れ」とナチ達に歩いて帰る事を強要してくる。
断る理由も特になかったが、イズの言い分は自然に見えて、明らかに不自然だ。どうみても、街に入りたくないだけの言い訳。ブラスブルックの人々と会いに行くのを恐れている様にも見えた。
けれども、イズの気持ちが分からないでもなかった。喰蝦蟇が襲来した事で不安と恐怖を抱いていた人々は最初、イズを悪魔だと否定した事実は明白だ。
コルノンの言葉で街の人々は、イズに街の命運を預けはしたが、それは街の中も外も安全な場所では無くなってしまったから。
どうせ危険ならば、安全な場所が存在しないというのならば、悪魔に縋ってしまおうと思ったのだろう。それはイズを信用した訳ではない。
悪魔というレッテルが剥がれた訳ではないのだ。
それに正直、面倒くさいのだろう。飽き飽きした問答を繰り返すのは。
「イズさん。本当に行かなくていいの? シロメリアさんに挨拶だけでもしようよ」
「我はよい。会いたくなれば、すぐにまた会える」
ナチは、マオの肩を叩いた。振り返ったマオが、ナチを見る。眉に皺を寄せ、唇を引き絞っているマオが、無言でナチを見た。
「僕達がシロメリアさん達を連れて来るよ。それでいい? イズ」
「別に我は構わぬが……。お前達がどうしてもと言うのなら」
「じゃあ、連れて来るから、良い子にして待っててね」
「噛み殺すぞ」
じゃあ、行こう、と言って、ナチがマオの手を引っ張り、ブラスブルックへと進もうとすると、前方から巨大な黒い獣が歩いて来るのが見えた。
それは間違いなくクィルで、クィルの周囲には、コルノンも含めた多くの人々が、ナチ達へ向かって歩いて来ている。
歩いている人々は皆、笑顔で怯えている様な人物は一人もいない。クィルの背には子供達が三人乗っており、その三人はナチとマオの特訓を見学していた三人の子供達だ。
どうなっているのだろうか。
「お兄さん。あれどういう事?」
マオがナチの袖をくいくいと引っ張りながら、前方の光景を指し示す。ナチは首を横に振った。それは僕が聞きたいよ、と思いながら、ナチは前から訪れる光景を、眠気を抱えた頭で、ぼんやりと見つめた。
ナチとマオ、そしてイズの前で、立ち止まったクィル。ブラスブルックの人々。穏やかな微笑みを浮かべるシロメリアとネル。
ナチ達は状況を理解できず、ただ立ち尽くした。街の人々、コルノン。シロメリアとネルが笑顔でこちらを見つめている。
そして、堰を切ったかの様に膨れ上がる歓声。それら全てはナチ達へと向けられ、次々に称賛の声が掛かる。まるで音が衝撃波となって波打っているかの様に、音はナチ達へと流れて来る。
「ありがとな、兄ちゃん達!」
「かっこよかったぜ!」
「凄かったよ、お姉ちゃん!」
筋肉質の男性に囲まれ、感謝の言葉を次々に向け続けられるナチとは裏腹に、マオは若い男性や主婦達に囲まれ、イズの周りには子供が多数集まっていた。
状況が未だに掴めず困惑していると、クィルが腕を伸ばし、ナチを男達の群れから引っ張り上げた。
クィルの手の平に乗ったナチは、そこに弱々しく座り込んだ。胡坐をかき、歓声を上げ続ける人々を見下ろした。
全員が笑顔を浮かべる光景を目にしていると、先程までの激しい戦闘が遠い過去の様に思えてしまう。
「皆、見てたんだ。ナチ達が街を守る為に、一生懸命に戦う姿を。だから、皆こんなにナチ達に感謝してるんだよ」
穏やかな声で、クィルは全体を見渡しながら言った。それから、クィルはイズの下へとゆっくりと歩き出した。
子供達に囲まれているイズは、面倒くさそうに、適当にあしらっている様に見えて、子供達の要望を次々と聞き入れていた。
イズの腕や背にしがみつく子供達は、無邪気に笑い声を上げ、近付いて来るクィルに気付くと、子供の半数がクィルの下へと移動した。
「おつかれさま、お母さん、ナチ」
「別に我は何もしておらぬ。ナチが喰蝦蟇を倒し、勝利した。それだけだ」
ぶっきらぼうに言い放ったイズに、ナチは苦笑を浮かべながら口を開いた。
「でも、イズが居なかったら、僕とマオは喰蝦蟇を倒せなかったよ」
「そうか」
穏やかな物言い。どこか安心する口調に、ナチは自然と笑みを浮かべていた。足に肘をつき、手で顔を支える。ナチは今にも眠くて下りそうな瞼を必死に開けながら、戦場となった街道を見渡した。
緑で溢れていた街道は、ナチが生み出した炎により黒が緑よりも際立って見える。既に火は収まりつつあるが、まだ火種程の赤い灯火がちらほらと見えた。
それから爆発現象を二回も起こしたせいか、大きな窪みが地面に二か所、出来ており、その周辺には符の残骸らしき白い破片が落ちていた。
どっちがどっちだろうか、などと下らない事を考えていると、クィルの足下に見知った顔が集合していた。
シロメリアとネル。マオにコルノン。全員がナチを見上げ、それからナチと同じ方向。つまり、戦場を見つめた。
「ナチとマオさんには助けられてばかりですね。何とお礼を言って良いか」
シロメリアがしみじみと言うと、ネルが「それなら!」と柏手を打った。乾いた音が鳴り響き、全員がネルへと視線を向ける。
「二人の為に服を作るっていうのは、どうですか?」
「それは良い考えですね、ネル。お二人の服は喰蝦蟇との戦闘でボロボロになってしまいましたしね。どうですか、ナチさん、マオさん。私達に服を作らせてもらえませんか?」
「ぜひ! お願いします」
マオが喰い気味で言った。シロメリアとネルの手を取り、子供の様にはしゃいでいる。ナチも「お願いします」と簡潔に答えると、コルノンへと視線を向ける。
「コルノンさん、ありがとうございました。コルノンさんが居てくれて正直、助かりました。本当にありがとうございます」
「いえいえ、私は何も」
コルノンの声で、街の人々が動いたのは事実だ。それをコルノン本人が謙遜し、否定しようとも、コルノンの声が、結果的に喰蝦蟇に勝利する事に繋がった事実は変わらない。
あの時、住民達が道を開けなかったら、イズは身動きが取れず、戦場はブラスブルックになった。街の中で喰蝦蟇と戦闘しなくてはならなかった。
もし、そうなった場合、死者がどれ程の数になるのか、想像も出来ない。最悪、全滅もあり得た。
それに街中では、ナチ達が全力を発揮する事が出来ない。満足に能力を振るえない。それは即ち、ナチ達の敗北の可能性を跳ね上げる。
「それでも僕は、コルノンさんに感謝してます」
「それは私達が言うべき台詞ですよ。本来なら、私達が力を合わせて立ち向かうべき相手だったんです。それをナチさん達に押し付けてしまった。お恥ずかしい限りです」
「いいんですよ、気にしなくて。私達が勝手にやった事なんだし。それにお兄さんも、イズさんも最強のお人好しですから」
「我はお人好しではない」
すかさず否定するイズにマオが「本当に素直じゃないなあ」とぼやくがそれを見て、コルノンは笑顔を浮かべる。その後に、「マオさんも最強のお人好しですね」と顔をほんのりと赤くしながら、コルノンは言った。
「そんな事ないですよ。相棒がお人好しなので、私はお人好しではいられないんです」
背中で腕を組みながら、はにかんだマオ。コルノンと同じく、頬をほんのりと赤くしたマオは、ナチを見て気恥ずかしそうに白い歯を見せた。
その発言こそがマオをお人好しだと証明してしまっている事に、マオは気付いているのだろうか。お人好しの相棒の為に、お人好しじゃない自分を演じる。
人の為に変わる事が出来るのなら、それはもうお人好しの所業だ。
ナチがマオに微笑みを返していると、コルノンが視線を逡巡させ、頬を掻き、引き攣った笑みを浮かべているのが見えた。
そして、僅かに肩を落としている。
「コルノンさ」
「おい、お前! 何してる!」
ナチがコルノンに声を掛けようとした瞬間、野太い男性の大きな声がどこかから聞こえて来た。咄嗟の事に発音した方向を聞きそびれる。
ナチが視線を彷徨わせていると、コルノンが背後を振り返り、何かを見て、目を大きく見開いた。口が半開きになる。そして、そのまま何も言葉を発しないまま、固まってしまった。
ナチも、マオ達も全員が、コルノンが向いている方向へと視線を移動させる。
黒。
群衆から少し離れた場所。そこに黒い何かが渦巻いていた。
黒い渦が一人の男を中心に展開され、黒い渦はまるで生きているかの様に、艶めかしく蠢き、主人の指示を待ち続けている腹を空かした獰猛な獣の様でもあった。
そして、その中心に居た男。その男をナチは知っていた。一回だけ。たった一回だけ、会話しただけの関係性。知り合いと呼ぶには、微妙な間柄。
その男は、シロメリアの仕立屋の前で達磨に似た置物を売っていた妙な喋り方をする男だ。
その男を中心に黒い渦は展開し、男の視線は間違いなく、ナチ達へと向いていた。
「ナチさん! あの本見てください!」
コルノンが猛る。必死の形相で、黒い渦に囲まれる男へと指を向け、男が手に持っている本を指し示す。
黒い本だ。表紙も、紙も、全てが真っ黒な本。
それは、黒い獣が封印されていた本だ。翌日に紛失し、ナチとマオ、コルノンの三人で書庫内にある全ての本を選別し、それでも見つけられなかった本。
その本を、置物売りの男が手に持っていた。本を開き、何かを呟いている。ナチ達が居る場所では、何を言っているのか、露ほども聞こえない。
だが、何故か肌が粟立った。その理由は分からない。邪気を当てられ続けているかの様な感じ。とにかく、嫌な感じがする。
あの本なのか、黒い渦に対してなのか、あの男に対してなのかは分からない。だが、ナチの脳内で警鐘が鳴っている。鳴り続けている。
逃げろ、と。ナチの体に指示を送り続けている。だが、魔王に追われている子供の様に、ナチの体は動かない。恐怖が声帯を引き絞ってしまっているかの様に、声も出ない。
あれは、危険だ。
そう脳が判断し、警告が出ると共に、逃げろ、と指示を出し続けているのに、ナチはその男と黒い渦に恐れ慄き、全ての命令を遮断してしまっていた。
「お兄さん! クィル! 逃げて!」
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