第34話 黒い獣との戦い

 森を進む度に、落ちていく太陽。森を照らしていた、ただ一つの光源は、すっかりと姿を消し、代わりに現れた月は雲間に隠れて顔を出さない。その結果、森は静かな静寂と、足下すら見通せない程の不気味な闇に覆われていた。


 ナチはポケットから符を一枚取り出すと、それを半分に引き裂いた。二枚になった符に属性を付加。「光」。霊力を放出し、属性を具象化すると、ナチは符を持つ腕を少しだけ前に出した。


 符から発せられる白光。


 黒い本から発せられた光よりも白く眩い光は、三百六十度全てを照らし出す。


 このままではナチの視界すらも白い光で覆われてしまう為、その後に、ナチは進行方向のみに光を集中させる。眼前を照らす白光は、走行用前照灯の様に遠方まで照らし、先程までの闇を一瞬で追い払った。


 即席の懐中電灯の出来上がりだ。


 再び鮮明に視界に映ったマオに、符の一枚を渡す。


「何か、便利な能力だね、符術って」


 符を受け取ったマオが、まじまじと符を見つめた。はあ、と感心する様に息を漏らし、符から放たれる光を前方に向けるマオは無邪気な子供の様な笑みを浮かべる。期待と羨望が入り混じった様な、そんな視線。


「火も使えるし、風も起こせるし、氷も作れる。光も放てるなんて無敵すぎじゃない?」


「意外とそうでもないよ。今日マオも特訓して分かったと思うけど、僕は一つの能力を極めたスペシャリストには勝てない。サリスの時もそう。能力を最大限に極めたサリスに、僕は手も足も出なかった。勝てたのは、満身創痍の僕を見て、サリスが少し手を抜いたからだよ」


 今だから、分かる。あの時のサリスの動きは直線的すぎる。ナチが攻撃を避ける事が出来ないと、サリスが思い込んだ結果、サリスの攻撃は単調になった。


 駆け引きも技術も無い、ただ急所を狙っただけの鋭い突き。だから、予測する事が出来た。狙うのは頭か、心臓。だから、頭を狙ってくる事に賭けて、ナチは足を折った。その結果が、まぐれの勝利。


「だから、サリスの様な能力を極めた達人には、僕は必ず苦戦を強いられる。それに、僕が使う符術は、一つの属性だけを込めるだけでは貧弱だ。複数の属性を同時に使用して、それを組み合わせて、変化を起こす。そうする事で、ようやく強者に縋りつく事が出来る」


「んー、でも勝ちは勝ちでしょ?」


「え?」


「お兄さんの言う通り、符術は弱いかもしれないけど、サリスに勝った事実は変わらないし、サリスに勝ったのはお兄さんと符術だよ。お兄さんが今までに培った知識と経験がサリスの実力を上回ったって事でしょ? だから、まぐれなんかじゃないよ。お兄さんが強かったから勝てた。それをそんな風に言っちゃ駄目だよ」


 マオがナチの肩をほとんど殴ったかの様な勢いで、小突く。肩に生じた痛みを感じながら、ナチは呆然とマオを見た。ナチとは違う視点、思考、答え。その差異にナチは呆然としていた。


「そう、だね。そうかも」


「かも、じゃないよ。そうなの!」


「わ、分かったよ」


 再び肩を小突かれ、ナチはその場で少しよろめいた。そして、マオがナチをじっと見つめる。何かを催促している様な、そんな瞳。ナチは黙考し、手に持っている符の光を静かに見据えた。


 眩い光を見つめながら答えを探り、結局それらしい答えを見つけられないまま、マオに顔を向けた。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 満面の笑みを浮かべながら、マオはナチの背中を叩いた。ぐえっ、と呻き声が漏れると同時にナチは数歩、前に押し出されたがすぐに体勢を立て直す。


 とりあえず、マオが求めていた答えを言う事が出来た様だ。ナチは安堵すると同時に、息を吐いた。背中がヒリヒリと痛むが、擦る程度でもないので我慢する事にして、ナチはマオへと向き直った。


 符の光に照らされて、マオの顔が森に蔓延る闇に浮かび上がる。男勝りな力強い笑みを浮かべ、白妙の歯が覗く。腰に手を当てて、ナチを見つめる姿は、不出来な弟を見つめる姉の様でもあった。


「ほら、お兄さん。遊んでないで進むよ」


「僕は至って真面目なんだけど」


 どちらかと言えば、はしゃいでいるのはマオじゃないか、と思いながらもナチは笑った。馬鹿らしくなって、気が付けば微笑んでいた。


 そして、背後へと振り返る。進行方向へと符を向け、白光を前方に送り出す。ゆっくりと映し出される獣道。踏み潰された雑草や木の実。木の幹に生えた茸類が、白く照らされながら視界に入る。


 紫色と黄色の見るからに毒々しい見た目の茸から視線を外し、ナチは獣道のさらに奥側へと光を送る。それに付随する形で、視線も奥へと向いた。


 ナチは光が照らす先を見て、前に踏み出そうとした足を止めた。動かないナチを見て、背後から「お兄さん?」と声が掛かるが、ナチはその声には反応する事はせずに、前方に向けていた光を凝視した。


 目を見開き、前だけを見る。雑草が平伏す獣道の奥。そこに映し出された漆黒。暗澹とした前方に、ナチの眼球は自我を持ったかの様に釘付けになる。


 ナチの視線の先には、道が無かった。


 いや、違う。無いのではない。


 道は確かに続いている。その証拠に、ナチが手に持つ白い光は木々が奥へと生え並んでいるのを照らし出している。


 道を塞いでいる何かが居るのだ。


 ナチが符を前方から上空へと向けようとした時、雲間に隠れていた月が姿を現した。白光と月光。二つの光が道を塞ぐ何かを鮮明に映し出す。


 兎の様な二本の長い耳と顔。雑草を踏み付ける強靭な四肢。地面を抉る漆黒の爪は、雑草を裂き、土壌にまで貫通している。そして、それら全てを包む黒い毛皮は二つの光に照らされてなお、濃い黒を損なわない。


 影に飲み込まれたナチ達の頭上で、血の様に赤い双眸がナチとマオを静かに見下ろしていた。


 道を塞いでいるのは、目の前に佇んでいるのは、黒い獣だ。


 だが、ナチは目の前の黒い獣を見て、少し違和感を覚えていた。その違和感を探るべく足下から頭まで、舐める様に視線を送るがその違和感の正体は掴めない。


 分からない。日中に見た黒い獣であるという事は変わらないのに、違和感を覚えるのは何故なのか。同じ真紅の双眸だという事は変わらないのに、どうしてこうも恐ろしく思えるのか。


 心臓が掴まれているかの様なこの圧迫感、息苦しさ。


 背筋に走る悪寒が全身を駆け巡り、呼吸器官をせき止めているかの様に、窒息しそうになる。頬を垂れる汗を拭う事すら忘れてしまう程に、ナチは目の前の赤い双眸に取り込まれていた。


 ここに立っているという実感が曖昧になる程の、浮遊感と現実感の希薄。僕は本当にここに存在しているのか、と錯覚してしまう程にナチの精神に雪崩れ込んでくるのは、黒い獣が放つ明確な殺意。


 足が震える。手が震える。体の芯から震えだす。震えの正体すら分からない。恐怖なのか、と自問自答するも、脳は答えを出してはくれない。心は解を出してくれない。


 解答欄が空白な事に、ナチの心は酷く不安に駆り立てられる。


「お兄さん!」


 ナチの震えた右手を誰かが掴む。急速に引き戻される現実。足裏に戻る現実感と、ここに存在している証明。手から伝わる体温が、ナチの不安を打ち消していく。


 ナチはゆっくりと右手を握った存在を見た。心配そうに見つめる眼差し。薄い唇が必死にナチに何かを言っている。働く事を放棄している頭は、その音を認識しない。声を拾おうとしない。


 だけど、何を言っているのかは、分かった。唇の動きがナチに、言葉を伝えている。「お兄さん」と呼び続ける彼女の唇を見て、ナチの頭はようやく機能を再開する。せき止められていた血流が脳内に大量に流れ込んでくるかの様に、活発化する脳細胞。


 ナチは咄嗟にマオの手を握り返し、黒い獣へと向き直った。


 ナチを見つめる赤い双眸が、ただ怖い。その理由は分からない。だけど、手から伝わる体温がナチに勇気を与えてくれる。恐怖で竦む体を後押ししてくれる。


「……君は……誰?」


 震えた声。届いたのか分からない程に、小さく掠れた声。酷い声だと、自分でも思う。


 黒い獣は微動だにしないまま、ナチを見下げる。聞こえていないのか、行動を起こす気配はない。


 ナチは息を大きく吸い込み、腹に力を入れた。そして吸い込んだ空気を一気に放出すると共に、声を張り上げる。


「お前は誰だ!」


 目の前の黒い獣の腕が天に向かって上がり、伸びきった所でナチとマオに向かって振り下ろされる。膂力を活かした黒い鉄槌がとてつもない速度でナチ達に迫る。


 ナチはマオを右側へと突き飛ばすと、自身は左側へと跳躍。間一髪、黒い獣の腕を避けた。


「あの子を殺しに来たのか、人間」


 騎士の様な凛々しさで紡がれた女性の声。ナチは雑草を引き抜き、それを全て符に変える。そして、マオへと駆け寄ると彼女の体を起こし、すぐさま二人は黒い獣から距離を取る。


「違う! 僕達は殺しに来た訳じゃない! 真実を確かめに来たんだ」


「そのような戯言を我が信じると思うのか? お前達は、平然と嘘を吐く。平気な顔で我から息子を奪った。我等を慕ってくれていた娘から笑顔を奪った!」


 黒い獣の腕がナチに向かって伸びる。爪を立て、伸びる右腕をナチは上方向に跳躍し、木枝に捕まると素早く枝の上に乗り、回避。高速で引き戻された右腕が、もう一度ナチを狙うも、巨大な氷の塊が右腕に向かって射出される。


 氷塊が激突した右腕は鈍い音を鳴り響かせながら、僅かに右側へ軌道が逸れる。軌道が逸れた事により、最低限の労力だけで回避する事が可能になる。ナチは左側へと跳躍し、枝上から雑草へと飛び降りた。


 地面に着地すると同時に雑草を引き千切り、更に符を作る。


「私達は敵じゃない! 信じて貰えないかもしれないけど、息子さんを傷付ける為に来た訳じゃない。信じてください!」


「二度も言わせるな! 信用して欲しいというならば、信じるに値する証拠をここに持ってこい。それも無しに、お前達は信用してほしいとほざくのか!」


 黒い獣は、両手を重ねると、それを頭上へと上げた。それを見た瞬間、ナチは黒い獣が何をするのか理解した。ナチはマオに駆け寄ると、先程作った全ての符に属性を付加。それを二人の足下に放り投げると、属性を具象化した。


 そして、ナチが符を投げ飛ばした瞬間、黒い獣の両腕が力任せに地面へと振り下ろされる。振り下ろされる瞬間に鳴る風切り音。腕に込められた膂力によって筋肉は隆起し、地面に激突した瞬間、響く破砕音と共に地面が大きく振動する。


 地面がヒビ割れる程の振動。人が立っていられなくなる程の振動を、黒い獣は腕力だけで引き起こす。


 だが、ナチとマオの姿は地上には無い。月明かりに照らされる地面には、雑草から作った符が無数に散らばっている。それら全ては既に効力を失い、ただの白い雑草へと戻っていた。


 黒い獣は首を動かし、見当たらないナチ達の姿を探している。首を右に左に後ろに動かし、ナチとマオを必死に探している。それを見下ろしながら、ナチは笑顔を浮かべる。


 そして、森に差し込む月明かりに重なる影が二つ。


 光源が遮られた森には再び闇が蔓延し、一瞬の内に世界は黒一色に呑まれていく。その黒い世界で動く赤い双眸は上空へと向けられ、ようやくナチとマオの姿を視界に捉える事に成功する。


 黒い獣よりも遥かに高い位置で飛翔し、地上を見下ろしているナチとマオの姿を。



 ナチとマオが空中に舞い上がり、黒い獣を見下ろす程の高度で佇む理由。それは黒い獣が地面に両腕を振り下ろす瞬間に具象化させた「大気」の属性によるものだ。


 足下に集めた大気を、上方向へ向けて放出。二人の体を浮かび上がらせる程にまで高めた上昇気流は、二人の体を黒い獣の上背を優に超える高度にまで押し上げる。


 これが、ナチとマオが上空を飛翔している理由。


 だが、二人は空中を飛行している訳ではないのだ。二人が空中に居る理由は、上昇気流に押し上げられ飛翔しただけ。つまり、二人は飛翔の最高到達点に達した瞬間、自然落下を開始する。


 二人は今この瞬間も、落下を始めている。



「マオ!」


「分かってる!」


 ナチが猛ると同時に、マオは氷の精製を開始。空中で生成されたのは、巨大な氷の鎚。氷で作られた棒に長方形の氷が付いているだけの簡素な形の氷鎚。


 ナチとマオはそれを手に取ると、黒い獣に向けて勢い良く振り下ろす。ずっしりとした重たい氷の鎚を手に持った事で、二人の落下速度が上昇すると同時に、氷鎚が振り下ろされる速度も上昇する。


 振り下ろされる鎚を迎え撃つように放たれたのは、黒い獣の黒腕。力一杯に溜め込んだそれが、高速で撃ち出される。


 両者の雄叫びが森を駆け抜けると同時に、氷と拳が激突。一瞬で粉々に砕け散った氷鎚と、激突した衝撃で弾き飛ばされた黒腕。ナチとマオは破壊された衝撃で体勢を崩し、地面に背中から落下する。


 黒い獣は弾き飛ばされた衝撃で僅かによろめき、後退。そのまま尻餅をついた。そして弾き飛ばされた方の腕を押さえ、呻き声を漏らしている。


 効いているのだ。二人が放った攻撃は、黒い獣に確実にダメージを与えた。


「……行かせは、せん。お前達をあの子の下へと行かせはしない!」


 ナチは地面に手を着き、何とか立ち上がる。木に背を預け、落下した衝撃が体から抜けきらないまま、ナチは黒い獣へと視線を向けた。


「僕達は敵じゃないんだ。信じて欲しい、頼む」


「無理だ、諦めろ」


「この分からず屋……」


 奥歯を噛み締めながら、ナチは黒い獣を睨みつけた。視線に込めた明らかな怒気。


「あんたは息子を永遠に悪魔にしておきたいのか! 息子を助けたいとは思わないのか!」


「そんな訳ないだろう! 我は」


「僕達はあんたの息子を助けるために来た。あんたの大切な息子が、悪魔じゃないって証明する為に来たんだ! 分かったら居場所を教えろ!」


 目の前の黒い獣が勢いに圧倒され、刹那の瞬間、押し黙る。その間に腕を押さえながらナチに駆け寄って来たマオが、ナチを見て驚愕を浮かべているのが分かる。感情の爆発にマオが目を点にしていた。


「だが……」


 言い淀む目の前の黒い獣は、静かに息を吐いた。喉を鳴らし、熱い吐息を数度、吐き出す。地面の土を雑草ごと握り、それを音が鳴る程の握力で握り潰していた。


 ナチは言葉を待った。黒い獣が何を選択し、ナチ達に何を告げるのか。静かに待ち続けた。赤い双眸に視線を向ける。月明かりに照らされた黒い獣の顔を見る。


 顎に力が入り、顔が微かに震えている。覗き見える白く鋭い犬歯の様な歯がカチカチとかき鳴らされている。


 それから、少しの時間、黒い獣は黙考していた。時間にして五分も経っていない。


 ナチ達へ向けられた赤い双眸に浮かんだのは、おそらく苦悩。何度も口を開きかけては閉じ、言葉を窮している。


 そして、黒い獣は息を大きく吸って、握り込んでいた拳を開いた。無駄な力を吐き出す為の脱力。言葉を発する前準備。そうである事を祈りながら、ナチは黒い獣の挙動を見守った。


「我は」


「お母さん。その人達は敵じゃないよ」


 突然、背後から掛かる声。ナチ達が進むはずだった森の奥側から聞こえてくる声に、心臓が破裂するのではないか、と思う程に跳ね上がり、鳥肌が全身に広がっていく。


 だが、目の前の黒い獣程の恐怖は感じない。その声は一度、聞いた事がある。聞き覚えがある。だからか、身が竦むほどの恐怖を体が感じない。


 ナチは緩やかに背後へと振り向いた。月光が差し込むその場所に、それは居た。月明かりに照らされる黒い体。赤い双眸。


 先程、ナチ達が戦った黒い獣よりも僅かに小さく、それでも巨躯と呼べる程の体をナチは今日見ている。声も聞いた。初めて対話もした。


 それは今日、シロメリアの仕立屋の前に居た獣。シロメリアが捜索の依頼をし、彼を見た瞬間、泣き崩れてしまう程の存在。


 ナチ達が探していた黒い獣。それが今、目の前に悠然と佇んでいた。

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