第32話 黒い獣との対話

 シロメリアの仕立屋にたどり着くと、そこには確かに黒い獣が店の前に居座っていた。シロメリアの仕立屋を見つめる黒い獣。赤い双眸そうぼうはただ家屋を射抜く。


 その瞳に宿る感情が何なのか。怒りか、絶望か、切望か。


 それを囲う様に広がる群衆。武器を構え、無言で黒い獣に武器を向ける群衆は異様な緊張感に包まれ、目の前に存在する戦場は今にも開戦を迎えようとしている。黒い獣が動いた瞬間、戦闘は開始する。正に、一触即発の状態。


 その兆候を肌で感じながら、ナチは人の群れに囲まれている黒い獣を静かに見定めた。


 武器を自身に向ける人々を無視し、シロメリアの仕立屋を凝視している黒い獣。用があるのはシロメリアなのか、この家屋なのか。それとも、この家屋が建っている場所なのか。


 分からない。今のナチにそれを解明する事は出来ない。


 ナチは一度深呼吸し、落ちている葉を二枚拾う。符に変換し、それらに属性を付加。「強化」。ナチはそれを両の太股に張り付けると、指から霊力を放出。属性を具象化する。


 効果範囲は腰から両足の爪先まで全てに。属性が発動した瞬間、両足に宿る怪力は、ナチに驚異的な脚力を授ける。


 足を深く曲げると、力を両足に集中。限界まで溜め込んだ力を、足を伸ばす瞬間に一気に解放し、ナチは大きく跳躍。宙を舞う体は群衆を跳び越え、五メートル程の高さに一瞬で到達する。


 ナチの体が黒い獣の上背と重なった瞬間、群衆も黒い獣も、そこに居た全ての生ある存在がナチに視線を向けた。


 重力に逆らう事無く、自然落下を始めた体は黒い獣の前に勢いよく落下。足に伝わる心地良い衝撃と振動。それら全てを「強化」の属性が相殺する。


 地面に落下すると同時に符を解除し、ナチは符を足から剥がした。属性が離れた足に宿るのは倦怠感。羽根の様に軽かった肉体に、ナチが人で在り続ける限り逃れる事の出来ない重力の波が、ナチを強制的に地に足を着けさせる。


 全身に宿った気怠さを無視しながら、目の前でナチを見つめる黒い獣に目を向ける。呆然としている様な黒い獣。周りをよく見てみると、突如目の前に現れたナチに誰もが目を丸くしていた。


 全員がナチの登場に困惑し、武器を向ける相手を迷っている。余所者の得体の知れない男か。古くから街に伝わる悪魔に刃を向けるのか、彼等は迷っている。


 ナチは黒い獣に一歩近づく。群衆が迷っている今がチャンスだ。対話のチャンスは今しかない。


 赤い双眸にピントを合わせ、間違いなく視線を合わせる。視線が重なった瞬間に、群衆のどよめきが消える。意識が黒い獣に集中しだした結果だ。


 対話が出来るのかは分からない。言葉が話せるのかは分からない。だが、知りたい。あの視線の意味を。二度もこの場所に来た意味を。


 だから、ナチは昨日と同じ問いを繰り返す。


「君は本当に、悪魔なの?」


 その問いに黒い獣は何も答えない。ただナチを見据えるだけで、何も口にはしない。


 繰り返される静寂に、ナチはもう一度問いを放つ。


「君は本当に、子供を喰らう悪魔なの?」


 答えない。何も答えない。静寂にナチの声が無情にも響くだけで、対話は無い。起きる気配も無い。


 ナチは奥歯を噛み締める。


「君は昨日もここに来た。どうして?」


 答えない。何も。


「君はこの場所に何の用があるの?」


 答えない。ただナチを見下ろすだけで、反応は無い。


「ここは餌場だった? それともここには何かがあるの?」


 答えない。反応も無い。


「君を封印していた人間がここに住んでいた?」


 動かない。この黒い獣は自分を封印した人間を探している訳ではないのか。


 シロメリアの仕立屋に二度も来る理由。それは、この場所に何かあるからだ。もしくは、ここに住む人物に用があるのか。


 ネルという事は無い。事が起こったのは五十年前。ネルが生まれる前の話だ。


 ならば、一人しかいない。


「君はシロメリアさんに会いに来たの?」


 首が微かに動く。ナチの言葉に初めて反応をする。


 シロメリアだ。何の目的かは分からないが、この獣はシロメリアに会いに来たのだ。


「君はシロメリアさんとどういう」


 ナチは言葉を切った。いや、切らされた。黒い獣が急に動きを見せたから。


 黒い獣の視線がナチから外れる。ナチの左側へと視線を注ぐ。左側にあるのは、シロメリアの仕立屋。つまり、黒い獣の視線は再び家屋へと向けられている。


 ナチもゆっくりと左側を見る。そこに居た人物は、予想外でも何でもない人物。


 シロメリア。彼女が玄関の前に静かに佇んでいた。伏せられた瞳は地面を映し、逡巡しゅんじゅんした視線は右に左に移ろいゆく。


 ナチも黒い獣も、シロメリアの視線が移ろう姿を黙って見続けた。


 そして、大きな息を吐くと共に、静かに上がる瞳。シロメリアの瞳に黒い獣がハッキリと映る。重なり合う黒い獣とシロメリアの視線。


 その瞬間、シロメリアの表情に浮かび上がったのは、動揺。そして、歓喜。相好そうごうが崩れ、感嘆かんたんの吐息が漏れる。目尻に溜まった涙が陽光に煌めいたのをナチは見逃さなかった。


 その後、足に力が入らなくなったのか、シロメリアはその場に膝から崩れ落ちた。派手に尻餅をつき、土壌の上で口元を手で押さえながら黒い獣を見つめるシロメリアを誰もが見ている。 


 黒い獣もナチも、二人を囲むブラスブルックの人々も。


 黒い獣がゆっくりと右腕をシロメリアに向けて伸ばす。だが、その手が届く事は無かった。


「シロメリアさんを守れ、お前ら!」


 開戦を告げたのは、小さな小石と男性の怒声。それを境に戦闘は激化する。次々と投げられる石や木材。振り下ろされる剣は、黒い獣の黒い毛皮を切り裂いた。その後に飛び散る赤い血液を見て、ナチはハッと我に返る。


 ナチは黒い獣の側に落ちている木材を手に取り、それを符に変換。「大気」の属性を付加。だが、ナチは属性を付加した所で動きを止めた。


 黒い獣を守るべきなのか、群衆を止めるべきなのか。ナチは判断に迷い、手に持った角材を向ける先を見失う。


 黒い獣は何もやり返さない。どれだけ傷付けられようが、見に宿した膂力を振るう事は無い。このままでは黒い獣は倒される。命を刈り取られる。真実が曖昧なまま、この獣は死んでしまう。


「ナチさん! お願いします! 彼を助けて」


 シロメリアの絶叫が喧騒に紛れて微かに聞こえる。「助けて」と叫ぶ声だけが、ナチの耳に届く。


 それだけで十分だ。黒い獣を守る事が結果的に群衆を止める事になる。群衆を止める事が結果的に、黒い獣を守る事になる。


 ナチは符に変換した角材を地面に突き立てると、霊力を放出すると同時に属性を具象化。ナチを中心に巻き起こる突風は、人の群れを問答無用に吹き飛ばす。


 それは人が地に立つ事を許さない自然の猛威。守護と破壊、両方の側面を併せ持つ対極の暴風。


 黒い獣に迫っていた人々を全て吹き飛ばすと、ナチは黒い獣を一目見た。ナチが起こす暴風に黒い毛を揺らし、体を丸めている黒い獣に視線を送る。


「早く逃げろ」


 黒い獣がナチを見る。獣の表情を読み取る事はナチには出来ないが、驚いた様な顔をしている、気がした。


 向けられた顔が何を聞きたいのかも、何となく分かる。


 何故? 黒い獣はきっとそう聞きたいのだ。


「僕は君とシロメリアさんの関係を知らない。でも、シロメリアさんは君を助けてほしい、と言った。だから、僕は君を助ける」


 耳を突く風の嘶きに紛れて、微かに声が聞こえてくる。それは少年の様な明るい声質で、泣きじゃくる子供の様な響きでナチに届いた。


「…………ありがとう」


 それは黒い獣が発した声だったのか、ナチが放つ暴風が拾った誰かの声なのか。それとも、ナチの幻聴だったのか。


 届いた声に呆然としていると、黒い獣は強引にナチの暴風を突破。街の外に驚異的な脚力を以って飛び跳ねていく。それを暴風の内側から見送ると、ナチは符を解除した。


 暴風が静まる路地に宿るのは、一瞬の静寂。起きた現実を理解できずに人々はその場に立ち尽くし、黒い獣が去っていった方角を見つめたまま唖然としていた。


 だが、人々の沈黙は暴風の中心地。つまり、ナチを視界に入れると一瞬の内に破られた。


 ナチは焦る様子も無く、ナチを囲む群衆に目を向けた。囲むだけで、ナチに接近しようとはせず、全員がナチと一定の距離を保っている。距離にして約三メートル。


 彼等の顔に浮かぶのは、怒りと恐怖。黒い獣に味方したナチに対する怒り。暴風を巻き起こし、黒い獣とナチに一切の接触を許さなかった能力を持つ事による恐怖。


 その二つの感情がせめぎ合う事で、この距離を生んでいる様だった。今すぐにでも殴り飛ばしてやりたいが、怖くて近付けない。群衆に灯った感情は、きっとそれだ。


 ナチは視線を右に左に動かし、人々の表情を見る。敵意をナチに向け、荒い息を吐く人々。だが、これは予想できた未来でもある。人々の目にはナチが黒い獣を助けた様に見えただろうし、実際、助けた様なもの。


 よって、ナチを囲む人々にとって、ナチは悪魔に味方をした人類の裏切り者。大袈裟に言えば、人々の目にはそう映った可能性が高い。


 もし、ナチが止めず、黒い獣とブラスブルックの人々が戦った場合、必ず死傷者が出た。その事実に気付いているのは、おそらくナチだけで人々にとってはどうでもいい事なのだろう。


 今彼等にとって重要なのは、黒い獣を逃がしたという事実。その事実に思考を支配され、他の考えが生まれる可能性を阻害してしまっている。そんな狭い思考の持ち主達から視線を逸らし、符に変えた角材を右手で握る。


「……どうして、悪魔を逃がした?」


「逃がした訳じゃないですよ。皆さんを守ろうとした結果、逃げられてしまっただけです」


「嘘を吐くな。俺達にはお前が悪魔を守った様に見えた。お前が俺達を守ろうとしたとは到底思えない」


「思えなくても事実です」


「お前のせいで俺達は悪魔の脅威きょういに晒され続けたままだ。あの時お前が助けに入らなければ、悪魔は殺せたのに」


「その結果が死者を積み重ねる事になっても良いって事ですか? あのまま戦っていたら、間違いなく死者が出た。あの黒い獣が本気を出せば、包囲を突破する事も、あなた達を殺す事も簡単な事だったんですよ?」


 ナチの勢いに圧倒され、群衆が言葉を失う。その瞬間を逃す事はせず、ナチは更に追い打ちを掛ける。


「あなた達が悪魔と呼んでいる獣は、あなた達と戦う素振りすら見せなかった。その事に気付いていますか? あの獣は、あなた達にただの一度も危害を加えようとはしなかった」


 ナチは周囲を一度見回す。


「あなた達が何もしなければ、何も起きなかった可能性があったんです。違いますか?」


 氷の様に冷徹れいてつで澄んだナチの声が路地に響き渡る。見渡しても、ナチの言葉に納得している者など一人もいない。所詮、ナチは余所者。余所者が戯言ざれごとを垂れている。ブラスブルックの歴史を知らない青年が、深く考えもせずに、口を挟もうとしている。


 そんな意図を含んだ視線がナチへと向けられている。


「それでもあなた達は、無駄死にを重ねて黒い獣を追い払いますか?」


「余所者が……」


「街に来たばかりの君は知らないかもしれないが、悪魔は危険な存在なんだ。実際に記録として、この街に災厄をもたらした事実が残されている。悪魔に殺された被害者のリストもある」


「なら、実際に子供が襲われた所を見た人は居ますか? あの黒い獣が人を襲っている所を見た所がありますか? 黒い獣がこの街に災厄をもたらした瞬間を見た人はいますか?」


「それは……」


「でも、ワドルフさんが危険だと判断したから、本に封印したのよ?」


 一歩前に出たのは、書庫の前で話していた老女の一人。


「あなたは実際に黒い獣が人を襲った瞬間を見たんですか?」


「実際に見た訳じゃないけど……。それに五十年前も前の話だし」


「あなた達が言っている悪魔は二日前に復活しています。昨日も街に現れ、今日も街に現れた。それでも、被害者は一人も出ていないでしょう?」


「だが、現に災厄は記録として残っているんだ! 我々は、あれを悪魔として捉える! 捉えざるを得んのだ」


「なら、僕が真実を確かめに行ってきます。本当に悪魔なのかどうか、僕が確かめてきますよ」


「もし、悪魔だった場合はお前が退治してくれるんだろうな?」


「はい。僕が責任を取って退治してきます。約束します」


「本当だろうな?」


「はい」


「もし、逃げようとすれば、分かってるな?」


 どっちが悪魔なんだか、と苦笑しながらナチは頷いた。


「なら、さっさと探しに行け、余所者よそもの。皆、解散だ。仕事に戻れ」


 嫌味混じりに言われ、誰かに肩を小突かれる。ナチが少しふらついていると、包囲していた人々がナチの前から消え始め、あっという間にナチとシロメリアだけが路地に取り残された。


 土の上で目を伏せるシロメリアの下へと近付き、彼女に手を伸ばす。シロメリアは礼を言いながら、ナチの手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。スカートに付いた土を払い落とし、ナチを揺れる瞳で見つめる。


「すみません、ナチさん。私のせいで、大変な事に」


「気にしないで下さい。あの黒い獣が本当に悪魔なのか、気にはなっていたので」


 シロメリアは少し驚いた様な顔をした後、黒い獣が逃げていった方角へと視線を向ける。


「ナチさんは、あの黒い獣が悪魔だと思いますか?」


「今は、正直分からないです。最初は悪魔なのかもしれない、と思っていたんですけどね。でも、あの黒い獣は最初に書庫で見た時も、昨日も今日も、人を傷付ける事は絶対にしなかった。だから今は、自分でも良く分からないです」


「そう、ですか」


 少し残念そうに、でも少しだけ嬉しそうな表情を浮かべながらシロメリアはナチを再び見た。


「ナチさんは不思議な人ですね。冷静な様で意外と感情的ですし、抜けている様で物事を慎重に見定めている」


「そんな事は無いですよ」


 あらあら、と笑うシロメリアは一度暴風が起きた中心地に目をやった。


「あの黒い獣を当時のブラスブルックの人々が初めて見た時、今日と同じ事が起きたんですよ」


 苦しそうに笑うシロメリアを見て、ナチは小さく頷いた。


「悪事を働いた訳ではないのに、恐ろしい姿をしているから、という理由で、この街の人達は彼に武器を向けた。あの時も、一方的でした。無抵抗の彼に武器を振るい続ける人々。私はあの時、幼かったですが気付いたんです」


 シロメリアが左手で右肘辺りを擦る。


「人は本質を見ない。上辺だけの情報で完結してしまう事に。そして、一度刷り込まれた妄信もうしんは心に強く残ってしまう事に。だから、彼はワドルフさんに利用されてしまったんです」


「ワドルフさんに利用された? ワドルフさんというのは誰なのですか? あの黒い獣を封印したと聞きましたけど」


「ワドルフさんの事は私もよくは知りません。黒い本を使って、彼を閉じ込めた。その程度の情報しか私は持ってはいませんが、頭の良い方で人望がある人だった事は覚えています」


「……黒い本には何も書かれていませんでしたよ?」


 ナチの困惑に、シロメリアの驚嘆きょうたんが上乗せされ、二人は目を見開いた。


「そんなはずは」


「二人共、深刻な顔してどうしたんですか?」


 二人は同時に、声がした方へと振り向いた。ネルとマオだ。二人が同時に勢いよく振り向いた事に驚きながらも、マオはナチに上着を返した。


「ありがとう、お兄さん」


「いや、それは良いんだけど」


「どうしたの?」


 マオとネルが首を傾げる。


 ナチは先程までの喧騒けんそうを説明。黒い獣が現れた事。その後に起こったナチと群衆ぐんしゅうの一騒動。その結果、黒い獣を捜索し真実を証明する事になった事を。


 それを聞いた二人は深い溜息を吐いた。


「ナチは意外と世渡りが下手だね。適当に嘘吐いて誤魔化せばいいのにさ。まあ、そんな人にマオは任せられないんだけど」


「お兄さんは真面目だからしょうがないよ。真面目で優しすぎるから、人を見捨てられない。私と初めて会った時もそうだったし」


「おや、面白そうなエピソードだね、それは」


「その話は後で。僕は今から黒い獣を探してくるから、ネルとシロメリアさんはここで待ってて」


 ネルとシロメリアが首を縦に振る。


「マオ。行くよ」


「うん」


 シロメリア達に別れを告げ、ナチとマオは黒い獣が消えていった方角に向かって歩き出した。眼前に見据える森林に向かって。

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