第31話 氷と氷
次の日の昼下がり。
ナチとマオは、シロメリアの仕立屋から離れた場所で見つけた空き地に立っていた。周囲には何もなく、家屋や店は最も近い位置で二十メートルは離れた場所にある。地面には芝生が植えられ、転がったとしても痛みは緩和される。
修行するにはうってつけの場所だった。
途中、工事途中の書庫にも立ち寄ったがコルノンの姿が見えなかった為、すぐにその場所を離れた。黒い本の捜索に進展が無かったのか聞きたかったが、居ないのならば仕方が無い。
ナチは目の前に立つマオを真っ直ぐに見つめる。彼女もそれに応える様にナチを見る。二人に宿るのは闘気。相手を打ち負かす為に必要な覇気を、瞳に込める。
そして、ナチの左手に収まる一枚の符には、既に属性が付加されてあり、いつでも開戦の準備は整っている。
手に込めた符を強く握り直す。属性を具象化させる為に、ナチは霊力を指先から流す。
符に込めた属性は「氷結」。マオに向かって放たれた符は、空気中に含まれる水蒸気を氷結させ、符を覆う様に氷を精製していく。それは、氷山の一角からそのまま切り抜いてきたのかの様な歪な形状でマオへと向かって行く。
だが、それはマオが放った水晶玉の様な丸い形状をした氷に、あっけなく撃墜される。砕け散ったのはナチの氷だけで、マオが作り出した氷は速度を落とす事無く、ナチへ向かって来ている。
完全な敗北。
勝敗を喫した理由はおそらく氷に含まれる不純物の有無。ナチが作り出した氷は空気中の水分を氷結させて精製した為、空気に含まれる酸素や窒素が、そのまま気体として氷に内包されている。
それが不純物となり、マオが作り出した氷に比べると密度が低く、脆い。
意識して作っているとは思えないが、マオが作った氷には不純物がほとんど皆無で、高密度に精製している為、ナチが作り出した氷よりも重量が重く、硬い。
その証拠に、マオが作り出した氷は透明。不純物を多く含み、氷の内部が白く濁ってしまっているナチの氷とは全くの別物だ。氷の精製能力だけで言えば、マオはナチよりも高い技術を持っていると言える。
ナチは飛んできた球体上の氷を、体を捻って躱し、氷が自然落下するのを見つめた。地面に落下しても砕けていない氷を見つめていると、ナチとマオを見ていた三人の子供達が一斉に声を上げた。
「姉ちゃん、すげえ」
「お兄ちゃんに勝った! 凄いよ、お姉ちゃん」
「凄い……」
元気いっぱいな男の子と女の子。そして、読書が好きそうな大人しい雰囲気の男は目を輝かせながらマオに声援を送る。
真っ直ぐな声援にマオは少し照れながらも、笑顔で子供達に手を振った。ナチにも声援は来ないかな、と忠犬の様に待ってみるが、ナチには声援は掛からない。
少し寂しいな、と思いながらもナチは氷からマオへと視線を移す。
「今の氷、どうやって作ったの? 氷先輩」
「硬くなるのだ、氷よ、って思いながら」
「本気?」
「マジ」
予想以上に感覚で生きている、脳筋少女だった様だ。だが、マオが言っている事もあながち間違いではないかもしれない。
もし、能力を発現する器官が脳だとすれば、能力者の感情が能力に反映される可能性をナチは否定できない。マオが、硬度の高い氷を強く想像して精製した場合、脳が自動的に氷の精製過程で不純物を除去し始める、かもしれない。
全ては可能性の世界だ。あり得るかもしれない、というだけの話だが、超能力というのは科学という枠から大きく外れた超常現象。ナチが知り得る常識を簡単に覆す。完全に否定する事は出来ない。
それにナチが思い描いた過程がもし真実ならば、世間的に見れば弱い能力も、想像力を養えば強者に化ける可能性が見えてくる。
「私の氷、変だった?」
「いや、変ではないよ。変じゃないんだけど」
「けど?」
マオは怪訝そうに首を傾げた。
「思っていたよりも氷を作るレベルが高かったから、驚いただけで」
「本当に?」
そう言うと、マオの顔がぱあっと輝いた。嬉しそうにはにかみ、目を細めている。それは、親に褒められた子供が見せる歓喜の表情にも見える。
あまりにハッキリと喜ばれた事に困惑しながらも、ナチは笑顔で首を縦に振った。すると、マオの笑顔は一層輝きを増した。
褒められれば誰だって嬉しいと思う。マオも同じ。ナチだってそうだ。年齢をどれだけ重ねようが、褒められれば素直に嬉しいと思う。
マオが喜んでいる理由も、きっとそれだろう。褒められたから嬉しいと感じた。嬉しくなったから笑顔を浮かべた。きっと、そういう事だ。
「なら、私は氷師匠に昇進だ」
「へえ、おめでとう」
「感動が薄いよ。もう少し感情込めてよ」
「わあ、おめでとうございます氷師匠。感動しすぎて涙が止まりませぬ」
マオの視線が途端に冷ややかな物に変わる。言わせたくせに、と内心思いながらもナチは背後のマオが作った水晶の様な氷に目を向ける。
ナチは首を傾げた。未だに融解を開始しない氷。液体に戻る気配が見られないそれをナチは見つめた。
「あの氷、溶けてないのか?」
独白の様に呟かれたナチの言葉に、マオは首を捻った。「そんな事あるわけないよ。だって、氷だし」と笑いながらマオは言った。
確かに、不純物を含まない氷は溶けにくいとされる。
だが、水を凝固させて精製した氷は、溶けにくいだけで必ず溶ける。どれだけ不純物を取り除き、水の分子同士の結合を強めても、必ず融解し、液体に戻る。
常に凝固点を下回る寒冷地帯に居るのならば話は別だが、ブラスブルックは水の凝固点よりも気温が高い。気温以外の固体を保ち続ける、冷凍庫の様な人為的な寒冷空間なども存在しない。固体を保ち続ける事は、不可能なはずだ。
他に何か要因が存在するのか……?
「まだ作ってそんなに時間経ってないし、そのうち溶けるって。それよりも、特訓するよ、特訓」
確かに氷を精製してから時間はそんなに経っていない。まあ、そのうち溶けるか、と半ば無理矢理に納得すると、マオへと向き直る。
「そうだね。特訓しようか」
そう言って、符を取り出すとナチは属性を込める「氷結」。ナチとマオが同時に構えると、見ていた子供達も再び歓声を漏らす。圧倒的にマオが支持されている事には耳を傾けず、ナチはマオを見据える。
「行くよ、お兄さん」
「お手柔らかにね」
膝を曲げるマオ。深く前屈みになった彼女は、ナチに向かって突進。それを真正面から受け止めようとして、止めた。マオの背後。マオに隠れる様にしてナチを狙う氷柱が三本。それらはマオを追い抜くと、ナチを射殺す為に高速で射出される。
ナチは左側に大きく跳躍し、迫る氷柱を躱す。ナチの右側を通り過ぎる氷柱。地面に突き刺さる氷柱が二本。一本足りない。ナチは視線を彷徨わせる。
もう一本の行方を探るがナチの視界に映るのは、迫って来るマオだけ。マオから視界を逸らす事も出来ず、ナチは後方へ跳躍。その瞬間、左側から空を切る音が鳴った。おそらく、左側から迫ってきている、一本の氷柱。
ナチは一瞬だけ視線を左側へと向ける。氷柱だ。左側から迫っているのはやはり先程の氷柱。
持っている符を左側に投げ飛ばす。投げ飛ばした瞬間に霊力を放出し、属性を具象化。生み出すのはナチの上背と同じ体積を持つ、正方形の氷。それを長方形に形状を変化させ、向かってくる氷柱にぶつける。
ナチが生み出す氷では、マオの氷は防げない。それは先程、ナチの目の前で実証されている。そうなれば、体積が小さい氷では簡単に貫通され、破壊されてしまう。
ならば、ナチに出来る事はマオの氷を弱体化させ、ナチに到達する時間を遅らせる事だけ。
ナチが生み出した長方形の氷に何かが突き刺さる音。氷を抉り、貫通していく音が耳に届く。やはり、ナチの氷ではマオの氷は止める事は出来ない。だが、止める必要は無いのだ。
目的は時間稼ぎ、なのだから。
符をポケットから取り出すと、ナチは後方へ跳躍。迫りくるマオから距離を取る。ナチは符に属性を付加。「氷結」。それを何度も破り、一枚の符を二十三枚に。
そして、それを地面にばら撒くと同時に、指を立てる。芝生の上に落下する白い紙を見て、マオは咄嗟に足を止めようとする。表情に焦りが浮かび上がっているのが見える。
だが、全速力で突進していた体は急停止を拒む。前に進もうとする力を、足は止められない。
だから、マオは符が散らばった地面に強制的に足を踏み込まされる。
ナチは霊力を放出し、属性を具象化。その瞬間、符に散らばった氷は一斉に氷結を開始。マオを包む様に展開される氷の壁は、まるで小さな檻の様に彼女を閉じ込めていく。
白い煙を放ち、ペキペキと音を立てながら作り上げられる氷牢はあっという間に、マオを包み込んだ。
「やるね、お兄さん!」
氷牢内でマオの声が反響する。氷内部でマオが動いている。その影が見えた。その場から動いていないという事は、おそらく氷を作っているはず。反撃の氷撃を。
させない。マオが氷を作り終える前に、倒す。
ナチは霊力を流すと、氷牢内部を氷結させ、マオが動ける余白を奪っていく。密閉空間内で壁が狭まれば、人は焦る。特殊な訓練を受けた者か、サイコパスなどの精神病質者を除けば、人は少なからず焦り、適切な判断を見失う。
冷静ではいられなくなる。
芝生を引き千切ると、それに霊力を込め、符へ変換。属性もすぐに込める。「氷結」を込めた符を宙に投げると、属性を具象化。無数の符は同時に氷結を開始し、それらは全て連結していく。
生み出されたのは巨大な氷柱。それを、ナチは袖越しに握る。
ナチは氷柱の先端を氷牢に向けて、突進していく。
氷柱の先端が氷牢に当たる直前で霊力を放出し、マオを覆っていた氷を破壊する。ガラガラと音を立てて崩れ去る氷牢。視界に再び顕現するオレンジ色の少女。
「甘いよ、お兄さん」
ナチは氷柱をマオの喉元に突きつけた。それをナチが少しでも動かせば、マオの喉元に深く突き刺す事が出来る。
この模擬戦闘はナチの鮮やかな勝利。ではなかった。
ナチの首筋に当たる氷の剣。ひんやりと冷たい感触と共に、透明の刃がナチの皮膚を少しだけ切り裂く。垂れる血液が氷の剣を伝い、マオの手元にまで垂れていく。
「引き分けだよ、お兄さん」
「そうみたいだね」
ナチとマオは不敵に笑顔を浮かべると、持っていた氷柱と氷剣をお互いに芝生の上に捨てた。
すると、マオは両手で腕を擦りながら、体を震わせた。白い吐息を口から漏らし、睫毛や髪の一部には霜が付着し、桜色だった唇は紫色に変色してしまっている。
「寒い……」
チアノーゼだ。寒冷空間に閉じ込められた事による急激な体温の低下。唇が紫色に変色しているのはそれが原因だ。
ナチは符を一枚取り出すと、上着をマオに羽織らせる。
「ごめん、僕のせいだ。ちょっと待ってて」
ナチは持っていた符に属性を付加。「火」。属性を具象化し、温度を四十度程度に設定する。それをマオに手渡し、握らせると、その上からナチもマオの手を包み込む様に握り締める。
「あったかい……」
「もう少し熱くした方が良い?」
「大丈夫。お兄さんの手、あったかいから」
「でも」
マオが柔和な笑みを浮かべる。
「もう。そんなに心配しなくても大丈夫だって」
「ごめん」
「どうせ戦うのに夢中になって後の事、考えてなかったんでしょ?」
図星だ。途中から特訓という名目を忘れ、普通に戦闘を楽しんでいた。いつかのリルとの特訓と同じ。夢中になりすぎて、状況を忘れてしまう。ナチの悪い癖だ。
「私も同じ。お兄さんと戦うのが楽しすぎて、特訓だったこと忘れてた」
唇にほんのり桜色が戻り始めたマオは、少女らしい笑みを浮かべた。その後すぐ、表情に苦渋が混じる。
「お兄さんはやっぱり強いね。私の完敗だ」
「引き分けだったでしょ?」
マオは首を横に振る。
「引き分けに持って行けたのは、お兄さんが氷しか使わなかったからだよ」
「手加減した訳じゃないよ」
その言葉に嘘偽りはない。符に「氷結」しか込めなかったのは、ナチの意地だ。氷の性能では劣ると理解した時点で沸き上がった、対抗心。能力的には劣ると分かっていても、土俵から降りるのは嫌だったのだ。
「うん、知ってる。でも、もしお兄さんが違う属性を使ってたら、私は負けてた。それは事実だから」
「マオ……」
ナチは視線を伏せる。握っているマオの手に視線を逃がす。
「でもね、お兄さんが氷だけで戦ってくれて良かったって思うんだ」
「どうして?」
「だって、自惚れとか自信って、自分じゃ消せないでしょ? 自分よりも強い人じゃないと消せないから」
視線を上げてマオを見ると、彼女は微笑を浮かべながら、ナチの手を見つめていた。そして、ナチと視線が合うと微笑からハッキリと笑顔に変わる。
「だから、氷を使うお兄さんに負けた私の自信はもうボロボロだよ。そりゃもう、お兄さんのコートの様にボロボロだよ」
「そうは見えないけど」
「そりゃそうだよ。自信なんて目には見えないんだから、ボロボロかどうか何て私にも分からないよ」
「いや、そういう事じゃなくて」
言動と態度が一致していない、という事を言いたかったのだが、マオが笑顔なのでナチはそれ以上、何も言わなかった。
「強くなろうと思った時に、一番邪魔になるのは自信だと思うんだ。自分が強いって自惚れてる時に、特訓とか修行なんてしないでしょ?」
「それはまあ」
自惚れているという事は、現状の実力で満足しているという事だ。そんな状態で特訓したとしても効果は無いし、強くなれる事も無い。現状を維持するだけの特訓を繰り返すだけだろう。
「だから、強くなりたい時は自信を捨てなきゃいけない。自分が弱いって認めなくちゃいけないんだよ、きっと。弱さを自覚して認めて、初めて強くなる為の準備が整うんだと思う」
「……本当に君はマオなの?」
「マオだよ。失礼な」
珍しくマオが真面目な事を言ったせいか、本当にマオの偽物なのではないか、と疑ったが目の前に居る少女は間違いなくマオだ。この物言いは間違いなくマオだ。
「とにかく、私は今日弱さを自覚した。だから、これから強くなれる。お兄さんを踏み台にして私は強くなれる」
「……強くなりたい時は、なりふり構わない事だよ。人から吸収出来る物は全て吸収して、奪える物は全て奪う。そして、効率的に特訓して、意味のある実戦を繰り返す。それを全力でし続けていれば、いつかは強くなれる」
「いつかなの?」
「強くなれる保証が無いのに、必ず強くなれるなんて軽率な事は言えないよ」
「真面目だねえ、お兄さんは」
「真面目だよ、悪いか?」
少しおどけて言ってみると、マオは首を横に振った。
「悪くないよ。でも、もう少し手を抜いた方が良いよ。せめて、私の前でくらいは気を抜きなよ」
それは昨晩考えていた事だ。昨晩、答えを出した主題。
「……そうだね。そうする」
マオが少しだけ驚いた顔をした。
「何か、お兄さんが素直だ……」
「マオが言ったんでしょ?」
「んー、もっと理屈っぽい答えが返ってくると思ってたから、少し意外で。どうしたの?」
「……今一緒に旅をしているのはマオだからね。世界を渡り歩いていた時の習慣から一回離れるべきなんだよ。あの時の習慣というか考え方は結構、滅茶苦茶だったから」
マオが何か言い辛そうに視線を下げるのを見て、ナチは首を捻った。どうしたのだろうか。
ナチが声を掛けようか迷っていると、静かにゆっくりとマオの視線が上がった。
「……お兄さんが前に一緒に旅をしてた人って」
「二人共!」
空き地に響く絶叫。女性の声だ。しかも、聞き覚えがある。
ナチとマオは同時に声がする方へと振り向いた。
ネルだ。二人の特訓を見物していた子供達に紛れて、息を切らしているネルの姿が見えた。
ナチはマオから手を離し、ネルへと近付いていく。その後をマオも続き、ネルの前まで駆け寄っていく。
地面にボトボトと雨の様に降り注ぐ雫。ネルの頬から洪水の様に垂れていく汗。それを見て、彼女がナチ達を探す為に、必死に街中を走った事に気付いた。
「どうしたの?」
どう見ても緊急事態。ナチは固唾を飲んでネルの言葉を待つ。
「黒い、大きな獣が街に現れて」
「どこに?」
呼吸がおぼつかないネルの背中をマオが頻りに擦る。
「シロメリアの、仕立屋の前」
ナチはシロメリアの仕立屋がある方角へと体を向ける。目的地に行き付くまでの経路を頭の中で計算。すぐに、最短ルートを選定する。
「二人は後からゆっくりと来て。僕は先に行く」
「一人じゃ危険だよ」
「少し確かめたい事があるんだ」
「でも」
「大丈夫。戦うつもりはないから」
「どういう」
マオが何かを言い切る前にナチは、駆けだした。目的は黒い獣との対話。真実の検証。黒い獣がこの街に再び現れた理由は分からないが、対話する機会はそう何度もあるものじゃない。
ナチは走りながら地面に落ちる葉を拾うと同時に、それを符に変換した。
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