第38話 心に巣食う弱虫

 そう言えばそうだったかもしれない、と思いながら、ナチが瞼を上げると、何故かナチは囲まれていた。マオとネル、クィルがナチを見下ろしている。マオの手がナチの鼻に伸び、ネルの両手は両目に向かっている。


 それを静かに見つめるイズ。


 イタズラ小僧の様な悪い笑みを浮かべながら、ナチへと魔手を伸ばすマオとネルは、ナチが目を開けた事で静かに手を戻し、笑顔を浮かべた。そして、静かに立ち上がると、マオとネルは空を見上げた。


「星が綺麗だね、ネル」


「こんな幻想的な夜に感謝だね、マオ」


「おい、誤魔化すな」


 ナチが体を起こそうとすると、イズが静かに手でナチの体を制した。再び地面に密着した背中から、冷たい土壌の感覚が伝わってくる。


「お前はゆっくり寝ていろ。その時が来たら起こしてやる」


「本当に? 置いて行かれる気がしてならないんだけど」


「本当だ。我はそんな事はしない」


 何処かしおらしいイズを見て、ナチは首を傾げる。


「どうしたの? 何かあった?」


「……ネルから聞いたぞ。お前は昼間、クィルを助けたそうだな」


 ああ、その事か、とナチは冷たい土壌がナチの体温によって少し温くなったのを感じながら、イズに視線を送る。


「助けたっていうかシロメリアさんに助けてって言われたから」


「それでも、お前は助けたのだろう?」


「結果的には、そういう事になるのかな」


「その後に住民達と一悶着あったと聞いたが?」


「あったかも」


「あったかもって……お前は阿呆なのか? どうして、得体の知れぬ獣の味方などをした? 人の世で生きるお前にとって、利口な行動ではないと分かっていたのだろう?」


「そう言われてもなあ……。僕は迷信とか噂話だけで人の本質を決めたくないんだよ。自分で見聞きした事しか信用できないから。だから、疑問を持ったままクィルを悪魔だって決めつけたくなかったんだと思う」


「それがクィルを助けた理由か?」


「かもしれない。だって、クィルは悪魔だって呼ばれてる割には人を襲わないし、無抵抗だった。聞いた話と見た事実が食い違い過ぎてて、ずっと疑問だったんだよ。疑問がある内は、悪魔と断定は出来ないよ」


「……おかしな男だな、お前は。お前がおかしいおかげでクィルは助かった訳だが」


「僕のおかしさに感謝だね」


「そうだな」


 急に優しくされると何故か怖くなるな、と思いながら、ナチはイズを見た。どこか遠くを見つめるイズは、ナチの視線に気付くと、少し不機嫌な雰囲気を醸しながらナチへと顔を近付けた。


「何だ? 人の顔をジロジロと見て?」


「イズは優しいね」


「下らない事を言っていないで、疲れているならさっさと寝ろ」


「まだ大丈夫だよ。確かに今日は戦闘続きで疲れてはいるけど、イズが気にしなくても大丈夫」


「我は気にしてなどおらぬわ、馬鹿者」


 照れと怒りが混じった声を発した後に、再びどこか遠くを見つめるイズを見て、ナチは声を上げて笑った。


 本当に優しい獣だ、と思う。イズがナチに対して優しくなった理由は、ネルやマオから色々と聞いたからだろう。マオとの特訓や、昼間の騒動も全て。


 その後に起きたイズとの戦闘を加味しても、ナチは相当、疲弊しているとイズは思ったのだろう。


 少しだけマオと似ているな、と思う。口調などは全く違うが、本質的にはマオと少し似ている気がする。脳筋な所も、優しさをあまり見せたがらない所も、意地っ張りな所も。


 それに、マオとイズの会話を聞いていると馬が合っているのか、話しが弾んでいる様にも思う。やはり、本質は似ているのだろう。


「イズは五十年間、森で待っていたの?」


 イズはすぐには答えなかった。丘を吹く風だけがナチの耳に届き、静寂がより強く感じられる。この丘から誰も居なくなってしまったのではないか、と錯覚する程の静寂に、ナチの心臓は高鳴りを増す。


 それから数分が経った後、星が右から左に流れて行った瞬間を目にした時に、イズは口を開いた。


「ブラスブルックの子供らが行方不明になったという怪奇現象。それは紛れもない事実だ。クィルを贄にして、不安を断ち切ったのはよいが、原因を断ち切った訳ではない。原因はほったらかしだったのだ」


 そうだった。イズに言われてハッとなり、気付く。子供達が行方不明になった怪奇現象。これは、クィルが封印される前から起きていた事で、事実、犯人はクィルではない。


 クィルは、住人達の不安を断ち切る為に用意された傀儡だという事に。


「当然だが、クィルを封印した事で街は仮初めの平穏を取り戻した。その翌日には、子供が外で遊ぶようになり、親達も悪魔の災厄は終わったと信じ込んでおった。だが、原因は取り除かれてはおらぬ。災厄が潜む屋外で子供が遊んでおれば何が起こるのかは想像しがたくはなかろう?」


「子供が再び行方不明になる」


「そうだ。その翌日、一人の子供が行方不明になった」


 ナチは首を傾げた。それだと少しおかしい。気がする。頭に浮かんだ具体性を持たない様々な疑問を連結させていき、それを言葉にする為に脳内で思考を加速させる。


「それだとクィルは悪魔じゃないって証明になるんじゃないの?」


「我も最初はそう思ったさ。だが、ワドルフがそうはさせなかった。封印が不完全だった、とワドルフが口にすれば、住民達は何の疑いも無しにそれを信じ、仮初めの平和が戻って来たと錯覚した。あれはまるで催眠だ」


 話を聞く限りでは、ワドルフが住民達にマインドコントロールを施しているとしか思えない。内輪の外から見ていたイズが催眠と称したのだから、あながち間違ってもいないのだろう。


 洗脳されている人間というのは、洗脳されている自覚が無い。仮初めの平和を、本物だと信じ込んでしまう。もう災厄は振り払われ、悪魔がもたらす悪夢に悩まされる事も無い。


 その甘い幻想を、現実だと思い込んでしまうのが問題なのだ。


「でも、原因は払われていないんだよね? その後も続いたんじゃないの?」


「いや、続かなかったのだ。理由は分からぬが、それ以上の行方不明者は出なかった。子供達が行方不明になる事も無く、街には平和が戻り、原因不明の平和を誰もが受け入れたのだ」


「え? どういう事?」


「まあ、最後まで聞け。ブラスブルックは今でこそ暖かいが、やがて寒い時期がやってくる。我等は違うが、寒い時期になると、暖かい気候がやってくるまで眠りに着く生物がおるのだ。そして、クィルが封印された時、気温は冷えつつあった」


「本当の災厄は丁度、眠りに着いたって事だね」


 イズは「そういう事だ」と醒めた口調で言いながら、天を仰いだ。赤い双眸に映る星の煌めきが、幻想的に見えないのは、ナチの心が沈みつつあるからか。それとも、真実を聞いた事で、混乱しているからなのか。


 ナチは心に溜まった動揺や混乱を整理する為に、息を大きく吸って吐いた。


 この世界に四季の概念があるのかは分からないが、その生物はやがて訪れる冬に備えて、冬眠した。そういう事だろう。そうなれば、街で起きていた怪奇現象も冬の訪れと共に起きなくなる。


 冬眠している間は、災厄は訪れないという事になる。


「でも、それも永遠じゃないよね?」


「ああ、当然だ。だから、我等がこの土地から追い払った。眠りから覚めたばかりで弱っていた奴を。卑怯とは言ってくれるなよ」


「言わないよ。だって、ブラスブルックにはクィルとシロメリアさんが居るんだから。僕がイズの立場でも、きっとそうすると思う」


「まあ、慰めてもらいたい訳ではないのだがな。素直に喜んでおくとしよう」


「あ、うん」


 イズの軽口に真顔になりつつ、ナチは上半身を起こした。両手を地面に着き、体を支えながら、イズを見上げた。


「ねえ、イズ」


「何だ?」


「ワドルフって人。寒い時期に眠りに着く事を知っていたのかな?」


「どうだろうな。知りたければ、ワドルフに聞いてみろ」


「もう亡くなってるらしいよ」


「お前も死ねば、会えるぞ?」


「会えないよ!」


 イズが微笑んだ様な音が、頭上から聞こえてくる。そして、ナチへと顔を向ける事なく、イズは口を開いた。


「……我も詳しくは知らぬのだ、ワドルフという男は。だが、あの男が居たからブラスブルックは崩壊しなかった。その事実は我も認めなくてはならない。奴がしでかした行いは到底、許せるものではないがな」


「当たり前だよ……」


 ナチの呟きがイズに届いたのかは分からない。丘を駆ける疾風に流れて、イズには届かなかったかもしれない。別にそれでも構いはしない。


 ワドルフが行った行為は、ブラスブルックから見れば必要な事だったのかもしれないが、それでも一人の少女と三頭の獣を不幸にした事実は変わらない。少女と両親からすれば、嘘偽りを口にし、身勝手な理由で最愛の存在を奪った極悪非道の人間。


 シロメリアとイズには、ワドルフという存在は、そう映ったはずだ。


 イズの言う通り、ワドルフの行いは許せるものではないし、ワドルフ本人もそれは承知の上だろう。許してほしいなどとは、露にも思ってもいないはずだ。


 だが、ワドルフにも守らなければならない物があったのだろう。


 イズやシロメリア、クィルの様に。彼はブラスブルックという街を守る使命感に燃えていたのかもしれないし、義務感に囚われていたのかもしれない。大切な家族の為に必死になっていたのかもしれない。


 亡くなっている以上は、もう聞く術がないが、きっとそうなのだろう。


「少し寝るけど、ちゃんと起こしてよ?」


「当たり前だ。我を誰だと思っている」


「そっちの二人も、イタズラしない様に」


「はーい」


「はーい」


 本当に起こしてくれるか、という不安と、本当に分かっているのか、という疑問を抱きながらも、ナチは瞼を下ろした。






 ナチが再び目を覚ますと、空は白み、星や月は薄っすらと暁の空に消えつつあった。白い雲が浮かび、それが風と共に流れて行くのを目にしながら、ナチは視線を動かした。


 寝ぼけた頭で、辺りを見渡す。左から右へ、ゆっくりと顔も一緒に動かした。綺麗な緑色の人工芝が、見渡す限り敷き詰められ、ここでピクニックでもすれば最高かもしれないな、と呑気な事を考えていたが、すぐに頭は覚醒した。


 それこそ頭から冷水を被せられたかの様な覚醒の仕方だ。


 誰も居ない。左にも右にも、人影一つ見えない。慌てて上半身を起こす。やはり、左にも右にも前にも誰も居ない。


「置いて……かれた……?」


 ナチは呆然と前方を見つめた。前方には木々が立ち並び、少し薄暗い闇が木々の間から覗き見えた。その闇がナチを少しだけ不安にさせると共に、胸に芽生えだした焦燥感を助長させる。


 ブラスブルックに戻れるのか、とナチは頭の中で必死に考える。こんな知らない場所で、知らない土地で、どちらの方角にブラスブルックがあるのかも分からないこの状況で、ナチは帰れるのだろうか。


 この場所は、おそらくブラスブルックからはそれほど離れてはいないとは思うが、歩き出す方向を間違えれば、距離は遠ざかる。慎重に判断しなければならない。


 どちらだ。どちらへ向かえばいい。ほぼ無意識に、地面に着いている手に力が入る。芝生がブチブチと切れる音がするが、集中しているせいか、あまり気にはならなかった。


 そして、ナチが息を呑んだ瞬間、音は響き渡った。


「こっちだ。早く起きんか、馬鹿者」


「お兄さん、寝すぎだよ」


 声がしたのは背後。厳しい声と楽観的な声が順に聞こえてくる。ナチはゆっくりと首を動かし、顔を背後へと向けた。視界もゆっくりと背後へと向いていき、すぐにオレンジ色の少女と黒い獣を視界に捉える。


 しばし、言葉も発さずに、背後に居た存在を見続けた。全員いる。マオもイズもネルもクィルもシロメリアも。全員、微笑みながらナチを温かい目で見ていた。


 ナチは目を閉じ、息を大きく吸う。苦しくなるまで吸った。それから、先程までの緊張と焦燥感を払拭する様に大きく息を吐く。吐きながら目を開ける。再びマオ達へと視線を向ける。


「お兄さん、大丈夫? めちゃくちゃ顔怖いけど。まさか、置いてかれたのかと思ったの?」


「……思った。起きたら誰も、居なかったから」


 自分でも酷くゆったりとした口調だと思った。物凄く不安を押し殺した様な物言いだった。どうしてそんな口調になっているのか。それに関しては、答えが出ている。記憶の引き出しが開けっ放しになっているからだ。


 記憶の引き出しから次々に取り出される、白の監獄での記憶。誰も居ない空間で、ただ一人、孤独を強いられた空間。声も手も意思も何も届かない、鉄壁の独房。命が存在しない、無命の監獄での記憶が、現在の状況と何故だか重なって見えた。


 ここには命がある。木もある。丘もある。すぐそこにはマオが居て、イズが居て、ネル達が居る。視界に映る景色は、こんなにも明瞭で鮮明で命に溢れているのに、孤独を強いられているかの様な恐怖が全身を包む。


 もう白の監獄は存在しないというのに。白の監獄であんなに立ち回れたのに、どうしてこんなに臆病になっているのか。心に寄生した弱虫が、ナチの心を弱く変えていってしまっているのか。


 白の監獄と、今の状況は全く異なるという事は、自分でも良く分かっている。なのに、心を塞いでいたワインコルクが勢いよく抜けてしまったかの様に孤独感と虚無感が心から際限なく噴き出してくる。


 何が引き金になったのか、自分でも分からない。それでも白の監獄で植え付けられた恐怖は、とても深刻で、粘着質で中々剥がれてくれない事だけは分かる。


 あの時、感じた恐怖はナチの中で今も巣喰っているのだ。それを今、再確認させられている。赤い光が目の前に現れたりするのではないか、とナチの弱い心が警告するも、そんな兆候は一向に表れる事はなく、空は青く、目の前は何時まで経っても緑のままだ。


 その事にナチは安心すると同時に、息を吐き、視線を足下の芝へと力無く向けた。


「大丈夫か? 顔色が悪いぞ?」


「……大丈夫。芝の上で寝たから体が冷えただけだと思う。すぐに良くなるよ」


「本当に? 本当に大丈夫なの?」


 マオがナチの左側にしゃがみ込み、顔を覗く。何故か、マオの顔は血の気が引いていて青白く、本当に至近距離で見ないと気付かない程に唇が小刻みに震えていた。


「本当に大丈夫だから。もう、大丈夫。皆が居るのが分かったから」


「男のくせに、幼子の様な事を言うな。しっかりせんか」


「……うん。そうだね、そうする」


 ぼんやりとした頭で、ナチは深く考えずにそう答えた。自分でも笑えているのか分からない笑顔を浮かべながら。笑った瞬間に頬を伝う汗が芝生に落下し、ナチはようやくそこで自分が汗をかいている事に気付いた。


 右手で額と頬を濡らす汗を拭う。右手を地面に着け、ナチが立ち上がろうとすると、唐突に左手の上に温かい物が添えられた。それを確かめる為に、視線を左側へと送る。


 その温もりの正体は、マオの手だ。マオの両手がナチの左手を包み込む様に、添えられていた。


「大丈夫。怖い夢を見た後に、誰かに側に居て欲しいって思う気持ち、私にも分かるよ。心細いよね。凄く分かるよ」


「別に怖い夢を見た訳じゃ」


「大丈夫だよ、お兄さん。夢だから。どれだけ怖くても、夢だから」


「いや、だから」


「怖い夢を見た時にはね」


「……もう街へと戻るぞ、馬鹿者共」


 呆れた様な声が頭上から掛けられ、ナチはそれに縋る様に頷くと、立ち上がった。

「あ、お兄さん。話はまだ終わってないよ」と言っているマオは無視して、ナチはイズへと歩み寄る。その足取りは力強く、ナチの口端は僅かに上がり、目尻は僅かに下がっていた。


 不思議と、先程まで感じていた恐怖はもう感じてはいなかった。

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