第40話 バックドラフト

 イズは出来上がった道を駆け抜け、喰蝦蟇しょくがまへと一直線に駆け抜けていく。それを迎え撃つように放たれた長い収縮性を持つ舌がイズの右腕を絡み取る。


 ねっとりとした唾液がイズの腕を絡め取るも、今のイズには「強化」の属性が付与されている。


 元々、持ち合わせている膂力に、「強化」。力負けする事は無い。


 イズが桜色の舌を左手で掴んだのと同時に、ナチは喰蝦蟇の開いた口に向けて、符を投げ飛ばした。口内へと消えていく符を見送ると同時に、イズが舌を力任せに引っ張り、街の外に向かって走り出す。


 引き摺られる喰蝦蟇は必死に抵抗しようと、四肢ししを地面に食い込ませ、踏ん張ろうとしている。だが、「強化」の属性を付加されたイズの膂力には敵わず、すぐに地面を理不尽に引き摺られる事になった。


「このまま街の外へ、引っ張り出すぞ」


 街の出入り口にもなっている門。イズは舌を引っ張り、喰蝦蟇の体を引き寄せると、口の端を掴み、門に向かって投げ飛ばす。投げ飛ばされた喰蝦蟇はとてつもない速度で、門へと激突し、門と門を覆っていた石壁は粉々に砕け散った。


 それでも、勢いは衰えず、街道を大きく転がっていく喰蝦蟇。体に張り付いた雑草が、喰蝦蟇の体を覆っている粘液を吸って黒ずんでいく。


 蛙は身を包む皮膚が薄く、体内の水分を逃がさない様に、粘液を分泌し、全身を湿らせている。喰蝦蟇もその例に漏れず、全身に粘液を纏っている様だ。


 地面を転がる喰蝦蟇に向かって、イズが路地を駆ける。壊れた門を通過し、街道へと躍り出ると、イズは転がっている喰蝦蟇の腹を蹴り飛ばす。


 街道を跳ねる喰蝦蟇。「強化」しているとはいえ、さすがのイズも街から大きく離す程の距離を蹴り飛ばす事は出来なかった。


 数十メートルの距離を跳んだ喰蝦蟇は、すぐに体勢を立て直すと空中を翔けた。強靭きょうじんな四肢が生み出す跳躍力は、イズの体を優に跳び越え、巨大な肉体でナチとマオ諸共、イズを踏み潰そうとする。


 イズは右に素早く避ける。「強化」が生み出す剛力は、イズの機動力も底上げする。単純な攻撃ならば、避ける事は容易い。先程まで、イズが居た場所に急速に落下した喰蝦蟇。


 その衝撃で地面が揺れる。その振動をものともせずにイズが、喰蝦蟇の背に向けて一歩踏み出そうとすると、喰蝦蟇がその場で大きく時計回りに回転する。


 その瞬間、伸ばされた桜色の舌が鞭の様に、イズへと迫る。


 遠心力も追加され、速度を上げ続ける舌をイズは右腕で防ごうとするが、その威力の高さに防ぎきる事が出来ず、舌が当たった瞬間、左側に吹き飛ばされた。


 地面を転がる瞬間、ナチとマオはイズから手を離す。このままイズと共に地面を転がれば、イズに踏み潰されナチ達が命を落とす。


 ナチとマオは数メートルの距離を転がり、地面に手を着くと後方へと視線を向けた。ナチの遥か後方に転がっていくイズは、ブラスブルックの石壁に激突して、動きを止めた。その距離、約百メートル弱。


 おそらく、転がった拍子に「強化」の属性が付加された符も効果が切れた。


 符が効力を失った時に感じる、虚脱きょだつ感に似た様な物を感じる。という事は、符は既に効力を失ったと考えていいだろう。


 強化を失ったイズがここまで来るには早くても数秒は掛かる。しかも、まだ体を起こせていないイズがナチ達の下へ、すぐに駆けつける事は不可能だ。


 ナチは舌を口内へと引き戻している喰蝦蟇へと視線を注ぐ。イズが体勢を整え、ナチ達の下へと駆けつけるには最低でも二十秒は掛かる。二十秒もあれば、喰蝦蟇がナチ達を殺す事は、赤子の首を捻るよりも簡単だ。


 だが、それは喰蝦蟇がナチとマオを瞬殺できるだけで、ナチ達が喰蝦蟇を倒せないという訳ではない。勝利を望むには、圧倒的に不利だという状況は変わらない。けれども、勝てない訳ではない。


 単純な事を言えば、瞬殺される前に瞬殺する。これが出来れば、ナチとマオは勝てる。


 ナチは符を三枚取り出した。その全てに属性を付加。「火」と「火」。同じ属性を込める理由。それは単純に基本能力値の底上げ。限界値が十の能力を二十に増大させる。


 弱者は知恵を使わなければ、強者に追い縋すがる事は出来ないのだ。


「マオ、お願いがあるんだ」


「何?」


 穏やかな声。こんな状況だというのに、両者は穏やかな声を紡ぎ出す。


 ナチは、これからの作戦を手短に説明。ナチの作戦は単純だ。マオにしてもらいたい役割も単純そのもの。複雑な手順を踏むのは全て、ナチだ。


「余裕だよ、そんなの」


「今日のマオは頼もしいね」


「いつも頼もしいよ」


「そうだね」


 ナチとマオは、軽く拳を打ち付け合うと、二人を見下ろす喰蝦蟇へと戦意を向ける。隣に立つマオの呼吸音が聞こえてくる程に、静かな戦場。街道を駆け抜けた風が雑草を揺らし、落ちた新緑が宙に舞い上がる。


 餌を前にした喰蝦蟇は、腕に力を込め、顔をナチ達に向けて突き出している。その姿は、餌を目の前に置かれ、待たされている飼い犬の様だった。


 手に持った符を握り締めていると、背後から音が聞こえてくる。おそらくはイズが立ち上がる音だ。ナチ達にも聞こえているのだから当然、喰蝦蟇にも聞こえている。


 その音は喰蝦蟇の注意を一瞬だけ引き付ける。


「マオ!」


 マオは頭上に氷の剣を二本、素早く作り上げる。その一本を喰蝦蟇に向けて射出。高速で撃ち出された氷剣は、切っ先を喰蝦蟇に向けて、真っ直ぐに飛んでいく。


 だが、喰い蝦蟇は俊敏しゅんびんな動きで、それを左に跳躍して避ける。が、マオは作り上げたもう一本の氷剣を、喰蝦蟇が避けた瞬間に射出。空中に居る喰蝦蟇に氷剣を避ける術は無い。


 氷剣は、喰蝦蟇の右の眼球に目掛けて、直撃する。と思われた。


 ところが、喰蝦蟇は大口を開け、長い舌を振り回す事で氷剣を撃墜げきつい。無残に散っていった氷剣は、喰蝦蟇の舌に絡め取られていく。


 ナチは喰蝦蟇の口が大きく開いた瞬間、符を三枚、投げ飛ばした。長い舌が氷を砕いた瞬間、口内へと侵入した三枚の符は、食道を通過し、胃に到達する。


 それを見た瞬間、ナチとマオは同時に、不敵な笑みを浮かべた。


 ナチがマオに頼んだ役割。それは、喰蝦蟇の口を僅かでもいいから開ける事。その役割をマオは見事に完遂した。心の中で賛美を送りながら、ナチは霊力を流し、『四枚』の符に込めた属性を具象化する。


「火」と「火」の属性を付加した三枚の符。そして、イズが街中で奮闘していた時に先に胃に到達させておいた「大気」の属性を付加した符。その合計四枚の符を同時に起動。


「マオ、離れるよ」


「うん!」


 ナチとマオは喰蝦蟇から距離を取る為に、後方へと駆けだした。だが、ナチ達が距離を取ろうとするのを喰蝦蟇が見逃すはずもなく、二人に向けて長い舌が放たれる。唾液が絡んだ舌が、二人に急速に迫る。


 真っ直ぐに放たれた舌は、マオの背に追い縋ると、その体に巻き付こうとする。舌がマオに触れた瞬間、さらさらだった唾液は粘性を増し、蜜の様に粘り気のある液体へと変わる。


 そのまま舌は、マオの左腕から腹へ回り、右腕まで回ろうとする。


 だが、マオを絡め取ろうとしていた舌は、緊張が走ったかのようにピンと伸び、素早く喰蝦蟇へと戻っていった。


 マオがその場に膝を着き、戻って行く舌を目で追い掛けていた。ナチも戻って行く舌の動向を目で追い掛ける。


 舌が戻った先には、紅蓮の炎を吐き出している喰蝦蟇の姿があった。


 口から漏れ出る炎は、魔法の世界に存在したドラゴンと呼ばれる怪物を思い出させるが、そんなに猛々しい姿では無かった。


 胃の中の物を吐き続ける様に、炎を口から放出し続ける喰蝦蟇。その姿は、酔っ払いが酔いに任せて胃液を吐き出している姿に近い気がした。


 目の前の蛙が炎を吐き続けている理由。それは喰蝦蟇の胃の中にあった。ナチが胃に放り込んだ「火」が二つ付加された符。それらを三つ組み合わせれば、蛙の胃を焼き尽くす程の熱量を持った炎を生み出す事が出来る。


 だが、それ程の熱量を維持するには、大量の酸素を常に供給する必要がある。しかし、胃の中にそれほどの酸素は存在せず、供給される事も永遠にない。呼吸で賄える酸素量では必ず限界が来る。


 だから、ナチはもう一枚の符をあらかじめ用意しておいたのだ。「大気」の属性を付加した符を先に胃の中へと入れた理由は、後から来る火種を絶やさない為。半永久的に炎を燃やし続ける為。


 つまり、常に火種に酸素を送り続ける、半永久的な酸素供給機関を即興で作り上げた。これでナチが任意で符を解除しない限り、喰蝦蟇の胃の中で炎は燃え続ける。


 喰蝦蟇は腹の中で燃え続ける火を消そうと、地面をのた打ち回った。腹を叩き付け、地面を転がるが、炎は消えない。全ては腹の中で起きているのだから、消えるはずもない。


 口から漏れ出た炎は次々に雑草に飛び火し、喰蝦蟇を包む様に焔は展開していく。燃える度に発生する黒煙が空を覆い、それは青空を覆い尽くさんと言わんばかりに発生しては、天へと昇っていく。


 ナチとマオは燃える喰蝦蟇から距離を取りながら、駆け寄ってきたイズと合流する。骨に異常は無い様だが、それでも、右腕や歯には出血の跡が見られた。


 イズの体を心配しつつ、大炎上と化している路地で地面を転がり回る喰蝦蟇を少し離れた場所から見つめるが、喰蝦蟇が倒れる気配は一向に見られない。


「酷い事をする」


「でも、倒せてない」


「もうすぐ倒れるかもよ?」


「いや、あの程度の火力じゃあ倒せない」


 あれでは勝てない。あのままでは、炎もいずれ鎮火する。いや、させられる。胃の中の符が何かの拍子に壊れる可能性が無い訳ではないのだ。


 それに、喰蝦蟇は胃の中の符を破壊しようとしている様にも見える行動を、繰り返し起こしている。


 胃の中に内包していた何かが喰蝦蟇が転がった拍子ひょうしに激突し、砕け散る。それは、あり得ない話ではない。割と、現実的だ。


 そう思えば、胃の中の符は破壊される瞬間は、そう遠くないかもしれない。


「だが、どうする? 炎のせいで喰蝦蟇には近付けもしないぞ」


 どうするか、とナチは思考を加速させる。ポケットに入っている符は、まだ数百枚はある。雑草を引き千切れば、すぐに符に変換する事も出来る。この戦闘において、武器が足りなくなるという事は無い。


 目の前の状況を確認。燃える喰蝦蟇。飛び火した無数の火種。発生し続ける黒煙。蛙の胃の中で半永久的に燃え続ける炎。酸素を供給し続ける気流操作の符。


 それら全てを結び付ける。連結させ、答えを導き出す為の式を脳内で展開していく。


 何ができる。何が起こせる。あの化け物を倒す為に、ナチは何ができる。生み出された案を消去法で消していく。


 これは駄目。あれも駄目。これも喰蝦蟇には効かない。次々と消しては効果的な案を厳選していく。


 そして、引き絞られた効果的と思われる案。それに必要な符をナチはポケットから取り出した。


 全部で七十枚ほどだろうか。ナチはそれら全てに「大気」の属性を付加。それからナチは、それら全てを喰蝦蟇へと放り投げる。そして、霊力をすぐさま放出し、属性を具象化させる。


 雑草に飛び火した炎も、その中心でのた打ち回っている喰蝦蟇も、全てをドーム状に展開した風の結界に押し込める。だが、喰蝦蟇が本気で結界を壊そうと思えば、いつでも壊せる。


 あまり時間は残されていない、と考えた方が良いだろう。


「何をする気だ?」


「成功するかは分からないけど、少し試したい事があるんだ」


「結構、派手な感じ?」


「成功すれば派手、かな」


 ナチは指先から霊力を込めると同時に、結界内の気流を操作。


 ナチは作り出した結界内に新鮮な空気を流し込み、雑草を燃やしている炎の勢いを強め、そして、その炎が生み出す可燃性ガスを結界上部に集めていく。さらに、結界外部に拡散されていた可燃性ガスも収集。


 生み出された膨大な可燃性ガスを結界内に留め続ける。


 ナチはポケットから全ての符を取り出した。何枚あるのかは分からないが、少なくとも五十枚はある。それら全てに「火」の属性を付加し、結界に向かって投げ飛ばす。


 投げ飛ばした瞬間に、霊力を放出し、ナチは結界内の酸素供給を停止。


 そして、結界内の酸素を、猛る炎が火種として生きられる程の酸素量に固定。一瞬にして不完全燃焼を起こし、小さくなる炎。その後に、「火」の属性を付加した符が、酸素量の少ない結界内に次々と侵入する。


 その瞬間、ナチは固定した酸素量を変更。結界内に大量の酸素を送り込み、火種を再燃させると共に、「火」の属性を具象化。燃え上がる火種と、新たな火種。


 それら全ては、送り込まれた大量の酸素によって急速に勢いを増していく。再び勢いを取り戻した炎に取り込まれていく新たな火種達。


 火種を取り込む度に温度は上昇していき、猛々しく燃え上がる紅蓮の焔は、結界内に留まらせておいた膨大な量の可燃性ガスを爆燃させる。


 それは、本来ならば室内などの密閉空間で起こる、バックドラフトと呼ばれる爆発現象を引き起こす。

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