第33話 森へ

 少し陽も落ちつつあるせいか、森の中は少し薄暗い。差し込む光の筋は僅かに茜を増し、森を仄かに照らしているが、うっすらと闇は森に忍びつつあった。


 鬱蒼とした雑草を巨大な何かが踏み潰したとされる獣道には、赤い染みが地面に浮かび上がり、進行方向に向かって点在している。


 まだ、乾ききっていない赤い染みは、おそらく血液。まだ乾いていないそれに触れ、臭いを嗅いだ結果、鉄に近い香りが鼻を刺激する。


 獣道に点在している赤い染みを作った存在も、予想は容易だ。


 それから、踏み潰された雑草を踏み潰しながら進んでいくと、頭上からボタボタと何かが垂れる。


 ナチとマオは咄嗟に、後方へと跳躍。目の前の謎の液体に視線を集める。


 目の前の雑草に溜まる透明の液体。見るからに粘性が高い液体は、次々に地面を伝っていき、二人の足下まで広がっていく。


「何だろう、これ……」


 しゃがみ込み、ナチは粘液に軽く触れる。見た目通りのネバネバとした粘性。臭いは無い。さすがに、口に含むことはしないが、味はあるのだろうか。


 皮膚が腐ったり溶けたりしない所を見ると、何かの薬液という事でもない様だ。


「お兄さん、そんな見るからに危険そうなネバネバ、触ったら駄目だよ」


 背後から聞こえてくるマオの注意に曖昧に返事をしながら、ナチは粘液を指で擦った。三回ほど擦った時だ。唐突に、粘液に変化が現れる。


 蜜の様に粘性が高かった液体は、水の様にさらさらとした液体に変化した。摩擦によって変化したのか、体温によって変化したのか。それとも、外気に触れたからか、などと懐疑的に見るも、確証は得られない。


「何だ、この液体?」


 ナチは液体が落ちて来た上方向へと視線を向けた。空を覆う木々。無数に伸びる木枝の奥を凝視する。隙間から差し込む木漏れ日に、目を細めながらも眼球を動かし、液体の発生源を探る。


「どうしたの?」


「いや、この液体、粘性が変わったんだ」


「変わったってどういう風に?」


「ネバネバだったのに、水みたいになった」


「そんな液体って存在するの?」


「うん、存在はする」


 非ニュートン流体と呼ばれる液体は力を加える事で、粘度が上がったり、小さくなったりする。


 それこそ、蜜の様に粘性が高かった液体が、水の様にサラサラになる場合や、大きな力を加える事によって粘度が上がり、防弾チョッキなどに使用される場合もある。


「だけど、そんな液体が偶然落ちてくるのか?」


「ちょっとお兄さん、変な事言うの止めてよ……」


「とりあえず、木の上には何も居ないみたいだけど、少し気を付けた方が良いかもしれない」


 念の為に視力を底上げする神秘の術を使用してみるも、存在するのは無害な小動物だけで、頭上には何も居ない。少なくとも、大量に粘性が高い液体を吐き出しそうな生物は存在しない。


「あの黒い獣じゃないの?」


「多分、違う。黒い獣が木々を移動すれば音で気付くと思う。でも、音はしなかったでしょ?」


 マオが首を縦に振る。少し肩を縮ませ、小さく腕を組んでいる。


「だから、多分違うと思う。多分だけど」


「そこは言い切って」


 小声で呟かれたマオの言葉にナチは笑顔を浮かべながら、地面に水溜りの様に広がっている液体を跳び越えた。


「とにかく、先に進もう。黒い獣に合えば分かるよ、きっと」


「だから、言い切ってよ」


 泣き声の様に震えたマオの口調を聞いて、ナチは少しだけ反省しながら、マオが水溜りを跳び越えるのを待った。マオは数歩その場から後ろへと下がると、水溜りに向かって猛ダッシュ。


 液体に触れる直前で地面を蹴り、水溜りを大きく跳び越えた。少し跳びすぎなくらいだ。ナチよりも奥側に着地したマオは、勢い余って雑草の上を滑って行き、進行方向にあった木に勢いよく足から突っ込んでいく。


 足の裏が木の幹に触れた瞬間、マオは幹を足場に膝を大きく曲げ、足裏に掛かった衝撃を軽減。そのまま仰向けに倒れ込んだマオは、両手を広げると同時に、動かなくなった。


 仰向けで倒れ込んだままのマオに、ナチはやや不安を覚えながら彼女の側まで足早に近付いていく。


「大丈夫?」


「……大丈夫」


 仰向けに倒れているマオはナチの顔を見ると、痛みを堪えていた様な苦々しい表情から、あっけらかんとした笑顔に変わった。目を細め、白い歯を見せながら笑い声を上げるマオ。


 その姿を見て、打ち所が悪かったのではないか、と少し心配になるが、マオは何事も無かったかの様に立ち上がると同時に、尻や腰を「いててて……」と擦った。


「本当に大丈夫?」


 ナチはマオの背に付着した土や草を優しく払う。笑顔を浮かべたままマオはナチに礼を言うと、ナチが背に付着したゴミを落とすのを大人しく待った。


「何か、昔を思い出しちゃって」


「昔?」


 マオに付着していたゴミを払い終えると、ナチは一歩マオから離れた。すると、マオはくるりとその場で時計回りに回転し、ナチへと向き直る。その表情は相変わらず笑顔のままだ。


「うん。私がまだ五歳だった時にね。私とシャミアとリルとネルの四人で、水溜りを跳び越える遊びをしてたの。皆、跳び越えられたのに、私だけが跳び越えられなくて、それが悔しくて悩みに悩んだ私は、さっきみたいに助走をつけて跳ぶ事にしたんだよ」


「うん。それで?」


「それでね。助走をつけて跳んだら、水溜りを跳び越える事には成功したんだけど、露店に突っ込んじゃって、売り物の果物が全部、地面に転がっちゃってね。河に落ちるわ、踏み潰されるわで、私のお父さんとお母さん、あとサリスが何回も謝る羽目になったんだ」


 ナチはサリスが平謝りしている姿を思い浮かべて、声を上げて笑った。サリスが頭を下げるという姿があまりに不自然で、可笑しくなったのだ。


「僕もその場に立ち会いたかったよ。それで、その後どうなったの?」


「サリスがその露店でしばらく働いてたかな。不愛想な顔して、客引きしてるのは面白かったなあ」


「サリスが客引き……」


 サリスが客引きをしている姿を想像して、ナチはまた声を上げて笑った。仏頂面で、愛想無く接客する姿が容易に想像出来る。やはり、サリスと接客業というのはナチの中で結びつかない。


 ナチが笑っていると、マオがおもむろに進行方向を指差し、二人は笑顔のまま森の奥へと進んでいく。少し夜に近付いたせいか、森の中に差し込んでいた茜色が弱まりつつあった。


「サリスは何時からウォルケンに?」


「私が生まれた時にはウォルケンに居たって聞いてるけど、シャミアが言うにはウォルケン出身の人ではないって」


「そうなんだ……」


 サリスの出身がウォルケンではないという事実には、それほど驚きは無かった。あの人間離れした実力を、ウォルケンで便利屋をしているだけの人間が身に付けられるはずがない。


 戦闘を行う場面が無い訳ではないだろうが、戦闘する場面があったとしても、それは周辺の生物を駆除、住処の破壊。そんな所。そんな依頼を継続的にこなしたとしても、急激な実力の向上には繋がらないはず。


 やはり、あの常軌を逸した実力を身に着けるには、それだけの過去と経験が存在したのだ。


「シャミアが言うには物凄く北の方から来たらしいけど」


「何、そのざっくりした情報」


「だって、誰もサリスがどこから来たのか知らないし、サリス教えてくれないんだもん。シャミアが強引に聞き出そうとして、やっと北の方から来たって教えてくれたんだよ」


「サリスが適当に言った嘘じゃないの?」


 マオが顎に手を添えながら、眉間に皺を寄せた。


「冷静に考えるとめちゃくちゃ嘘っぽいね……」


「凄く嘘っぽいけど、探してみる価値はあるよ。意外と本当の事を言っていたかもしれないし」


「本当に? サリスだよ?」


「んー、そうだねえ……。そう言われると、嘘吐いている可能性の方が高い気がするなあ」


「でしょ? 適当な事ばっかり言ってる男なんだから」


 勝ち誇った様な表情でナチの横を歩くマオは、過去を懐かしむ様に微笑を浮かべ、進行方向に広がる薄暗い獣道を見つめた。そのまま黙り込んでしまったマオに、ナチは掛ける言葉を探すが、気の利いた言葉はすぐには見つからない。


 二人の間に生まれた沈黙。そのせいか葉擦れと風音が嫌に大きく聞こえる。先程までは気にもならなかった雑草を踏み潰す音も、ハッキリと聞こえる様になった。


 ナチは沈黙というのは別段、嫌いではない。だが、それは知己の仲ではない人物と共にいた場合の事だ。この状況とは違う。


 気の利いた言葉の一つも掛けてやれない事が、何だかもどかしい。世界を渡り歩いた知識や経験はあまり役には立たず、横で寂寥感を匂わせる少女すら満足に笑顔にしてやれない。


 ナチは無意識に拳を強く握った。これがひたすらに強さだけを求めた結果。ナキ以外の人と関わる事を遠ざけて来た代償。他人など、どうでも良いと思っていたのだ。


 ナキが居て、世界を渡り歩けさえすれば他はどうでも良いと思って生きて来たのだ。


 だから、こういう時に咄嗟に言葉が出ない。経験が足りないから。蓄積した知識が少なすぎるから。自分自身に対して、どうしようもない程に腹が立つ。沸々と煮える窯の蓋を開いてしまったかの様に、怒りが沸き起こる。


 奥歯を噛むと同時に、視線が自然と下がっていく。眉間に皺が寄り、視界に映し出された雑草に怒りをぶつけていく。そんな事で怒りを払拭できない事を知りながら、ナチは雑草を射殺さんばかりに怒気を込めた視線を送る。


 すると、左肩を誰かが叩いた。パンっと乾いた音が鳴り響き、沈黙を引き裂いた。


「何で、そんなおっかない顔してるの」


 肩を叩いたのは、もちろんマオ。呆れた様な声と笑顔を浮かべ、ナチを見据えている。細く整った眉が少し下がり、鼻から大きく息を吐いていた。


「いや、ちょっと」


「ちょっと何?」


 マオがナチの顔を覗き込む。その表情に浮かぶのは不機嫌。その表情の意味を理解できないまま、ナチは言葉に詰まった。少しばかりの黙考。質問されているのはナチなのだ。答えなくてはならない。


 だが、本音を言うのは少し恥ずかしい。羞恥心やプライドが、本音を喉の奥へと引き戻そうとする。だが、それも結局は口にせざるを得なくなった。


 ナチの顔を覗き込むマオが口を尖らせ、上目遣いで捨てられた子犬の様に瞳を潤ませたからだ。そして、その揺れる瞳をナチから外し、眼前に向け、強まった寂寥感を全身から匂わせる。そして、沈黙。


 そうなったら言わざるを得ない。


「……少し情けないなって思って」


「情けない? どうして?」


 マオの瞳が再びナチへと向けられる。待ってました、と言わんばかりに笑顔を浮かべて。やはり、演技。この小悪魔め、と心の中で詰りながら、ナチはマオから視線を外し、眼前を見据える。


「僕は本当に世界を渡り歩いていただけで、成長していないのかもしれないなって」


 マオが首を傾げながら言った。


「お兄さんは強いよ。それは成長とは違うの?」


「力とか技術は強くなったと思う。自惚れとかじゃなくて、それに見合うだけの努力をしてきたと思う。でも、精神的にはあまり成長してないのかもしれないなって」


「でも、お兄さんってまだ二十一歳でしょ? まだ若いのにそんなに悩む必要あるの?」


「それでもマオよりは年上だからね。年下の女の子に気の利いた言葉の一つも掛けられないのは、どうなのかなって」


「まさか、そんな事で悩んでたの?」


 少し強い口調で言うマオに、ナチは苦笑しながら頬を掻いた。


「馬鹿だねえ、お兄さんは。そんな事で悩む必要なんてないのに」


「だって」


「いいの。私だって、お兄さんが抱えてる悩みに何も言えない時があるんだから。それは年上とか年下とか関係ないよ。めちゃくちゃ人生経験が豊富でも、多分変わらないと思う」


 マオは朗らかな笑みを浮かべると、ナチを見た。ナチの瞳に視点を合わせて、マオは真っ直ぐにナチを見る。


 風に揺れる薄いオレンジ色の髪が、差し込む茜色の木漏れ日に煌めいて、彼女を現実から切り離したかの様な神々しさと幻想的な雰囲気に包んでいく。


「何も言わなくていい時もあるんだよ。何も言わずにただ隣に居てくれる事が、その人の為になる事もあるんだよ、きっと」


「そうなの、かな?」


「うん。そうだよ。私はそう思うよ」


 マオから向けられる柔和な笑みが、先程まで胸の内で猛っていた怒りを沈めていく。沸々と煮える窯の蓋が閉じていくのを感じる。


 自分でも簡単な程に怒りが収まっていく事に呆れてしまうが、それでもこの単純さに少しだけ救われているのは事実。


 単純な考えが出来る程、世の中を生きやすいと分かり切っているのに、ついつい複雑に考えてしまうのはナチの悪い癖なのか、それとも人がそういう生き物なのか。


 前者だと言う事は分かっているのに、それを止められないのは、きっとナチがそういう人間だからだ。単純明快な真実も、自分で勝手に複雑化して自爆する。もうきっと、これは変えられないのだろうな、と自分でも思う。


 真実の裏側をつい探ろうとしてしまうのは、ナチが慎重であると同時に臆病だから。だけど、これでいいのだ。


 慎重で臆病。これがナチの本質だというのならば、無理に変わる必要は無い。


「でも、お兄さんは情けなくなんてないよ。誰かの為に一生懸命に悩める人が情けないなら、世界中が情けない人ばっかりになっちゃうよ」


「……あ、ありがとう」


「だから、お兄さんは情けなくなんてない。分かった?」


「うん。分かりました」


 呆れ笑いの様な笑みを向けてくるマオ。ナチは頬を掻くと、自然に浮かび上がった笑顔に気付かないまま、ナチは森の奥へと一歩踏み出した。

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