第35話 五十年前の真相

「白黒頭のお兄さん。久し振りだね」


 少年の様な声をした黒い獣は人懐っこい口調で、ナチの前に首を下ろした。眼前に迫る黒い兎の様な顔。近付いた瞬間に気付く。口元に付いた小さな切傷。そこから垂れる赤い雫に。


 やはり、獣道に点在した赤い染みは、この黒い獣の物だったのだ。


「君は?」


「僕はクィル。お兄さん達は僕の事を悪魔とか災厄とか呼んでるのかな? 名前でも良いし、悪魔でも災厄でも好きに呼んでいいよ」


 楽観的な声。悪魔や災厄と呼ばれる事に抵抗が無いのだろうか。ブラスブルックの人間は畏怖を込めて呼んでいる蔑称のはずなのだが。


「じゃあ、名前で」


「オッケー。じゃあ、お兄さん達の名前も教えてよ」


「僕はナチ」


「私はマオ。よろしくね、クィル」


「うん。よろしくナチ、マオ。ほら、お母さんも自己紹介しないと。獣、とか呼ばれちゃうよ?」


 クィルが母親に向けて、弾んだ声で言った。だが、母親はそっぽを向いて、何やら言い淀んでいた。


「我は別によい」


「じゃあ、お母さんは獣でいいや」


「……イズだ」


 溜息を吐きながら名を告げたイズに、クィルは「素直に言えばいいのにねえ」と呑気な声をぶつける。


「よろしく、イズさん」


 マオがにこやかに言うと、イズは少しだけ首を動かし、視線をナチ達へと向けた。それから、フン、と鼻を鳴らすも、あまり嫌な感じはしなかった。


「それでナチとマオは何しに来たの?」


「お前を助ける為に来たそうだ」


 イズが醒めた口調で言った。


「僕を? どういう事?」


「君が悪魔じゃないって街の人に証明する為に来たんだけど」


「あー、なるほど。でも僕、あんまり気にしてないんだよねえ」


「え? どうして?」


 ナチが戸惑いながら言うと、クィルは地面に腕を置き、その上に顎を乗せた。


「あー、悪魔って呼ばれたい訳じゃないよ。そこは勘違いしないでね。でも、五十年も悪魔とか災厄とかって言われたら、もう変えられないよ。もうブラスブルックの人達にとって、僕は悪魔で災厄。これが事実で、これ以上は考える必要が無いくらいに、人はもう信じちゃってる」


 ナチは唇を引き絞った。


「だから、別に無理に変える必要も無いんじゃないかって思ってるんだ。僕を悪魔だって思ってる人達は僕に近付かないだろうし、僕も近付いたりしない。だから、僕は無理に人との共存は望まない」


「……クィルがブラスブルックの人達と共存を望まないのは分かった。けど、一つ聞きたい事があるんだ」


「なに?」


「君は本当に悪魔なの?」


 昼にも交わした問答。これで三度目の問いをナチはクィルにぶつける。


「僕は、悪魔じゃない。僕もお母さんも人を食べる事はしない」


「なら、どうして君は悪魔と呼ばれているの?」


「ワドルフと呼ばれる男の仕業だ。ワドルフにクィルとシロメリアは利用されたのだ」


 ナチとマオは唐突に会話に入ってきたイズへと視線を向けた。


「ワドルフ? それに二人が利用されたってどういう事?」


 ワドルフという人物は、街を探索している時もシロメリアの会話の中でも度々、出て来た。既に亡くなってしまった男性という事もあり、話の中の存在でしかないが、この人物がクィルを封印したという事実は、おそらく間違いない。


「僕とシロメリアは五十年前、友達だったんだ。毎日の様に遊んで、シロメリアを背に乗せて、お母さんと一緒に狩りに出かけた事もある。ずっと、一緒に居たよ。それが本当に楽しくて、いつしかシロメリアは僕にとっての特別になったんだ」


「おそらく、シロメリアにとっても同じだ。シロメリアにとっての特別な存在はクィルになった。それをワドルフは何故か知っていたのだ。理由は分からぬが、ワドルフは二人の関係性を利用して、クィルを街に誘い込んだ」


 イズは空に鎮座する丸い月を見つめると、煩わしい物を見る様に顎に力を入れ、大きく息を吐いた。


「当時、ブラスブルックでは、子供が行方不明になる怪奇現象が続いておった。毎日の様に起こる子供の失踪に、街は混乱し、不安になった親達は子供を家から出さぬ様になった。だが、それもいつまでも続けておく訳にはいかない。湧き続ける不安と恐怖に、誰かが栓をしなくてはならなかったのだ」


「それがワドルフ?」


 イズは「ああ」と呟くとナチとマオへと顔を向けた。


「ワドルフは、原因不明の怪奇現象に終止符を打つ為にシロメリアを使って、クィルを街におびき寄せた。ブラスブルックの連中がクィルを怪奇現象の原因なのではないか、と疑っている。だから、無実を証明する為に一度、街へ連れて来てほしい、と嘘を吐いてな」


 忌々しく吐き捨てながら、拳を強く握るイズ。その悲痛を帯びた姿に、ナチとマオは掛ける言葉が見つからずに、ただ黙り込んだ。


「見た目は確かにお話に出て来る悪魔っぽいからね。子供を好んで食べる悪魔として見せるにはうってつけだったんだ。それからは簡単だよ。シロメリアを人質にされた僕は、無抵抗で本に封印された。そして、何故か分からないけど、封印が解けて今に至るって訳」


「これが、お前達が知りたかった真実だが、どうする? 助けられると思うか?」


 意地悪な質問だな、とイズに苦笑を向けながら、ナチは頬を掻いた。


 イズが言いたい事は何となく分かる。この真実をブラスブルックの人々に告げて、お前は信用を勝ち取れるのか、とそう言いたいのだ。


 さすがに、信用を勝ち取れるとは思わない。そこまで自信過剰ではない。住民の信用を既に得ているワドルフと、余所者で啖呵を切り、信用を失いかけているナチ。どちらを信用するか、と言えば選択するまでも無くワドルフだろう。


 シロメリアの手を借りれば、耳を傾けてはくれるかもしれないが、信用を勝ち取れるかと言われれば自身は無いというのが、ナチの見解。


 ナチが住民から信用を勝ち取る方法があるとすれば、ワドルフに真実を吐かせるか、真犯人を見つけ出し、住人達の前に突き出すしかない。


 だが、ワドルフは既に亡くなっており、真犯人の詳細も所在もナチは知らない。


 既に結論は出ているのだ。


「僕はクィルを助ける事は多分、出来ない。出来たとしても、それはきっと時間が掛かる」


 それが何日掛かるのか。何年掛かるのかは分からない。長い時間を掛ければ、おそらくクィルの誤解は解く事が出来る。だが、ナチ達は世界を救う手掛かりが存在しなければ、ブラスブルックに長期間の滞在をする事は出来ない。


 だから、ナチはクィルを助ける事は出来ない。


「僕はこの街で誰かを助ける事は、多分できない。けど、クィルは違う。クィルは一人の女性を助ける事が出来る。クィルだけがシロメリアさんを助ける事が出来る」


「……僕だけ?」


 悲哀を帯びたクィルの問いに、ナチは頷いた。


「シロメリアさんは五十年間、クィルを待ち続けていたんだと思う。だから、シロメリアさんは君が本から解放された事を知ると、僕にクィルを探す様に頼んできた。クィルにもう一度、会いたかったんだ。けど、自分の足で探すには五十年は長すぎた。老いた体でクィルを探す為に森に行くには、体力的に無理があったんだよ」


 クィルを見た時の表情は、歓喜だった様に思う。喜びからくる嬉し涙だったと思う。それを断言はできないが、クィルとイズの話を聞いた今では、ほとんど核心に迫っているのではないか、と思っていた。


「だから、人を使ってでもクィルを探した。待ちわびていた存在に早く会いたくて、自分で会いに行けないもどかしさに苦悩しながら。シロメリアさんは、クィルに手を差し伸べられる瞬間を待ちわびていたんだ」


「……僕に。でも、僕はブラスブルックにはもう」


「大丈夫。ブラスブルックで会わなければいいんだ。クィルが迎えに行って、街の外で会えばいい。シロメリアさんと会いたかったから危険を承知で、二回も会いに来たんでしょ?」


「……うん。どうしても伝えたい事があったんだ。どうしてもシロメリアに伝えておきたい事が」


「なら、今から迎えに行こうよ。もう、夜だしクィルもイズさんも黒いから気付かれないよ」


 そう提案したのは、マオ。気付かれないかどうかは行ってみないと分からないが、マオの提案にはナチは賛成だ。クィルもイズも否定の言葉を口にはしない。マオの提案に賛同したと言っていいだろう。


 ナチはマオを見て頷くと、歩いて来た方向へと体を向けた。


「行こう。二人は街の外に」


 ナチが最後まで言葉を言い切る前に、イズはナチとマオの前に手を差し伸べた。その手の意味が分からず、ナチとマオは顔を見合わせ、お互いに疑問符を浮かべる。


 ナチとマオが呆然としている事に気付いたのか、イズはナチ達から顔を背けると、腕をナチとマオの間に滑り込ませた。クィルが笑い声を我慢しているのが分かる。


 それを見て、ナチとマオはイズが何を求めているのか、ようやく理解する。


「……お前達は我のせいで疲れているだろう。ブラスブルックまでは我が送ってやる。乗れ」


「お母さんは本当に素直じゃないね」


「本当にね。イズさんは恥ずかしがり屋だ」


「もう少し素直になった方が良いよ、イズ」


「うるさいぞ、お前達。ほら、早く乗れ、二人共。年寄りは早寝だ。ぐずぐずしていると、シロメリアは寝てしまうぞ」


 急かすイズの言葉に従って、ナチとマオは彼女の手の平に乗った。思っていたよりも柔らかい感触。内側に行けば行く程、肉球の様な柔らかさが足裏に伝わってくる。


 イズは腕を胸元に引き寄せると、二人に毛に捕まっている様に指示。


「振り落とされぬ様にな。落ちた奴を拾う事はせぬ」


「え?」


 マオがそれを不安に感じたのか、少し震えた声で言った。表情も強張っている様に見える。すると、イズは二人が乗っていない方の手で、長い耳をポリポリと掻いた。


「マオは拾ってやる。だから、そんな顔をするな」


「うん!」


 満面の笑顔を浮かべたマオを見て、イズは「うむ」とぼやきながら、鼻を鳴らした。マオに対する態度が甘い事に関しては謎だが、イズがナチ達に抱いていた警戒心や敵愾心は払拭されつつある様だ。


 口調や雰囲気が少し柔らかくなっている事からも、とりあえずナチ達が敵ではないと認識してくれたのは間違いない。


 それを嬉しく思いつつ、ナチは当然の疑問を口にした。


「僕は拾ってくれないの?」


「お前は知らぬわ、馬鹿者。男ならば、必死にしがみ付く覚悟を決めろ」


「え?」


 ナチが試しに震えた声で言ってみると、イズが苛立った様に口から息を吐いた。深い溜息にも聞こえるそれを聞きながら、ナチはイズの胸毛をしっかりと掴んだ。


「マオがやるから意味があるのだ。男がやっても腹が立つだけだぞ」


「はい……」


 ナチがしょげていると、不意にマオと視線が重なった。勝ち誇った様な視線を送って来るマオが腹立たしい。だが、イズの言っている事も理解できる。可愛い子は何をしても可愛いし、愛らしい。これは自然の摂理であって、世界が定めた必然。


 ナチは振り落とされない様に更に毛を掴むと、イズの赤い双眸がゆっくりとナチへと向けられる。


「もっと優しく掴まぬか、馬鹿者」


「だって、振り落とされたら困るし」


「落ちても拾ってやるから、そんなに強く掴むでない」


「分かった」


「ナチも大変だねえ」


 クィルの呑気な声を聞きながら、ナチは手の力を少しだけ緩めた。

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