第26話 シロメリアからの依頼
「……シロメリア、さん?」
マオが心配そうにシロメリアを見る。マオの表情には疑問符と少しばかりの罪悪感が灯されていた。ナチとネルに頻りに視線を送るマオを見て、ナチはネルに視線を送る。
視線を受け取ったネルは首を縦に頷かせると、ナチとネルは同時に立ち上がった。
「シロメリアさん。今日はもう休みましょう」
ネルがシロメリアの肩を叩くと、彼女は何も言葉を発する事なく、首を小さく頷かせた。そこで気付く。彼女はマオを見ていた訳ではない、と。
ただ茫然と、虚空を見つめていただけなのだと。
「割れたカップは僕とマオが片付けておくから、行って」
「ありがと、ナチ」
そう言ったネルは、シロメリアをゆっくりと立ち上がらせ、階段へと移動。
シロメリアがナチとマオに向かって小さく会釈したが、その表情は暗い。生命力を急速に吸われていく過程を、目の前で見せられているかの様だ。
ゆっくりと階段を昇っていく足音を聞きながら、ナチは作業場の隅に置いてあった箒と塵取りを手に取った。そして、椅子に座ったまま事態が飲み込めていない様子のマオに、ナチは箒を渡した。
「マオは箒担当ね。僕は塵取り担当」
箒を受け取ったマオは、ぎこちなく笑った。
「楽しようとしてない?」
「若い方が大変な作業をするのは、当たり前なんだよ」
「何それ」
悲しそうに浮かべた微笑を見ながら、ナチはカップの前に塵取りを置いた。塵取りに吸い込まれていく白いカップだった物。ガラガラと音を立てながら、入っていくそれを見つめながら、ナチは口を開いた。
「マオのせいじゃないからね」
「え?」
「シロメリアさんが落ち込んじゃったのは、別にマオのせいじゃないからね」
「でも」
「大丈夫。後で一緒に事情を聞きに行こう?」
「……聞いて、いいのかな?」
「シロメリアさんに聞く前に、ネルに一度話を聞いてみようか。ネルなら何か知っているかもしれない」
「うん!」
無邪気な少女らしい笑顔を浮かべたマオを見て、ナチは安堵の息を漏らした。
「誰も悪くないんだから。気を落とさなくて大丈夫だよ」
「シロメリアさん。黒い獣と昔何かあったのかな?」
「取り乱したって事は、何かあったって考えるのが自然だけど。黒い獣は本に閉じ込められてた可能性があるからなあ。あまり良い想像は浮かばないね」
閉じ込められていたという事は、閉じ込められるだけの理由があの黒い獣にはあったという事だ。何をしたのかは分からないが、あの黒い獣は何か罪を犯し本に封印された、と考えるのが無難。
だが、あの黒い獣は誰も傷付ける事なく、書庫から出て行った。それが少し不可解だ。本から解放された事で、思考がぼやけていたのか。それとも、本に閉じ込められている間に性格が変わったか。
何にせよ、黒い獣とシロメリアを結び付ける理由が思いつかない。
「悪い奴なのかな?」
「どうだろ? 決めつけるのはまだ早いかもね」
ナチは塵取りに入ったカップの破片をゴミ箱に捨てると、マオから箒を受け取り、再び作業場の隅へ。そして、再び椅子に座り、自身のカップに手を伸ばした。
すっかり温くなってしまった紅茶を一口飲む。温くなっても美味しさは健在。紅茶を淹れた人間の技量か、それとも茶葉の良さか。どちらだろうか、などと考えていると、階段から聞こえてくる軽やかな音。
ナチは紅茶を飲み干し、カップを皿の上に置いた。
「ごめんね、マオ」
作業場に姿を現したネルは開口一番そう言った。先程の笑顔に溢れた談笑から打って変わって、疲労を滲ませた表情を浮かべながら、ネルはマオに頭を下げる。
マオは少し慌ててネルの頭を上げさせた。そして、自然に生まれた笑顔をネルへと向けている。
「良いよ、気にしないで。もう大丈夫だから」
「本当にごめんね。普段は穏やかで優しい人なんだけど」
マオは一度、ナチへと視線を向けた。
「もう、気にしてないよ。それに誰も悪くないんだから。それよりも、シロメリアさんが落ち込んだ理由って?」
ナチは思わず苦笑を漏らす。さっきナチが言った言葉をそのまま引用した事が、少し気恥ずかしくなって、ナチは頬を掻いた。
「ごめんね。私も詳しい事は知らないんだ。何だか聞き辛くて」
「そっか。なら、シロメリアさんが落ち着いたら一緒に聞きに行こうよ」
「そうだね。私も気にはなるし、一緒に行こうかな。でも、無理強いは駄目だよ?」
「うん。分かった」
マオとネルの会話を眺めながら、ナチはカップと皿をキッチンシンクに置いた。ついでに、マオとネルのカップと皿もシンクへ置く。
すると、マオが口に手を当て、大きな欠伸を漏らしていた。瞼も半分程下りており、せっかくの整った顔も間抜け顔に映る。それを見たネルは苦笑を漏らしながら、マオの手を掴んだ。
「もう遅いし、寝ようか。ナチも部屋へ案内するからついて来てくれるかな?」
ナチとマオは首を縦に頷かせると、ネルの後ろを歩き、階段を上った。かなり急な段差を一段ずつ慎重に上っていき、ナチ達は二階へと足を踏み入れた。
二階に上がり、少し進むとすぐに行き止まりへとたどり着いた。あるのは、三つの扉。おそらく、一つはシロメリアの部屋。もう一つはネルの。そして、もう一つは客間といった所だろうか。
「じゃあ、ナチは奥の部屋使って。マオはこっち」
ナチは一番奥の扉へ。マオとネルは階段を上がってすぐの所にある扉の前に立った。マオ達が立っている場所が、ネルの自室なのだろう。
「おやすみ、二人共」
「うん、おやすみナチ」
「お休み、お兄さん」
ナチは扉に手を掛け、月明かりだけが差し込む部屋へと足を踏み入れた。煌めく細い月光が窓から筋となって床を照らしているおかげか、蝋燭やランプに火を灯さなくても、それなりに明るかった。
部屋の中を見渡すと、布や生地。動物の物だと思われる皮。装飾に使うであろう金属の塊などが、壁に沿う様に、木箱に詰められて置いてあった。
ここは、部屋というよりは物置に近い。おそらくは、物置として普段は使っているのだろう。
ナチは扉を閉めながら、中央へと移動。確かに部屋中に物が置いてあるが、体を横に出来るだけのスペースは十分にある。壁や屋根があり、雨風を凌げるのだから、文句は無い。むしろ、部屋を無料で提供してくれるのだから感謝しかない。
ナチは上着を脱ぎ、それを丸めるとそれを地面に置いた。寝転がり、即席で作った上着の枕に頭を乗せる。寝心地は最高に悪いが、腕を枕にし続けるよりはマシだろう。
天井を見つめ、溜め込んだ疲れを吐き出すかの様に息を吐いた。旅の疲れも当然あるが、今日は変な騒動に巻き込まれた気苦労もある。街に着いてすぐに、不可思議な現象に巻き込まれる事になるとは、誰が予想できただろうか。
本が突然、発光。その直後に姿を現した巨大な黒い獣。その獣はナチ達を襲う訳でもなく、救助に来たブラスブルックの人々を蹴散らす事無く、扉を破壊し姿を消した。
そして、シロメリアの動揺。
あれは、黒い獣、という言葉にのみ反応していた様に思う。その言葉を聞いた直後に見せた狼狽。何だったのだろうか、あの獣は。どういう存在なのだろうか。善か悪か。シロメリアが狼狽した理由は、善か悪か。一体、どちらなのか。
皆目見当もつかない。
考えていても答えは出ない。ナチは答えを持ち合わせていないのだから。引き出しに答えが入っていない以上は、どれだけ答えを捻り出そうとしても、それは机上の空論でしかない。
眠ろう。頭も体も疲弊している。明日は、マオとの特訓がある。情報収集も引き続き行わなくてはならない。するべき事は多い。体力を少しでも回復しておかなければ。
ナチが眠気に従って、瞼を下ろそうとした時だ。
コン、コン。
扉をノックする音。軽やかかつ優しい響きが扉を通過し、ナチの耳へと届く。ナチは閉じかけていた瞼をゆっくりと上げた。すぐに体を起こし、床に手を着きながら立ち上がった。
マオだろうか。伝え忘れていた事があるのかもしれない、と思いながら扉へと近付いていく。扉に手を掛けながら、欠伸を漏らす。大口を開け、口から大量の吐息を漏らすのと同時に扉を開けた。
「マオ、どうした……の?」
ナチは扉の向こうに居た人物を見て、固まってしまった。開けた大口はそのままに、目尻に浮かんだ涙を拭く事もせずに、ナチは目の前に居る人物を見つめた。
そこに居たのは、マオではない。
「どうした……んですか? シロメリアさん」
そこに居たのは、白い髪を後頭部で纏め、紫の双眸を申し訳なさそうに床に向けるシロメリアだった。
「少し、ナチさんにお願いがありまして……」
「と、とりあえず中に」
頭を下げるシロメリアを部屋の中に入れ、ナチは扉を閉めた。部屋の中央まで歩いて行くシロメリアを追い、ナチも中央へ。天井に吊るされたランプに灯りを点けようとしたナチを、シロメリアがやんわりと制した。
要件を伝えたらすぐに戻るから、と言ったシロメリアにナチは頷いて、ランプから手を離す。
「先程は、すみませんでした。みっともない所を」
「いえ、僕は別に。それは出来ればマオに言ってあげてください」
「はい。明日、必ず」
月明かりに照らされたシロメリアは苦笑を漏らした。月光に照らされる老齢の美女に見つめられ、ナチは思わず目を逸らした。そして、目を逸らした事実に気付くとすぐさま視線を戻した。
「それで、僕にお願いというのは」
シロメリアの顔から笑顔が消える。真剣な眼差しがナチに向けられる。
「ナチさん達が見たという黒い獣を探してもらえませんか?」
「え? 黒い獣を、ですか?」
ナチは予想もしていなかった頼みに、少しばかりの動揺を声に乗せる。何を考えているのだろうか、この人は。シロメリアの意図が分からず、ナチはついつい彼女を訝しむ様に見てしまう。
「はい。お願いできませんか?」
「探すのは構わないですけど……。その理由を聞いてもよろしいですか?」
「それは……」
言い淀むシロメリアを見て、ナチは顔の前で手を振った。
「無理にとは言いません。少し気になっただけですから」
「すみません。黒い獣が見つかったその時に、必ずお話しします。それでは駄目ですか?」
子供がおもちゃを催促する様な視線も、シロメリアが行うと効果的になるのだから不思議だ。ナチは気が付くと笑顔で頷いていた。
「それで構いませんよ。では、黒い獣を見つけたその時に、理由を話してもらうという事で」
「はい、お願いします。無理を言ってすみません」
「気にしないでください。僕達もここに押し掛けて図々しいお願いをしているんですから。苦でも何でもないですよ」
「ありがとうございます」
静かに、心のつかえが取れた様に穏やかな笑みを浮かべるシロメリアに、ナチも自然と笑みを浮かべた。そして、シロメリアを見送る為に扉の前まで二人で移動する。
ナチが扉に手を掛けようとすると、扉の向こう側で物音。ガタッ、と音がした後に、女性の声が聞こえてくる。それは一つではなかった。女性と女性の声の掛け合いが起こり、それは少しずつ大きくなり始める。
ナチは溜息を吐きながら、扉を開けた。
「何してるの、お二人さん?」
扉の前で聞き耳を立てていたのは、深く考えなくてもマオとネルの二人。どうやら、尻餅をついたマオを起き上がらせようとしている所らしい。顔を引き攣らせている二人は、ナチを見て苦笑を漏らし、シロメリアを見て真顔になった。
そして、すぐに立ち上がるとすぐさま二人は頭を下げた。
何度も謝る二人の頭を上げさせるシロメリア。それは、心優しき女王様と失態を犯してしまった下僕の様にも見えた。
「どうして盗み聞きなんてしてたの?」
「だって、シロメリアさんが心配で」
ネルが視線をナチ達から完全に外しながら言った。それを見て嬉しそうにはにかむシロメリア。
理由を聞くと、どうやらシロメリアの部屋の扉が開いた音が聞こえ、シロメリアの足音が、ナチが居るはずの部屋へと向かって行った事で、心配になったという事らしい。
「シロメリアさんが襲われちゃうかと思って」
「おい」
「だって、シロメリアさん綺麗だし、間違いが起きたって不思議じゃないでしょ?」
「起きないよ! そこまで見境ない訳じゃないよ」
救いを求めてシロメリアを見れば、彼女は照れた様に頬に手を当てている。駄目だ。シロメリアは当てにならない。次に救いを求めてマオを見れば、何故か彼女は不機嫌な顔。
何でだよ、と思いながらマオと視線が重なると、マオは唇を尖らせた。
「お兄さんがそんな人だとは思わなかった」
「無実! 僕は無実!」
「綺麗な人なら誰でもいいの?」
「待って。話を勝手に進めないで。一回ブレーキ踏んで?」
「見損なったよ、お兄さん」
アクセルから一回足を下ろせよ、と心の中で唱えながらもナチは弁解の言葉を探す。何故そんな言葉を探さなければならないのか甚だ疑問だが、ナチは言葉を必死に探し、繋ぐ。
だが、ナチの必死の努力は虚しく散っていく。
「そろそろ寝ましょうか」
シロメリアの言葉に、ナチ以外の誰もが頷いた。
「この状況で? 寝るの?」
「ネルと寝る、を掛けたの? 面白い」
黙ってろお前は、とナチはネルを目で制すも彼女は既にナチに背を向けている。ナチの視線が届く事は無い。次々におやすみなさいと言っては自室へと入っていく女性陣。取り残されるナチ。
おい、マジか。
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