第39話 喰蝦蟇

 街へと戻る頃には、日は完全に昇り、始業の始まりを告げる鐘がブラスブルックに響き渡る。


 どこで鳴らしているのだろうか、などと思いながらブラスブルックから少し離れた場所に存在する、小さな池の前でナチ達は、腰を落ち着けていた。


 ブラスブルックで鳴っている鐘の音が聞こえる程には街に近付いている事もあり、クィルとイズが街の住人達に見られては困るだろう、とこの場にナチ達を下ろしたのだ。


 昨日、守衛に姿を見られているのだから、あまり意味は無い様な気もしたが、それでも心優しい獣の気遣いは有り難く受け取っておくべきだろう。


「街まで送ってあげられなくてごめんね」


「気にしないでください、クィル」


「そうだよ。気にしないでよ、クィル」


 シロメリアとネルがクィルの右腕を擦りながら、クィルを宥めていると、池の水を飲んでいたイズが、唐突に顔を上げる。ボタボタと毛に着いた水が池に落下し、その度に水面に波紋が広がる。


 ナチはその波紋に風流を感じ、恍惚と眺めていたが、マオがナチの袖を引っ張った事により、視線は半ば強制的にマオへと向けられる。


「どうしたの?」


 マオはナチには視線を向けず、ある一定の方向へと視線を注いでいた。いや、イズも同じだ。マオと同じ方向へと視線を向けている。シロメリアもネルも、クィルも。ナチ以外の全員が、同じ方向へと顔を向けている。


「お兄さん、あれ」


 マオが指を指した方向へと、ナチは視線を傾ける。ゆっくりと動く視線の途中で、鳴っていた鐘の音が、不自然に途切れた。音が途切れたのと同時に、ナチの視線はマオの指が指し示す方向を視認する。


 マオが指差していたのは、ブラスブルック。細かく言えば、ブラスブルックの中心にそびえ立つ大樹をマオは指差していた。


「あれは……」


 大樹の先端。傘の様に広がる樹冠の上。そこに居るのは巨大な黄色い何か。黄土色と言った方が近いかもしれない。ナチ達が居る場所からでは、遠目にしか見えないが、それでも、木の上にそれが居る事だけは分かる。


 あれは、蛙だ。巨大な蛙。おそらく、イズとそれほど変わらない巨大な肉体を有し、大樹の上の蛙は街を見下ろしているかの様に見える。


 どうして、あんな場所に巨大な蛙が居て、何の目的があってブラスブルックにやって来たのだろうか。あの蛙は何なのだろうか。


 脳内で疑問が駆け巡る中、ナチはふと右側で黒い何かが揺れているのが視界の端に映り、そちらへと視線を送った。


 ナチの右隣で茫然とブラスブルックを見ていたはずのイズの体が、ブルブルと震えていた。毛が小刻みに揺れ、顎に力が入り、歯が砕ける予兆の様な音が聞こえてくる。


「イズ?」


「あれは……五十年前のブラスブルックに災厄をもたらし、我が夫の命を犠牲にして、この地から追い払う事に成功した人食い蛙。喰しょく蝦蟇がまだ」


「あれが本当の悪魔って事?」


「そうだ。幼い子供が行方不明になった怪奇現象。その全てが喰蝦蟇の仕業だ。奴が子供達を喰らっておったのだ」


「喰蝦蟇……。蛙……」


 クィルに会いに行く為に、森へ向かった時、ナチは不思議な液体を発見した。蜂蜜の様な粘性を持っていたはずの液体が、ナチが触れ、僅かな時間が経過した後、水の様にさらさらになった液体。


 そして、科学が発達した世界でナチは、一度だけだが耳にした事がある。


 蛙の唾液は、最初は水の様にさらさらで、獲物を捕らえた瞬間、粘性が変化し蜂蜜よりも粘度が高い物へと変化。そして、獲物と共に舌が口内へと戻った瞬間、再び水の様にさらさらな液体へと戻る。


 蛙の唾液は、粘度が一定では無く変化する流体。非ニュートン流体だという事に。


 もし、あの大樹の上で鎮座する蛙が、異世界の蛙と同じ特性を持ち合わせているとすれば、あの液体を零したのは、喰蝦蟇という事になる。


「でも、イズさんが追い払ったんでしょ?」


「ああ、間違いない。間違いないが、この地に帰って来ぬ、という保証は無いのだ。それに別の固体という場合もある」


「どうする? シロメリアさんは今、ブラスブルックには居ない。クィルの封印も解けた。あの街を助ける理由は無いけど」


 ナチは大樹の上で動きを見せない喰蝦蟇に視線を固定したまま、言った。


「お兄さん!」


 マオの怒りに満ちた声が響く。ナチはそれには取り合わず、イズへと視線を向け続ける。


「馬鹿者。あの街はシロメリアとネルが暮らしておる街だ。それだけで助ける理由になり得る」


「そっか。なら、今度こそ災厄を払わないとね」


「何を考えておる?」


「喰蝦蟇を殺す」


 その場にいた全員が、ナチへと視線を向けた。


「出来るのか。我に臆していたお前が」


「それは言わない約束でしょ?」


「そんな約束を交わした覚えはない」


「……まあ殺すつもりで戦おうって事だよ」


「何だ、その脆弱な覚悟は」


「僕は殺すつもりだって」


「……まあよい。まず我とナチ、マオの三人で喰蝦蟇を街から引き離す。我等が喰蝦蟇を街から引き離した後、クィル、お前はシロメリアとネルを連れて、ブラスブルックに戻れ」


「どうして? 僕も戦うよ」


「お前は二人と街を守れ。相手は喰蝦蟇だ。我等もどうなるのか分からぬ。我等が敗れた時は、お前が街を守れ」


 クィルがイズに向かって一歩踏み出す。


「大丈夫。お母さんは負けない。僕のお母さんは無敵なんだ。だから、絶対に負けない」


「馬鹿者。世の中に絶対は無いのだ。だがまあ……お前が無敵だと言うのなら、我は無敵なのだろう」


 ナチとマオは、イズの物言いに苦笑し、お互いに「素直じゃないなあ」と口にした。それを聞いたイズは、恥ずかし気に耳を掻くと、ナチとマオの前に首を差し出した


「行くぞ。まずは、喰蝦蟇をブラスブルックから引き摺り出す」


「うん」


「任せてよ」


 ナチとマオは、差し出されたイズの首に足を掛け、そのまま背に乗った。前屈みになると同時に、毛を掴み、大樹の上の喰蝦蟇に視線を固定する。


「皆さん。気を付けて」


「マオ。やるからには本気でね」


「お母さんのこと頼むね、ナチ」


 ナチは無言で頷き、マオはネルに見える様に拳を握りしめた。ナチは上着のポケットから符を五枚、取り出すとそれを幾重にも破った。破り終えた符は、数にして数百枚。これだけあれば、戦闘中に符切れを起こす事は無いだろう。


「行こう!」


 ナチとマオを背に乗せたイズは、小さく首を頷かせると、ブラスブルックへ向かって全速力で駆けだした。



「イズさん! 喰蝦蟇が」


 イズが走り出した瞬間、行動を開始する喰蝦蟇。ゆっくりと動き出す四肢が、徐々に前に踏み出される。大樹が揺れ、葉と枝が街に降り注いでいるのが、遠目からでも分かる。


 舞い落ちる葉や枝にばかり注目していると、不意に喰蝦蟇の頬が膨れていくのが見えた。巨大な飴玉を両頬に口にしたのではないか、と思う程に膨らんだ頬。


「イズ! 急げ!」


 ナチは気付けば声を張り上げていた。もう時間は無い。


 捕食の時間は、もう始まろうとしている。間に合うか、とナチが懸念し始めると同時にイズは速度を上げる。


 街はもうすぐそこにあるのに、景色は常に高速で流れているのに、砂漠で見る蜃気楼の様に、ちっとも距離が縮んでいないかの様に見えた。それが全員の焦燥感を更に煽る。


 符を五枚、取り出すとナチはそれに属性を付加し、イズの四肢と背に投げ飛ばし、張り付けた。


 符に付加した属性は全て「強化」。ナチは霊力を放出し、属性を解放。イズの全身に人の身では御せない剛力が宿る。一瞬、全身の毛が逆立ち、筋肉が振動したのが背中に居るナチまで伝わって来る。


「何をしたのか知らぬが、しっかりと捕まっておれ! 振り落とされても拾ってはやれぬからな」


 背に乗る二人は、言葉通りに毛を力強く握った。その瞬間にイズの速度は格段に上昇する。流れてく景色が急速に加速し、速度の上昇と比例して跳ね上がった風圧に空中に振り落とされながらも、二人は必死に毛を掴み堪える。


 ナチが「強化」を使用する場合、約十秒の制限が設けられる。それは、ナチの体が強すぎる力に耐えられないからだ。だが、それも「強化」に耐えられるだけの下地が存在すれば、話は変わる。


 人よりも遥かに強力で、人の枠から大きく外れた膂力を持ち合わせているイズに、効果の制限時間が設けられることは無い。


 超高速で流れ始めた風景。その中で、一つの光景がナチ達の前に映し出される。


 宙に浮かぶ、黄土色。頬を膨らまし、両手を大きく広げた喰蝦蟇が街へ勢いよく落下しているのを。体が重いせいか、とてつもなく速い落下速度で落ちていく喰蝦蟇は、着地と共に街の何かを破壊した。


 何かが壊れる破砕音。それが何かは分からないが、それが鳴り響いた瞬間、甲高い悲鳴が次々に上がる。その阿鼻叫喚は徐々に増え始め、やがて衝撃音の様な爆音へと変わっていく。


 悲鳴が上がるのと同時に、イズはブラスブルックを囲む石壁を跳び越えた。


 朝日が差し込む路地を逃げ惑う人々。泣き叫び、我先に街の外へと向かう人々は、イズの出現に先程までとは別種の悲鳴を上げ、一瞬の内に阿鼻叫喚へと戻る。


 路地は人で溢れ返っており、そのせいでイズは身動きを取れない状況になっていた。喰蝦蟇とイズ。真の悪魔と偽の悪魔の出現に、街は恐怖と混乱に包まれていく。


 それが更に、イズの動きを妨げる要因になっていく。


 目の前を、両端を通り過ぎていく人々を見て、ナチが符を取り出し、道を開こうとした瞬間、イズが阿鼻叫喚に勝る声で吠えた。


「邪魔だ! 道を開けろ!」


 遥か遠方まで通る凛々しい声。広範囲まで及ぶ音の爆弾。それは、街の人々に間違いなく届いた。その証拠に、街の人々はぴたりと動きを止めた。「悪魔が喋った……」などと、緊張感の無い事を口走っている者がいる始末。


 そして、それは大樹の下で長い桜色の下を振り回し、破壊活動に勤しんでいる喰蝦蟇にも届いている。動きを止める喰蝦蟇。巨大な紫の双眸が、ぎょろりとナチ達へと向いた。


 圧し掛かる重圧。心臓を握られ、常に握力を込められているのかと思う程に苦しくなる呼吸。背中の毛が逆立つと共に、ナチは巨大な黄土色の蛙をハッキリと視界に捉えた。


 体中に出来た発疹の様な膨らみ。全体的に肉付きが良さそうに見える肉体とは裏腹に、水掻きが付いた四肢は筋肉で包まれ、血管の様な線がピクピクと微動している。


 ナチが予想した通り、イズとほぼ同じ大きさの肉体を有する喰蝦蟇。イズの背に乗っている事もあり、喰蝦蟇の視線が真っ直ぐにぶつかり、真っ直ぐにぶつけ返す。


「お前達は街の中に居ろ! 喰蝦蟇は我等が何とかしてやる」


「だが、お前は」


 この期に及んでも、悪魔という固定概念に囚われているのか、こいつらは、とナチは符を取り出し、イズの肩に足を乗せ、立ち上がった。路地に居る全ての人間を見下ろし、符を住人達に向ける。


「死にたいんですか、あんた達は?」


「死にたくはないが、そいつは悪魔で」


「現実を見ろ! 今、あんた達に危害を加えているのはどっちですか? 今、あんた達の平穏を壊しているのはどっちですか? あんた達を救ってくれるのはどっちなのか、良く考えろ!」


「もうよい、ナチ。我は信用してもらう為に来た訳ではない。勝手に助けて、勝手に救う為に来たのだ。こやつらが我の事をどう思っていようが、我は勝手にやる。死にたくない者は、道を開けろ。退かない者は踏み殺す」


 冷たい声色に潜んだ優しさに気付いた者が何人、居たのか。ナチは歯を食いしばると、再び背に戻り、毛を掴んだ。悔しさから、イズの毛を掴む力が無意識に強くなる。


 結局、ナチに人の意思は変えられない。鉄壁の壁に貧弱な刃をぶつけても刃こぼれするだけなのと、同じ。強固に結びついた固定概念を解く事は、出来はしない。余所者のナチの言葉では、この街の人々には届かない。


「…………道を開けろ」


 声が聞こえて来た。小さな声だが、誰かの声が不穏な静寂に包まれている路地に響き渡る。ナチは顔を上げ、声がした方へと振り返った。


 そこに居たのは、コルノンだ。コルノンが震えた唇で、恐怖で怯えた瞳を彷徨わせ、目尻には一杯の涙を溜めているのに、声を上げていた。


 恐怖を押し殺して上げた声はとても小さな声だった。だが、それでも彼の勇気はハッキリと伝わって来た。小さな小さな勇気の種が、伝わって来る。


「……わ、私はこの二人に助けられました。私はこの二人に救われました。だ、だから、この二人が信用するこの人も信用できます! どうか、道を開けてください!」


 震えた声が路地に響く。それはほとんど、泣き声の様だった。何度も何度も、コルノンは引き絞る。上ずった声で、声が枯れるまで叫び続けた。


 そして、縋る様に、引き出された勇気ある声は、街の人々を少しずつ動かしていく。


 路地の端に寄っていく、人々。


「全員、端に寄れ! 家の中には逃げるなよ!」


「道を開けろ! どうせ、街の中も外も危険なんだ! この人達に賭けてみよう」


 その声に従って、端に寄っていく人々。出来上がっていく、喰蝦蟇へと通ずる道。黙って、その光景を目にしていると、一人の男性がナチ達へと歩み寄って来る。


 コルノンだ。


「僕達は、もう逃げる事しか出来ません。逃げた所で安全なのかどうかも分かりません。どうせ何をしても危険なら、私はナチさん達に賭けます」


「コルノンさん……」


 ナチが驚きで言葉を告げられないでいると、マオが右手で自身の胸を叩いた。どす、と鈍い音がすぐ横から聞こえてくる。


「任せてください! 私達が必ず救って見せます」


 マオは歴戦の勇者の様な勇ましさを表情に宿しながら、言った。その口調もどこか頼もしい。ナチは無言で頷き、視線を喰蝦蟇へと移す。出来上がった道の先に居る喰蝦蟇は頬を一定速度で膨らませ、イズを凝視している。


「準備はいいな?」


「もちろん!」


「いつでもどうぞ」


「行くぞ!」

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