第29話 対等性
二人は書庫を出た後、真っ直ぐシロメリアの仕立屋に帰った。
予定していた特訓は延期。理由はナチだ。彼の表情に浮かび上がった濃い疲労。誰が見ても疲れていると分かる顔で書庫を出た彼を、誰が特訓に誘えるというのか。
ナチが疲弊している理由は分かっている。ナチは結局、朝から夕方までずっと符術を使用していたのだから。しかも常に神経を尖らせ、集中力を切らさず、マオとコルノンが本を分けやすい様に、本を置く位置にも気を遣ってくれていた。
疲弊して当たり前だ。
本人は大丈夫だよ、などと言っていたが、そこはマオが「もう疲れたから、帰ろう」と帰宅を促し、ナチを半ば強引にシロメリアの仕立屋に向かわせた。
シロメリアの仕立屋に戻ると、シロメリアとネルは当然ながら作業場で仕事中。難しい顔で、二人は服のデザインについて話し合っていた。マオ達は、シロメリアとネルの邪魔にならぬ様に、簡単な挨拶だけを済ませ階段へ。
足音をあまり立て無い様に静かに階段を上がり、二階へたどり着くと、マオはナチの手を引っ張り奥の部屋へと向かった。扉を開けたマオはナチを連れて中へ入ると、部屋の中心に躍り出た。
部屋の中心に立った所で、ナチの手を離しマオが振り返る。すると、そこには困惑した表情を浮かべたナチ。マオの行動の意図が読めず、戸惑っているナチに、マオは彼に床に腰を下ろす様に指示を出す。
素直に床に座り胡坐をかくナチの前に、マオも座った。
向かい合う二人。重なる視線。部屋を満たす沈黙に、ナチが息を呑むのが分かる。その沈黙を破る為に、マオが口を開く。
「お兄さん」
ナチの背筋がピンと伸びる。
「はい」
「疲れている時は、正直に疲れたって言ってください」
「何で敬語なの?」
「お兄さんの質問は受け付けていません。返事は?」
「……はい。分かりました」
「疲れた時は疲れたって言っていいんです。遠慮は必要ないんです。私はお兄さんの……」
相棒なんだから、と言おうとしてマオは口にするのを止めた。何だか、滅茶苦茶恥ずかしい事を言おうとしている気がする。それこそ数日はベッドの上で悶えてしまいそうな台詞を。
マオにはまだそれを言う覚悟が出来ていない様だ。
「私はお兄さんの?」
急に黙ったマオに、ナチが言葉の続きを催促してくる。揶揄しているとハッキリ分かる口調と視線で、マオに言葉を求めている。それを物凄く腹立たしく思うのと同時に、とてつもない速さで恥ずかしさが込み上げてくる。
顔に熱が宿り、確認しなくても紅潮しているのが分かる。
マオは口を引き絞ると同時に、床を指差した。
「うるさい、黙れ。そこに寝ろ」
「え? 何で?」
「いいから寝ろ」
「別に僕疲れて」
マオはナチの肩を掴むと強引に押し倒した。倒した衝撃で床板が軋む。棚の最上段に置いてあった木箱が床に落下し、騒々しい落下音と共に中身が散らばる。
糸の塊がコロコロと転がり、マオの視界から外れていく。そんな物は気にもならない。どうでもいい事だ。
ナチの腹に乗ったマオはナチの顔に自身の顔を近付けると、視線を真っ直ぐに彼の瞳にぶつけた。ナチの息がかかる。マオの吐息がナチに当たる。その艶めかしさすらも気にはならなかった。
「どうしたの?」
先程までのからかう様な口調では無く、本当に心配している様子のナチ。
「疲れたなら疲れたって言ってよ……。無理をして取り返しのつかない事になったら……」
思い出す。体調が悪いのに無理をして仕事に赴いたサリス。その彼が、傷付いて帰って来た時の事を。頬に付いた一文字傷が赤黒く変色していくのを。命の灯が消えかけたあの時の事を。
もうあんな思いは、二度と。
「……そう、だね。ごめん。今度からは気を付ける」
「……うん。分かれば良いよ」
マオは未だに心配そうに見つめてくるナチに笑顔を向けた。すると、彼も安心した様に、相好を崩す。本当に安堵した様に。
私は子供だ。衝動のまま動いて、彼を困らせてしまう。彼の役に立ちたいのに。大人になりたいのに。彼を見ていると、不安が胸を埋め尽してしまう。サリスの様に弱音を吐かず、弱い部分を見せない彼は、きっと無茶をする。無理をする。
それがたまらなく怖い。マオの知らない所で無理をして、亡骸だけが戻って来る。そんな未来を否定できない事が、マオをどうしようもなく不安にさせる。
「約束して」
「約束?」
「私の前では、無理をしない。約束」
そう言いながら、マオは左手の小指を差し出した。指切りの催促。この行為に何の効力も無い事は分かっている。分かってはいるが、心を落ち着ける安定剤にはなる。
ナチがマオの小指に、自身の左手の小指を絡めようとした時、扉が勢い良く開いた。
「マオ! ナチ! 大丈夫?」
部屋に響くネルの声。血相を変えて現れたネルが押し倒されたナチと、押し倒しているマオを見て絶句した。ネルの背後に立つシロメリアも、二人を見て言葉を失った。
「え? マオが押し倒してるの? え? そっち?」
その言葉だけで、ネルが何を危惧していたのか、大体想像がつく。
マオが狼と化したナチに襲われていると思い、慌てて二階に駆け上がってきたのだろう。
そして、その期待は外れ、今に至る。
「これは意外な展開……。まさか、マオがそんなに肉食だったとは」
「マオさんは意外と積極的なんですね……」
「ち、違う! これはお兄さんが疲れてたから」
ネルが口に手を当てながら、艶めかしく微笑む。
「癒してあげようとしたの? 駄目だよ? ナチ疲れてるのに」
「だから、違う!」
「一階へ戻りましょうか、ネル。お邪魔虫は退散しましょう」
「そうですね。お邪魔虫は退散しましょう」
顔を見合わせ、悪餓鬼の様な笑みを浮かべると、ネルとシロメリアは部屋から出て行った。扉が閉まる直前、ネルが顔を扉から覗かせた。
相変わらず悪餓鬼の様な悪戯心満載の微笑み。
「あまり激しくしちゃだめだよ、マオ」
「早く行け!」
マオは足下に転がっていた糸の塊を投げ飛ばした。その瞬間、扉が閉まる。扉に柔らかく直撃した糸は、音も無く床に落下。その場で静止した。
残された二人の間に、気まずい雰囲気だけが残った。何となく、ナチと視線が合わせるのが怖くて、視線を扉に固定させる。床に落ちる糸と扉を見続ける。
ネルが聞き耳を立てているのではないか、と扉を訝しんで見ていると、ナチがマオの腕を優しく叩く。
「そろそろ降りてくれるかな?」
「え? あ、ごめん」
苦笑しながら言うナチの腹から、速やかに下りる。そして床へと降り立ったマオは、少しだけナチから距離を取った。顔が紅潮しているのが分かる。心臓が早鐘を打っている。その影響か、体が火照っている。
冷静になって考えれば、ナチを押し倒し、彼の上に馬乗りになって、吐息が当たる程に顔を近付けていた。かなり大胆な行動に出ている気がする。いや、気のせいではない。かなり大胆だった。
事情を知らない者が見れば、まず誤解する。行為に及ぼうとしているとまず思う。マオがナチを押し倒し強引に迫ろうとしていると、あの状況では思わずにいられない。
何でそんな大胆な真似が出来たのか、自分でも分からない。他人に体を触れられるのは苦手なのに。
「マオ」
「は、はい!」
急に声を掛けられ素っ頓狂な声を上げるマオを見て、ナチは天井に寝転がったまま、苦笑した。腕を広げ、天井を見上げている。その顔は、相変わらず疲労が色濃く、とても眠そうだ。
「ありがとう」
「う、うん……」
「少し寝るよ。実は、もう限界……」
ナチの瞼が下りる。静かに、ゆっくりと、彼に静寂と闇を運ぶ。瞼を下ろしてすぐに聞こえてくる寝息に、マオは安心すると共に自身の上着をナチに掛けた。
上着を掛けると安心したように顔を緩め、大事そうにそれを握るナチの寝顔を見て、マオは無意識に笑顔を浮かべた。それは子供が寝ている時に大事そうに毛布を握り締めている姿と重なる。
「おやすみ、お兄さん」
静かに寝息を立てるナチを起こさぬ様に、静かにマオは部屋を出た。部屋を出ると通路は暗く、二階は完全に夜に染まっていた。階段下から零れる光に誘われる様に、マオは階段を降りた。
階段を降りる途中で漂ってくる紅茶の香り。その香ばしい匂いにマオは思わず目を細めて、大きく息を吸った。鼻腔を通り抜けると同時に、マオの胃袋が空腹を訴える。
それを聞かれたのか、階下から笑い声が聞こえてくる。少し気恥ずかしくなりながらも、マオはゆっくり階段を降り切った。
「お腹空いちゃったの?」
作業台の一枚板の机で向かい合って座っているネルとシロメリアが、笑顔で一階に降り立つマオを出迎えた。シロメリアが新たに紅茶を注ぎ、ネルの横にそれを置く。
それにお礼を言って、マオはネルの横に置いてある丸椅子に腰を下ろした。
「まあね。一日中、書庫の中で本を探してればお腹も空くよ」
言いながら、紅茶を一口飲む。口の中に広がる香りが、体に溜まった疲労を少しだけ緩和させる。
「え? 書庫にある本って確か、一万冊以上はあったと思うけど。よく一日だけで探せたね」
驚いた様なネルの声。向かいで紅茶を啜るシロメリアも、やや驚愕。
「一人手伝ってくれた人がいたから。まあ、お兄さんがほとんど一人で片付けちゃったんだけどね」
「疲れた顔してた理由はそういう事、か。それで、マオが癒してあげようとしたと」
むふふ、と隣でネルが艶めかしい視線を送って来る。
「だから違うってば。ネル、しつこい」
「いけませんよ、ネル。マオさんの善意を馬鹿にしたりしては」
「あ、シロメリアさんずるい。シロメリアさんも楽しんでたのに」
「私はいいんです。年の功です」
紅茶を啜りながら、それ以上は取り合いません、とばかりにシロメリアは目を閉じた。今のやり取りで、少しだけシロメリアに対する印象が変わった気がする。
真面目で、大人で、淑女のお手本の様な女性だと思っていたが、少し子供っぽい一面も持ち合わせているのか。
マオが意外そうにシロメリアを見つめていると、瞼を上げた彼女と視線が重なる。柔和な笑みを浮かべるシロメリアに対して、マオは固い笑顔を浮かべると紅茶を一口啜った。
「それにしても、あの本の量を一人で片せるナチって何者なの?」
「ただのお兄さんだよ。符術を使う普通の人」
戦闘における知識や技術が、マオ達よりも遥か高みにいるだけの普通の人間。マオ達と何も変わらない血が通った人間。弱音を吐けず、自身の体調にも気付かない、少し抜けた所がある男性。
それが、マオの中に生きるナチの姿。印象。
「そっか。マオはナチを特別扱いしないんだね。感心感心」
ネルの表情に慈愛が灯る。慈愛に満ちた笑みが、マオに向けられる。
それが何だか恥ずかしくて、眩しくて、マオは目を伏せた。紅茶に映る自身の顔からも目を逸らす。そうして最後に見つめたのは床だった。
「その若さでそこに気付けるなんて素晴らしいです、マオさん」
「あ、ありがとうございます」
恥ずかしさを隠す為に、マオは紅茶を一口啜った。
「特別扱いというのは自分と特別視した他人を、隔てるという事です。距離を作るという事。平凡な自分と、特別視した他人との間に一枚壁を作るという事です」
何か語り出したな、と思いながらカップを両手で握った。ほんのりと温かい。その温もりがマオの心を落ち着かせる。冷静を帯びた心で、マオはシロメリアの言葉を待った。
「特別、というと響きは良いですが、それは対等性を失う事を意味します。特別というのは、隔てる行為。つまり、対等だった関係を自ら捨てるという事なんですよ。特別扱いされ、気を遣われる。そんな経験はありませんか?」
「……あります」
両親が死んだ日。それ以降。誰もがマオに対して気を遣う様になった。両親を失ったマオに、誰もが同情の視線を向けた。陰でマオを噂する人も多くなったように思う。それを鬱陶しく思う事はあっても感謝する事は無かった。
社交辞令の様な言葉。不幸な子供に言うお決まりの常套句。聞き飽きた言葉に感謝する事は無い。マオが求めているのは言葉ではないのだ。求めていたのは両親の温もりだったのだ。愛情だったのだ。対等だと思える関係性だったのだ。
だから、マオにとっての対等はウォルフ・サリになった。両親の庇護を失った六歳の少女は何かに縋らずにはいられなかった。何かに縋らなければ一人で生きていけなかったから。
幼い少女の形成途中の精神的支柱。両親の死によって破壊されたそれを、急ごしらえでも用意しなければ、マオはあの時生きる事を望まなかった。
故に、マオはウォルフ・サリに依存しているのだろう。固執しているのだろう。自分でも制御が利かなくなる程に。
「よく愛する人に特別扱いされる事を望む人を見かけます。ですが、私はそうは思いません。私は愛する人とは常に対等で在り続けたい。それが絵空事でも理想論でも、机上の空論だったとしても」
喉を潤わす為に紅茶を啜るシロメリア。優雅さを感じさせる挙動でカップを机に置くと、シロメリアはマオとネルをゆっくりと見据えた。
「少し、しんみりとしてしまいましたね。簡単に言えば、特別というのは何かを強調させる便利な言葉なんです。愛も、友情も、願望も。そして、それを隔てる壁も全て」
これが、シロメリアの特別の定義。もちろん、特別の定義は人それぞれだし、シロメリアの考えが全てだとは思わない。中には特別視する事を重要視する人間も居る。それは人それぞれだ。だが、一理あるとは思う。
特別視する事で、距離が生まれるという点においては。
それからシロメリアは特別を人と人を隔てる壁と称した。対等性を阻む言葉だと。
それは特別な相手がいた事が無ければ言えない言葉だ。そして、対等性を失った事が無ければ言えない言葉でもある。特別を失った者にしか言えない言葉。
何故、そんな話をマオにしてきたのだろうか。理由が分からない。
「なので、マオさんもナチさんに対して特別な気持ちがあるのかもしれませんが、自重しなければいけない時はしないといけません」
マオはすぐに反応できなかった。てっきり、真面目な話が続くとばかり思っていたからだ。真面目な口調で真面目な事を言っている事は確かなのだが、あまり真面目に聞こえないのは何故なんだろうか。
シロメリアがマオをからかっている様な気がしてならない。
少し間を空けてから、マオは呆然と言葉を返した。
「…………はい」
「おや、特別な気持ちがある事は否定しないのですか?」
「え? あ、ええと違います。私とお兄さんはそういうんじゃないです。ただ」
「ただ?」
何だろう。マオとナチの関係性。旅を共にする相棒。ウォルフ・サリに属する仲間。世界を救う為にサリスを追うナチと、ウォルケンに連れ戻す為にサリスを追うマオ。相互利益の関係。世界を救う可能性を持つとされるマオを守る者。
そんな所だろうか。だが、それは関係性。シロメリアが聞きたいのはそれじゃない。マオがナチに対して抱いている感情。シロメリアが聞きたいのはそれだ。
分からない。
ナチに対して浮かぶ感情が何なのか。時折、胸を締め付けるこの感情が何なのか。マオにとっては未知の感情だ。今までの経験から導き出せないという事は、ナチに対して抱いているのは、マオが知らない何か。
それを今、言葉にすればシロメリアとネルは答えてくれそうな気がする。きっと、答えを示してくれる。だが、それでは駄目な気がする。他人から間借りした答えをそのまま自分に落とし込める行為に、どこか嫌悪を抱く。
他者の個性を上書きしただけの劣化人間に思えてしまう。完全な自己という物が存在しないという事は分かっているが、それでも自分で考え、答えを導き出す経験がマオには足りない。
間借りした答えをそのまま自身の理論にするのではなく、マオだけの理論を自らの手で作り出す経験。今のマオに必要なのはその過程だ。様々な物や人に触れ、経験していく。情報と経験のインプット。
この感情もそう。曖昧模糊としたこの感情もマオ一人で、ナチと関りながら気付いていくしかない。感情という不可視の存在に答えを出してやれるのは、マオだけなのだから。
「少し意地悪でしたね、すみません」
「そんな事は……」
「焦って答えを出す必要は無いんです。今は分からない感情も経験と年月を重ねれば、やがて答えは見えてくる。それに期限は無いんです。マオさんはまだ若い。ゆっくりと探していけばいいんです。それに何だか宝探しみたいでワクワクしませんか?」
「え? ワクワク?」
「はい。今まで知り得なかった感情というお宝を、時間や経験の中で一つずつ手に入れていく。お宝を手に入れる度に、道が変わる地図。手に入れたお宝が増える度に、目の前の選択肢も増え、道はより複雑になっていく。そうして作り上げた、宝の地図が複雑であればある程、様々な経験をしてきたという事になります」
まるで年端も行かない少女の様な顔で語り出すシロメリア。彼女が言っている事を理解する為に、頭をフル回転させる。
「それが充実した人生なのかは、置いといて」
置いとくのか、と思いながらマオは視線を落とした。黙って、シロメリアの言葉を待つ。
「感情の引き出しが多ければ、必ずどこかでマオさんの役に立ちます。幸福な記憶も、辛い体験も、役に立つ時が必ず来ます。ですので、一杯考えて、たくさんの答えを見つけてください」
「はい」
柔和な笑みを浮かべるシロメリアに、笑顔を浮かべた。何を言っているのか理解できない箇所も多々あったが、まあ大丈夫だろう。基本的には勉強になる事を言っていたのだ。教訓にしよう、と思いながらマオは温くなった紅茶を飲み干した。
少しだけ、シロメリアの小難しい語り口調がナチと被り、マオは二階で眠る相棒に少しだけ思いを馳せた。
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