第36話 白と黒、再会

 月が空高く鎮座する夜闇を掛ける二つの獣。照らされる月光に紛れて二つの人影が映し出される。風に揺れる毛に、地鳴りの様な足音を以って野を駆ける黒い影。


 ブラスブルックに迫る二つの黒い獣は、血の様に赤い双眸を煌めかせながら、眼前に街を捉える。木に囲まれた街。石壁に囲われた、石造りの街。街の中央にそびえる一本の大樹。


 傘の様に街を覆い隠す樹冠じゅかん樹洞じゅどうが見当たらない極太の幹には、つるが幾重にも巻き付き、無数に絡まる梢の先には、新緑が常に風に揺れ、葉擦れを街に降ろす。


 夜に恐れて籠に消える雑踏。夜に漂う人影は守衛のみ。黒い獣は月光に輝く草原を、疾風と共に駆け抜ける。


「クィル。お前は昨日、どうやって街に入った?」


 草原を駆け抜けながら、イズは静かな声で言った。


「どうやって、って石壁跳び越えただけだよ」


 街を囲う石壁は確かに高くは無い。高くても三メートル程度だろう。人が跳び越える為には、梯子などの道具が必要にはなるが、クィルやイズならば脚力だけで跳び越える事が可能な様に思えた。


「そうか。ならば、跳び越えよう」


「街の外で待っていてくれれば、僕達が」


「我は待つのは嫌いなのだ」


 ナチの言葉をすぐに否定したイズは迫る石壁に向かって、更に速度を上げていく。ナチとマオは顔を見合わせ、イズが何をしようとしているのか、すぐに理解する。彼女は本当に壁を跳び越えようとしているのだ。


 ナチとマオは静かに息を呑み、イズの毛を少し強く掴んだ。


「行くぞ!」


 ブラスブルックの石造りの門の前。閉ざされた門の前で欠伸を掻いていた守衛が、イズとクィルに気付いた途端に悲鳴を上げているのが分かった。それらを無視して、イズは跳躍。門を軽々と飛び越え、街に侵入すると、土壌の上を疾走。


 クィルも難なく門を跳び越え、イズの後を続く。


「さすが、お母さん。余裕だね」


「当たり前だ。あの程度の高さを跳び越える事など造作も無い」


「これ大丈夫なのかな?」


 マオが少し呆れ気味にぼそりと呟く。


「……大丈夫だよ」


「変な間があったけど」


「ここまで来ちゃったらもうどうしようもないし」


「……そうだね」


 ナチとマオは醒めた目で前方を見つめながら、高速で流れていく風景に目をやった。流れていく家屋。奇跡的に人々は路地には居ない。もし、ここに人が居たとしたら、黒い獣に轢かれ魂が抜けた肉塊に変貌するところだった、と思うと肝が冷えた。


 マオも同じ事を思っているのか、青褪めた顔で流れていく街の景観を映していた。そして、時折「人が居なくて良かったね……」と呟いては、どこか遠くの方向を見つめている姿からは哀愁を感じられた。


「心配するな。人が居ればさすがに避ける」


「お母さん、そこの建物」


 クィルが首を動かし、一つの建物を指し示す。それは、間違いなくシロメリアの仕立屋だった。


「む? どれだ?」


「あれだよ、あれ」


 クィルがライムグリーンの建物を首で再び指し示す。「ああ、あれか」ととぼけた様な声で呟いたイズは、シロメリアの仕立屋に真っ直ぐに突っ込んでいく。


 そして、シロメリアの仕立屋の前で急停止すると、両腕でナチとマオが振り下ろされない様に、優しく包み込んだ。


 そして、完全に静止するとイズはナチとマオを地面へと下ろし、シロメリアの仕立屋へと視線を向けた。無言で、静かに息を漏らし、懐かしむ様な視線を家屋へと向けていた。


「ナチ、マオ。呼んできてもらっても良い?」


 二人は頷き、扉へと向かって行った。扉を開け、中へと入る。当然ながら、店へと入ると待っていたのは暗い店頭。だが、暗い店頭の先に仄かな橙色の灯りが見えた。


 ナチとマオは、店頭から店の奥へと顔を覗かせる。作業場に置いてある一枚板の机。そこに向かい合う様に座っている二人の美女。深刻そうな顔で俯くシロメリアとネルの姿を見て、ナチ達はすぐさま足を動かした。


 足音に気付いたシロメリアとネルの顔が上がる。二人は一度、顔を見合わせた後に視線を店頭へと向けた。ナチとマオの姿を捉えると、ほっと息を吐きながら、椅子から立ち上がり、ナチ達へと体を向けた。


「どう……でしたか?」


「詳しい事は後でお話しします。とりあえず、外へ」


 ナチはシロメリアとネルを扉へと促しながら、先頭を歩く。背後でネルが「何だかボロボロだけど大丈夫?」と言った後に、マオが「大丈夫。軽く運動しただけだから」と軽快に言った。


 決して軽い運動では無かったとは思うが、マオなりの気遣いなのだろう。


 優しい少女だ、と思いながらナチは扉へと手を掛けた。そして、勢いよく開く。


 眼前に広がる夜闇の街。ナチが一歩踏み出すと共に、シロメリアもそれに続く。そして、視界に入る二つの黒。家屋すら超える巨躯が視界に入ると共に、シロメリアは外へと一歩踏み出した場所で立ち止まった。


 茫然。時が止まったかの様に立ち尽くすシロメリアは、確かに眼前で佇む黒い獣を捉えている。風の音だけが響く路地で、一人の老女と二頭の獣の視線は重なった。


 クィルとイズを見上げるシロメリアは瞬きを頻りに繰り返し、現実と幻想の区別をつけようとする。だが、幾度となく瞬きを繰り返そうが消えない黒い獣に、シロメリアの頭はようやく現実を認識する。


 目の前に佇むクィルとイズが、本物なのだと理解する。


 シロメリアが左手で右手を擦る。揺れる瞳が彼女の動揺を物語っている様で、何度もクィルから目を逸らしては、視点をクィルに戻している。


 そうして続いた長い沈黙の後、シロメリアは一歩前に向かって踏み出した。


「……クィル……なのですか?」


 震えた声。手も足も震え、それでも立ち続ける彼女にクィルは手を差し伸べる。


「うん、僕だよ。シロメリア」


 差し出された手にゆっくりと触れるシロメリア。指先で、手の平でその感触を確かめる。


 感触を確かめる度に、漏れる熱い吐息。静かに漏れ出る嗚咽は、風に運ばれて誰の耳にも届かない。黒い手に零れ落ちていく雫を目の当たりにして、クィルは顔をシロメリアに近付けた。


 目の前に現れた大きな顔。その大きな顔にシロメリアは手を添えた。涙を零しながら、シロメリアはクィルの顔を優しく撫でた。


「……ごめんなさい、クィル。私のせいであなたは」


「シロメリア……」


「私があなたを特別だと思ったから、あなたを不幸にしてしまった」


 伏せられたシロメリアの顔。クィルは鼻でシロメリアの顔を上げさせる。無理矢理に重なった視線にシロメリアは口を引き絞り、涙を更に零す。


「シロメリア。僕は不幸なんかじゃないよ。確かに、シロメリアと同じ時を一緒に歩めなかったのは悲しい。でもね。また、こうして巡り会えた。もう一度、シロメリアとこうして会えた。だから、僕はもう全然不幸なんかじゃない。こうして触れ合えることが僕は嬉しい」


「でも、私のせいで」


「シロメリアはずっと自分を責めていたんだね。五十年間ずっと。僕の事をずっと思っていてくれたんだね」


「当たり前です。クィルの事を忘れた事など一度も無かった。忘れる事なんて出来なかった。あなたは、私の特別で大切だから」


「ありがとう。僕もね、シロメリアにずっと会いたかった。暗い闇の中でずっとシロメリアの事を考えてた。シロメリアの顔ばかりが浮かんで、怒った顔でも泣いた顔でも良かった。ただ、シロメリアに会いたくて、それだけを闇の中で願ってた」


 クィルがシロメリアの顔に、自身の顔を擦り付ける。優しく、震えながら。


「僕もシロメリアが特別で大切だ。だから、今度は一緒に僕もシロメリアと生きていたい。これから先、ずっと一緒に」


「はい。はい……」


 次々に地面に落ちる雫は涙雨の様に降り注ぎ、土壌に黒い斑点を生み出していく。シロメリアがクィルの顔を抱き締める様に触れ、クィルが嬉しそうに目を細めている。


 それを見て、ナチとイズは微笑み、マオとネルが目尻に浮かんだ涙を拭っていた。






 ネルが自己紹介を済ませると、クィルがシロメリアとネルを乗せ、ナチとマオはイズの背に乗ると、二頭の黒い獣はブラスブルックから離れていく。


「怖かったんです。特別な存在が特別になっていく程、失った時の悲しみは大きくなる。だから、私は特別を嫌いました。対等性をひたすらに求め続けたんです」


「そういう事だったんですね」


 シロメリアとネルの会話を聞いて、頷くマオ。ナチはその会話について行けず、マオの肩を叩き説明を求めると、マオはざっくりと説明をしてくれた。


 ナチが霊力を酷使した事で眠りに入った時に、シロメリアが話したという特別と対等性の話。その特別を嫌っていた理由が、クィルが封印された事と関係したという事も、ついでに説明された。


 なるほど、と言いながら、ナチはシロメリアとネルを見た。穏やかな顔でクィルの背に乗るシロメリア。


 確かに、特別扱いするという事は、自分と他人を線引きする行為。特別な他人と、平凡な自分。その違いを明確に、客観的に見る行為でもある。一理ある、とはナチも思う。


 定義は人それぞれだが、ナチもシロメリアの特別の定義に頷ける部分がある。だが、それも全てではない。


 特別な関係性の中で築ける対等性も存在すると、ナチは思う。


「お互いに特別なら、それはもう対等と思っても良いんじゃないかな?」


 マオが首を傾げる。そして、案の定「どゆこと?」と疑問を口にした。


「片方が特別だから対等性が損なわれるわけでしょ? だから、お互いが特別なら対等性は保たれる。これに当てはめれば、シロメリアさんとクィルはお互いが特別で大切。つまり、二人は対等って事だよ」


「あー、二人は対等って事だね?」


 絶対、分かってないな、とナチが訝しんでいると、マオは静かにナチから目を逸らした。


「まあ、そう難しく考える必要は無い。シロメリアの場合は最悪な状況が、人格形成前の少女に悪い影響を与えてしまった、それだけだ。特別だと思う相手は大事にすればいいし、対等になりたいと強く想う者が現れれば努力をすればいい。もっと単純に考えれば良いのだ」


「イズさんの説明は分かり易くて助かるよ」


「そうだろう、そうだろう。若造は無理に難しい言葉を使おうとするから駄目だ。対話で大事な事は、相手に何を話しているのか理解してもらう。分かり易い言葉で、聞き取りやすい口調と声量で話す。これが何より大事な事だ」


「なるほど」


「何を話しているのか理解してもらえない、という事は独り言を言っている事と変わらない行為だと、何故気付かないのか」


 イズとマオに視線を向けられ、ナチは唇を尖らせながら、そっぽを向いた。


「……すみません」


 男性一人に、女性一人という構図は駄目だ。ナチに味方が一人もいない。救いを求めてクィルを見ても、シロメリアとネルと談笑中。同じ男女比だというのに、どうしてもこうも空気が違うのか。


 これがモテる男とそうでない男の違いか、と心の中で嘆きながら、ナチは視線を前に向けた。

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