第30話 闇に浮かぶ、赤い光

 ナチが目覚めたのは、全員が寝静まっているだろう時間帯。深夜。黒と月光の対比だけが空を支配する時間帯。


 静寂に包まれた家屋、世界。その自然の静寂に包まれた時間に、ナチは一人起き上がる。


 目を覚ましたばかりの頭は覚醒の時を静かに待つ。開けたばかりの視界は月光さえも拒もうと目を細める。


 起き上がろうとした体から、何かが落ちる。


 相棒の上着。相棒の匂いを濃く残すそれは、ナチから静かに床に落ちた。


 マオが掛けてくれたのか。ナチは上着を拾いながら微笑んだ。そして、そのまま立ち上がるとナチは体を伸ばす。凝り固まった腰と背中の痛みに悶えながら、ナチは眠る前のマオを思い出す。


 悲痛を感じさせる声、表情。マオの表情にこびり付いた恐怖。それが何に対する恐怖なのかは明確には分からない。それでも、彼女は言っていた。無理をして取り返しのつかない事になったら、と。


 彼女は知っているのだ。休息を取る事の正しい意味を。無理をする事で起こる、最悪の可能性を。彼女は身を以って知っているのだ。


 実際、マオの言う通りだった。霊力の長時間に亘る使用。ナチの疲労の原因は主にこれだ。


 霊力の大量消費、枯渇こかつによって死ぬ事は無いが、それでも目に見える形で代償は表れる。それは睡眠。意識の強制シャットダウン。脳が危険と判断した瞬間、肉体は睡眠する為の準備を強要される。


 霊力の消費量が多いだけならば、数時間も寝れば復活するが、もし霊力が体内から枯渇した場合、それを全快する為に十日以上の眠りに着く可能性もある。


 今回はそこまで大事ではなかったが、脳が体を休めようとしていたのは事実。


 書庫を出た時のナチは動けなくはないが、心身は疲労困憊。常に睡魔が襲い、気を抜けば意識の混濁こんだくが始まってしまう、という状態だった。


 疲れたなら疲れたと言ってください。敬語で言われたマオの言葉が胸に刺さる。マオに連れられて、ここに戻っていなければナチは道端で倒れていたかもしれない。


 もし、倒れていたら迷惑を被るのはマオだった。完全に脱力した成人男性をここまで運ばせるところだった。


 ナチは頬を叩く。乾いた音が部屋に響き渡る。


 もうナチはナキと旅をしている訳じゃないのだ。無茶を押し通せた以前の旅とは違う。ナチが気絶しても守ってくれた「最強の盾」はもう居ない。


 ナチの相棒は、今はマオなのだ。旅を共にする仲間が変わった以上、今までの習慣を変える必要がある。もう、最強の相棒に相応しい存在で在り続ける必要は無いのだ。対等になろうと気を張り続けなくていいのだ。


 ナチとマオは対等なのだから。


「だからか……」


 ナチは月明かりを見ながら、一人呟いた。


 ナチは世界を救う旅に対して、常に緊張感や焦燥しょうそう感を持ち合わせている。だが、マオとの旅に関しては、純粋に楽しいと思っていた。それはナチとマオが対等だからだ。


 対等だから、ナチも遠慮が無いし、マオも遠慮が無い。当然、節度と距離感は守られているが、気負いする事がないというのは精神的に楽だ。


 ナキと旅していた時とは、また違った楽しさ。師と旅をするのか、友と旅をするのか、そんな違い。


「マオ、起きてるかな」


 音がしない事からも起きている可能性は低いが、確認するだけならすぐに出来る。ナチが窓から、扉へと視線を向けようとした時、部屋が突然暗くなった。


 背後を振り返る。



 月明かりが翳る。遮られる月光。闇に浮かぶ、赤い光。


 暗澹あんたんたるその影に、ナチは目を見開いた。



 黒い獣だ。



 音も無く現れた黒い獣は、シロメリアの仕立屋の前に腰を落ち着けている。


 赤い光は、双眸だ。黒い獣が放つ赤い眼光が、シロメリアの仕立屋を視界に捉え、首だけをナチが居る部屋の小窓に近付けている。


 鼻息が当たる度に窓はガタガタと大きく揺れ、次の瞬間には破壊されるのではないかとナチを不安に駆り立てる。気が付けば、ナチはポケットから符を一枚取り出していた。


 だが、室内で戦闘は出来ない。ここはシロメリアとネルの家。ここで戦闘を行えば、黒い獣が瞬く間にこの家を破壊するだろう。それを行うだけの膂力りょりょくを、目の前の獣は持ち合わせている。


 それは避けなければならない。


 そして、戦闘をする場所も考えなくてはならない。少なくとも、この家からかなりの距離を取る必要がある。玄関先で戦闘する事は、屋内で戦闘しているのとあまり変わらない。相手は、二階を梯子も無しに覗ける程の巨体を有しているのだ。


 そんな場所は咄嗟に思い浮かばないが、とりあえず外へと出て、黒い獣を家屋から引き離す必要がある。


 よし、とナチが扉に向けて歩こうとした時、不意に窓の揺れが止んだ。部屋に静寂が戻ると同時に、息を呑む。


 ゆっくりと振り向いた。眼球だけが先に窓を見る。目が合った。ナチの黒い双眸と赤い双眸が重なる。その瞬間、瞼が上がる。呼吸を忘れる。


 子供を喰う悪魔。本に封印された異形の怪物。五十年前の災厄。嫌な噂ばかりが頭に浮かぶ。荒唐無稽の噂が脳裏を掠め続ける。


 思わず一歩、後ろに下がった。一歩下がった程度ではどうしようもない事を知りながら。それでも恐怖を紛らわす為に、一歩下がる。


 それから数歩下がると、ナチの背中は壁に激突。背中と壁をぴったりと合わせた。黒い獣の兎の様な顔がこちらを見ている。赤い瞳は今もナチを射抜いている。


 その瞳から視線を逸らす事は許されない気がして、ナチは手に持った符を強く握りながら、視線を合わせた。


 それから獣と異世界人の沈黙は続いた。耐え難い沈黙がナチから理性を急速に奪っていく。正常な判断力を少しだけ鈍くする。


「君は…………悪魔なの?」


 言ってからナチは気付いた。


 何を言っているんだ、僕は。


 目の前に居るのは獣だ。言葉を話す事は出来ない。会話など出来るはずもないのに、何故だか聞いたら答えてくれる気がしたのだ。


 ナチが呆然としていると、黒い獣の顔が遠ざかっていくのが見えた。黒い獣が窓から離れた事で、再び部屋の中に差し込み始める月明かり。


 窓から見える黒い巨躯が遠くなっていく。それから黒い獣はシロメリアの仕立屋に背を向け、空を見上げている。月光を浴びる黒い獣は、どこか寂寥感を漂わせ、ゆっくりと一度だけナチを見た。


 その視線にどういう意味があったのかは分からない。


 呼んでいるのか……?


 分からない。ナチには答えられない。だから、その答えを求めて、ナチは扉を開いた。まだ震える足を何とか動かし、ナチは階段を駆け下りた。寝ているかもしれない三人の事は既に頭には無く、騒々しい足音を立てながら、一階に下りる。


 暗い作業場を抜け、ナチは玄関を勢い良く開けた。その勢いのまま外へと出たナチは、周囲を確認。首を、体を、瞳を動かし、辺りを確認する。


 居ない。黒い獣はもうどこにも居ない。


 これが人間だったのならば、短時間で遠くには行けないはず、で済むのだが、黒い獣にその理屈は通らない。あの巨体と膂力ならば、短時間でここから長距離を移動する事が出来る。


 もう黒い獣は、ここには居ないのだ。


 唐突に拭いた夜風が、ナチが手に持っているマオの上着を揺らし、砂塵を運んだ。それが足下に残った巨大な足跡の上に積もっていく。


 これは黒い獣がここに来たという証明。ここに居たという証。


 何をしに来たのだろうか。


 黒い獣はただここに座って、シロメリアの仕立屋を眺めていただけ。家屋を破壊する訳でもなく、誰かを襲う訳でもなく、ただここに座って眺めていただけだった。


 そこに悪意など無い様に思えた。


 分からない。本当に悪魔なのか。本当に子供を殺して喰らっていた災厄だったのか。


 それに応えてくれる者は、もう居ない。


 人通りも無い、静寂に囲まれた路地で一人、ナチは街を囲む森へと視線を向けた。鬱蒼と生え並ぶ常緑樹の更に奥へと視線を向ける。


 黒い獣は森へ消えていったと、ブラスブルックの住民は口を揃えて言った。ならば、森に住処があると考えていいかもしれない。封印される前に使用していた住処が。


 五十年も経てば他の動物に住処を破壊されている可能性もあるが、森に居る確率は高い。住処など、もう一度作ればいいのだ。自然界の弱肉強食社会において、住処は奪う物。縄張りは奪う物。


 ならば、森に居を構える確率が最も高いはずだ。この近くに洞窟などがあれば別だが。それは後でシロメリアかネルにでも確認すればすぐに分かる。


 ナチは闇に閉ざされた暗い森から視線を外し、踵を返した。そして、開いたままの玄関に向かって進んでいく。


 最後に黒い獣が見せた視線が脳裏を掠める。ナチに構築されつつあった黒い獣に対する概念が揺らいでいるのが分かる。瓦解していく思考。見つかるはずの無い答えに思考を巡らせながら、ナチは扉を潜った。

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