第27話 消えた黒い本
翌日の早朝。
四人は作業場で机を囲みながら、シロメリアが作ってくれた朝食を食べていた。少し薄味の白色のスープに、様々な野菜が色取り取りに盛られたサラダ。そして、日の出前にナチとマオが買いに行った焼きたてのパンが食卓に並ぶ。
「じゃあ、黒い獣を探せばいいの?」
焼きたてのパンを手に取りながら言ったマオの顔に不機嫌さはもう無い。パンを買いに行く道中でナチが必死に説明したのだ。何故、そんな弁明をしたのか自分でも分からなかったが、マオの機嫌を修復する事には成功した。
というよりは、最初から本気にしていなかった、との事。からかう為に言っただけだったが、ナチが本気にしたのでそのままからかってやろう、と思っただけらしい。
それを聞いても怒る気にならなかったのは、自分でも不思議でならない。ナチがマオに対して甘いのか、怒る気にさせない気質がマオにあるのか。
そんな事を思いながら、ナチはパンを手に取った。
「うん。今日は黒い獣を探しつつ、情報を集めようかなって」
「ほーい」
「よろしくお願いします」
スープが入ったカップを机に置き、深く会釈するシロメリア。
「任せてください。必ず見つけて来ます」
胸をどん、と叩くマオを見て頼もしく思いつつも、ナチは今日の予定を脳内で組み立てる。朝食を済まし片付けを手伝った後、街の中でサリスに関しての情報を収集すると共に、黒い獣がどこへ消えていったのかも聞く。
マオとの特訓もこなしつつ、時間があれば街の外にも捜索の範囲を広げる。こんな所だろう。
ナチはスープを一口飲んだ。野菜の旨味が溶けたミルクに塩が程よく効いており、口の中に風味が広がると共に、体中に熱を運んでいく。体が温まっていくのと同時に、眠気が残っていた頭も完全に覚醒する。
美味しい、と思っていると、目の前でマオがスープを絶賛し始めたので、ナチもそれに便乗。二人の感想を聞いたシロメリアは満足そうに笑みを浮かべ、二人のカップに追加のスープを入れた。
「ネルは毎日、こんな美味しい物食べてるなんて良いなあ」
「でしょ? シロメリアさんの料理は絶品なんだから。何だったら、マオもここで働いちゃう?」
「働いちゃわないよ」
「そっか。残念」
二人のやり取りを微笑ましく眺めながら、ナチは素早く朝食を終えた。パンのおかわりをシロメリアから提案されたが、ナチはそれをやんわりと断り、グラスに入った冷たいミルクを口に含んだ。
濃厚でまろやかな味わいを口の中で楽しみながら、ナチは食後のまったりとした空気に乗じた。
穏やかな朝食もすぐに終わり、四人で片付けを済ませた事で予想以上に早く片付けは終わった。
最後にナチとマオが机を濡れた布で綺麗に拭き、全ての片づけを終わらせると同時に、いそいそと開店準備を始めた二人を少しだけ手伝う。
とは言っても、ナチ達が手伝える事はそれ程無く、ネル達に促されるままに、ナチとマオは作業場を離れた。
「頑張ってね、二人共」
扉を潜る瞬間、ネルの声が背中に掛かる。それには振り向く事無く扉を閉めると、ナチ達はブラスブルックの街へと一歩踏み出した。
「さあ、行こうかね」
「どこを探すの?」
「まずは黒い獣がどこに消えていったのか、街の人に聞いてみようか」
「了解しました」
既に日も昇り、どこの店も始業している。ウォルケンの様に人が溢れかえってはいないが、それでも路地には人が多い。路地で商いをしていた者ならば、黒い獣を一目見た者は多いはずだ。
ナチ達はシロメリアの仕立屋の向かいで露店を開いている男性の下へと歩いて行った。店先に並べられているのは、良く分からない丸い置物。達磨と呼ばれる置物に似ているが、それとも少し違う。
これは何だろうか、と思っていると露店の主人がナチの目の前に置いてある置物を一つ手に取った。
「これを家に置いておくと邪気を祓ってくれるんでさ」
「邪気?」
「そうでさ。家っていうのは邪気が溜まり易いでさ。大変なんでさあ」
男の変わった喋り方に、ナチは少し笑いそうになったが理性がそれを抑えつける。人の話し方を笑うなど、言語道断。それは人として、男としてあってはならない事だ。
「一つ聞きたいんですが、昨日黒い大きな生き物を見ませんでしたか?」
「それなら森の方に向かって行ったでさ。大きかったでさあ」
「そうですか、ありがとうございます」
「いえいえ。お一つどうでさ?」
「いや、大丈夫です」
ナチとマオは男性に礼を言うと露店から離れ、大樹に向かって歩いて行った。その間にも、露店の主人や通行人にも黒い獣について聞いてはみるが、返答は置物を売っていた男性と同じ。
森に向かって歩いて行ったと、ブラスブルックの人々は口を揃えて言った。
かつての住処が森にあった、という事になるのか。餌を求めて森に向かったのか。ナチがぱっと思いつくのはその二つ。どちらも真実に近い気がするが、ここで結論付けるのは時期尚早だろう。
「ねえ、お兄さん。もう一回、あの黒い本見に行ってみようよ」
「黒い本って黒い獣が閉じ込められてた本の事?」
「うん。あれだけ変な事が起きた本だもん。何か起きてるかも知れないよ」
確かにそうだ。あれだけ不可思議な現象を立て続けに起こした本だ。時間が経ち、何か変化が起きている可能性はある。もしかしたら、文字が浮かび上がっているかもしれない。
行ってみる価値はある。
「そう、だね。行ってみようか」
二人は書庫へと行先を定め、そこに向けて歩き出した。
二人が書庫へとたどり着くと、そこにはちょっとした人だかりが出来ていた。黒い獣が壊した扉、書庫から脱出する際に出来た大穴を見つめる人の群れ。
書庫の前にはブラスブルックの職人が総出で、破壊された大穴を修繕している姿が見られた。壁に出来た大穴を見て、黒い獣の体の巨大さを再確認。
巨大すぎると言っても過言ではない。この街に潜んでいる可能性を早々に潰し、ナチ達が書庫に向かって歩き出そうとした所で、気になる会話が耳に入って来た。
「あれ、ワドルフさんが封印した悪魔がやったらしいわよ」
話しているのは老齢の女性が二人。小太りの女性と痩身の女性が、書庫を睨みながら話していた。手に持っているのは手提げ鞄。買い物途中だったのだろうか。
二人は歩き出そうとした足を止め、大穴を見ているフリをしながら老女二人の話に聞き耳を立てた。
「誰かが封印解いちゃったって事?」
「ええ。昨日誰かが解いちゃったみたいなのよ。ワドルフさんが亡くなってしばらく経つし、封印が弱くなってたのかもしれないわね」
「どうするのかしら? その悪魔って子供を食べちゃうんでしょ?」
「子供ばかりを好んで食べる傾向があるってだけよ。必要なら大人も食べちゃうわ、きっと」
「それでも困るわ。孫が生まれたばかりなのに」
「私だって孫が七日前に七歳の誕生日を迎えたばかりなのよ。全く、何で五十年前の災厄に今も悩まされなくちゃいけないのよ」
「ワドルフさんはもう居ないのに、この街大丈夫かしら」
「封印解いた人が責任もって退治してほしいものよね」
二人の話にナチ達は顔を見合わせ、思わず苦笑を漏らした。封印を解いた張本人達がすぐそばに立っていると知ったら、あの老女二人はどんな反応をするだろうか。おそらく怒るだろうな、とは思う。
怒りながら愚痴を言い始め、真実性の薄い噂を近所に流し始めるのだろう。
それから老女達は、旦那と息子の嫁に対する愚痴に話を切り替え、二人仲良くどこかに消えていった。
「お兄さん。何か凄い事聞いちゃった気がするんだけど」
「さっきの二人が言っていた事が本当なら、ね。もし事実だとしたら僕達が探しているのは、子供を喰う異形の化け物という事になるけど」
それもどこまでが真実か分からない。多少の虚偽が混じり、話を誇張して言っている場合もある。その可能性が拭い切れない以上は。
「まだ決めつけるのは早いかもしれない。もう少し調べてから判断しよう」
「うん。じゃあ、まずは黒い本からだね」
「それはそうなんだけど、この状況で中に入れるのかな?」
「中も滅茶苦茶になってたもんねえ」
「うん……。最悪、書庫にはしばらく入れないかもしれない」
どうするか。黒い本を必ず調べないといけない訳ではないが、一度意識の中へ入れてしまった以上は、黒い本が現状どういう状態なのかは気になる。
頼み込めば書庫内には入れてくれそうだが、余所者のナチ達が破壊された書庫に踏み入ろうとするのは、少し不審に見えるはず。
出来れば、街の人間に付き添ってほしいというのが本音。ナチは書庫の前に群れを成す人々に目を向ける。
ほとんどが知らない顔ぶれ。その中から、ナチは一人の男性を見つけ、歩み寄る。人を掻き分け、その人物の下へと歩み寄る。男性は突然現れたナチとマオに一瞬、驚いていたが、すぐに朗らかな笑顔を浮かべた。
「昨日ぶりですね。どうしましたか?」
ナチが歩み寄ったのは、書庫で働いていた司書の男性。この街で数少ない顔見知り。ナチは内心ほっと息を吐く。何となく、彼は半壊の書庫を見に来ていると思ったのだ。
その予想は見事当たった。朝に来るとは限らなかった為に居なければどうしようか、と不安にもなったが、結果は見ての通り。
ナチは挨拶を済ませると、すぐに男性に本題を切り出した。
「書庫に入る事は出来ないですか?」
「書庫ですか?」
男性は少し悩みながら、大穴から書庫の内部を見つめる。それを見て何を思ったのかは分からないが、男性は微笑を浮かべ、僅かに顔を頷かせた。
「大丈夫ですよ。ですが、お二人が勝手に入ってしまうと、堂々とした泥棒だと勘違いされかねないですから、私も同行します。それでも構いませんか?」
「はい、構いません。お願いします」
「ありがとうございます」
マオが礼を言った途端に、視線を外した男性。顔がほんのりと赤くなっている事には目を向けず、ナチは開いた穴を見据えた。大きな体に、それに見合うだけの膂力。その力は子供など、いや大人ですら簡単に押さえつける事が出来る。
捕まれば為す術も無く、捕食の時を待つしかなくなる。
後、確認する事は凶暴性だけ。もし、幼い子供を好んで食べる嗜好を本当に持ち合わせているとしたら。もし、悪魔と呼ばれるだけの残虐非道な狂気性を本当に持ち合わせているとしたら。
ナチは、黒い獣を殺さなければならないのだろうか。捜索が退治の依頼に切り替わってしまうのだろうか。
その真意を黒い本が導き出してくれるといいのだが。
司書の男性コルノンの計らいで、書庫内に入ったナチ達は書庫内の悲惨な状況を目の当たりにした。ナチ達はそそくさと逃げてしまった為、あまり状況を深く確認はしていなかったが、予想以上に酷い。
大多数の本棚は倒れ砕かれ踏み潰され、それに追随する形で床板に転がる本も悲惨な有り様を見せつけている。散らばった紙や表紙に付いた足跡。その上に乗っているのは土や泥。
これは黒い獣だけが悪い訳ではないだろう。後から書庫に押し寄せたブラスブルックの人々が残していった物だ。
ナチが床に転がった本と破れた紙などを見ていると、コルノンが落ちている本を一つ手に取り、表紙に付着した土砂を手で払った。青い表紙の分厚い本。
表紙は折れ曲がり、その中身も表紙と共に折れ曲がったり、所々破れてしまったりしている。
「普段は本を読まない人ばかりですからね。価値を知らなければ当然、扱いも雑になります。仕方が無い事なんですよ、こればっかりは」
コルノンが言った事には素直に頷けた。どれ程の偉業を成し遂げた偉人の銅像や、数多の戦場で英雄の傍らで主人を守り続けた聖剣も、価値を知らない人々からすれば、ただの銅像、剣でしかない。
それらも、時間の変化と共に人々の記憶から希薄になっていき、やがて完全に忘れ去られる。銅像の人物名も、聖剣の名も、それを手にしていた主人の名前すら、記憶の片隅に留まり続ける事は出来ない。
それが普通。それは、自然の摂理。
「あまり、気にしないでください。お二人は、何を探しに来られたのですか?」
本を手に抱えながら、笑顔を見せるコルノン。それを見て、ナチ達はすぐに目的の本を口にした。ナチの記憶が正しければ、最後に黒い本に触れていたのは、コルノンのはずだ。
「それなら、こちらにあります」
コルノンは書庫に入ってすぐ右側にある木箱を指しながら言った。
分厚い本が数十冊は入りそうな四角い形状の蓋を被せるだけの簡素な作りの木箱に、三人は近付いていく。「一応、保管していたんですよ。保管しておいて正解だったみたいですね」とコルノンが嬉しそうに口にしながら、木箱の蓋を開けた。
木箱の蓋を開けたコルノンは岩の様に固まった。
微動だにしない。まるで木箱に命を奪われてしまったのかと錯覚しかける程に、コルノンは急停止した。その行動の意図が読めず、ナチとマオは彼の背後から木箱の中身を覗き見る。
それを見て、ナチ達は首を傾げた。マオと顔を見合わせ、さらに首を傾げる。
「中身が……無くなってる……」
二人が顔を見合わせていると、急に行動を再開し始めるコルノン。木箱の中には、何も入っていなかった。木箱を傾け、注意深く中を見ても、手を中に突っ込んでみても本は一冊も無い。
木箱は空になっていた。
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