第25話 無文字の黒本

「あそこです! あそこに変な生き物が!」


 ナチ達の前方。黒い獣の背後で、男性の物と思われる声が書庫に響き渡った。おそらくは、ここで働く司書によるものだ。それに気付いた黒い獣は、ゆっくりと顔を上げると背後へ、体ごと向けた。


 体を背後に向ける間に、二つの棚が完全に壊れ、本が数十冊は役目を終えたが、黒い獣に気にした様子は見られない。


 ナチは黒い獣の背後を黙って見ながら、黒い獣の動きを待った。


 黒い獣はゆっくりと、四足歩行で歩き出す。足を一歩踏み出す旅に、地面が揺れる。巨体に見合うだけの重量はある様だ。


 歩いている通路、全ての棚を倒しながら進んでいく黒い獣は、司書や助けに応じて書庫に来た複数人の男性を無視して、扉を破壊。壁に大穴を開けながら、外へと出ていった。


 穴が開いたことによって、書庫内に光が差し込み、途端に陰鬱な空気が消え失せる。薄暗さから解放されたナチとマオは、詰まる様な空気から解放され、その場に座り込んだ。壁にもたれ掛かり、息を大きく吐く。


「何だったんだ、あれは」


「私のせい、だよね?」


「分からない。あの本に何か細工してあったのかな?」


 ナチは近くで転がっている不気味な黒い本を指差しながら言った。


「あれを見れば、分かる?」


「見てみようか」


 ナチは立ち上がり、黒い本を拾うと再びマオの下へと戻った。そして、再び腰を下ろす。


 黒い表紙を恐る恐る開く。この本を開いた瞬間に、何か呪いや悪魔が溢れ出してきたりしないだろうな、と不安に思いながらも表紙を完全に開く。


 それに目を向けた瞬間、ナチは面食らった。


 あれ?


 ナチは次々に頁をめくる。文字を読む事無く、速読している訳でもなく、次々と紙をめくり続けていく。


 熟考せずに読み進めた結果、最終頁まですぐにめくり終わった。


「何も書かれてない……」


 本には、ただの一文字も記されてはいなかった。ただの一文字も、だ。


「それって本としてどうなの?」


 マオの指摘も素直に頷ける。


 文字が一文字も記されていない本など、ただの紙。紙の無駄遣いだ。貴重な資源を無駄にしていると言ってもいい。だれがこんな本を作ったのだろうか、と疑問に思っても、著者の名前すらも記されていない為、調べようがない。


「本としては不合格だけど……。マオがこの本に触れた事によって、本が突然光り出して、黒い獣が目の前に現れた。信じられないけど、これは事実なんだよね」


「私は本を光らせる事は出来ないよ」


 顔の前で手を振るマオに、ナチは笑顔を浮かべた。本を閉じ、地面に置く。文字が書かれていない本を持ち帰ったとしても、邪魔になるだけだ。


「知ってるよ。けど、マオが触れた事で何かが起きたのは間違いない。例えば」


「例えば?」


「マオが本に触れた事によって封印が解けた、とか」


 マオは苦笑しながら首を横に振った。


「無い無い。だって、私氷しか作れないもん」


「本当に? 何か隠し持ってるんじゃないの?」 


 からかう為に聞いた言葉に、マオは真顔になった。


「多分、無いと思う。だって、私は物心ついた時には氷を」


「ごめん、冗談だったんだけど」


「アホ! 真剣に悩んで損したよ、全く」


「むしろ、何で急に真剣になったの? 不思議だよ」


「お兄さんが真面目な口調で言うから」


 確かに、冗談だと分かり難い口調で喋ったかもしれない。ナチは素直にマオに謝罪。最初はむくれていたマオだが、すぐに笑顔を浮かべ、それに合わせる様に、ナチも笑顔を浮かべる。


 二人が笑顔を交わしていると、前方から足音。


 司書の男性だ。心配そうな面持ちで二人に近付き二人の前まで来ると、彼は膝を折り、二人の目線の高さに合わせる。すると、男性は震えている足を手で支えながら、口を開いた。


「大丈夫でしたか? 怪我などはありませんか?」


「はい、問題ないです」


 マオが無言で笑顔を浮かべ、頭を軽く下げると、男性は頬を赤らめてマオから視線を外し、ナチへと視線を固定させる。これは、と恋の予感を至近距離で感じながら、ナチは温かい視線を男性へと向けた。


 そして、リルにも密かにエールを送る。意外にもライバルが多いぞ、と。


「なら、良かったです。あの黒い獣は一体どこから出現したのか。ご存知ですか?」


「いえ、すみません。存じ上げないです」


 ナチは足下に転がる黒い本を手に取ると、男性に手渡した。それを受け取った男性は、まるで今日初めて見たかの様な表情を浮かべ、新種の虫を見る様な瞳で、本を眺める。それから黒い本の中身を見ると、男性は顔を顰め、とてつもない速度で全ての頁に目を通し始めた。


「この本が何か知らないですか?」


「いえ、知らないですね。むしろ、何故こんな本がここにあるのか、私が知りたいくらいです」


 ですよねえ、と心の中で思いながら、ナチは壊れた扉からぞろぞろと入って来る人間の群れに目を向けた。武器を持ち、農具を持ち、調理器具を持つ人々が書庫内の惨状に目を向けながら、最奥にいるナチ達へと駆け足で近付いて来る。


 向かってくる人間はほとんど高齢。その全てが敵愾心を剥き出しにしているのは、どういう訳なのか。


 ナチ達に対してなのか、それとも先程の黒い獣に対してなのか。それは分からないし、興味も無い。それに前から迫って来るのは、おそらく面倒事の類。さっさとこの場を離れるのが、おそらくは正解だろう。


「マオ、もう戻ろう。あれに捕まると多分、面倒くさい」


「ほーい。了解しました」


 ナチが先に立ち上がると、マオがナチに向かって右手を伸ばしてくる。これは、起き上がらせろ、という意味だろうか。ナチは呆れ混じりの息を漏らすと、マオの手を掴み、彼女を立ち上がらせた。


 思ったよりも軽く、柔らかい手だ。温かい手。薄い桜色をした綺麗な爪が細い指の先で煌めいている。その感触を堪能していると、マオがすぐにナチから手を離した。


「……えっち」


「……」


 ナチは何も言い返せなかった。たかが手じゃないか、と思ったが、好きでもない男性に手を触られ感触を堪能されるというのは、かなり気持ち悪い行為だな、と今更ながら思う。これは、ナチが悪い。


 少女の手の感触を邪な気持ちで堪能していたナチが悪い。


「ほら、行くよ。変態さん」


「……変態ではないよ」


 ナチ達は司書の男性に別れを告げて、壁伝いに歩いた。ナチ達へ向けて歩いて来る人の群れから逃げる様に、ナチ達は棚に隠れながら進む。


 二人が動き出してすぐに聞こえてきたのは、怒号にも似た大きな声。司書の男性を問い詰めているのだろうか、と倒れた棚の先に居る司書の男性を覗き見ると、司書の男性は営業スマイルを浮かべながら、向かってくる全ての問答をいなしていた。


 少し申し訳ない事をしたか、と心に芽生えた罪悪感には目を向けない様にして、二人は書庫から出た。






 二人がシロメリアの仕立屋に戻ったのは結局、日が暮れてから。


 黒い獣が出現した事もあり、街中を探索すると共に、一度街全体を散策しようという事になったのだ。二人はこの街に来たばかりで、この街の事を何も知らない。


 街の見取り図の様な物があれば楽なのだが、生憎とそんな便利アイテムは無い。それに、ウォルケンの時の様にいざ緊急事態が起きた時に、街の経路を知らないと対応が遅れる。経路をあらかじめ知っておく事は、悪い事ではない。


 街の順路。建造物。ブラスブルックに伝わる特産物や伝統など、それらを街の人々に聞きながら散策していると、あっという間に日は暮れた。


 サリスに関する情報も聞いてはみるものの、あまり目覚ましい手掛かりを聞く事は出来ず、話に出て来るのはブラスブルック在住のサリスルさん、という男性の話ばかり。


 サリスの情報が手に入らず少し落ち込んでいたマオだが、特訓するには最適な広さを持つ空き地を見つけた事で、マオの表情に明るさが戻った。


 明日の昼頃に特訓しようか、とナチが提案すると、マオは満面の笑みを浮かべていたので、単純な子だなと思う。


 それを見てナチも悪くない、と思ったのだから、ナチも単純なのかもしれない。


 シロメリアの仕立屋に戻ると、店頭には誰もおらず、談笑と食器と食器が擦れる音が店の奥側。作業場と思われる場所から聞こえて来た。


 ナチとマオは暗い店頭から奥へ顔を覗かせると、優雅にもシロメリアとネルが机を挟んで向かい合う様にしながら、お茶を楽しんでいた。一枚板の机の上に置かれた上品な白いティーカップと、カップと同色のポッド。立ち込める紅茶の香り。


 カップに注がれた紅茶を啜りながら微笑み合っている光景は、貴族の孫と祖母のお茶会の様でもあった。


 ナチ達は静かに奥へ足を踏み入れると、シロメリア達に近付いて行った。天井に吊るされたランプの橙光を少し眩しく思いながら、ナチはお茶を楽しむ二人に声を掛ける。


「ただいま。今、戻ってまいりました」


「おかえりなさい、ナチ、マオ」


 二人はナチとマオを見ると、カップを置いた。そして、笑顔を浮かべながら新たに椅子を用意し、ナチ達にそこへ座る様に指示。ナチは、シロメリアの横へ。マオはネルの横へ座る。


 ナチ達が座ると同時に立ち上がったシロメリアは、棚から白色のカップと受け皿を二つ用意すると、そこに紅茶を注ぐ。立ち込める香ばしい湯気が、鼻から体内に侵入し、体に溜まっていた疲労を徐々に分解していく。


 シロメリアに礼を言ってから、ナチとマオは紅茶を一口飲んだ。


 口に広がる紅茶の香ばしい香り。紅茶の後にほんのりと感じる甘さ。これは蜂蜜だろうか。甘すぎず、それでいて全く甘くない訳ではない良い塩梅の甘さにナチは感嘆の吐息を漏らす。


 それに、飲み込んだ後に広がる檸檬の様な風味。蜂蜜の甘さと相まって紅茶を風味付けるのに一役買っている。適度な甘さ、すっきりとした後味。紅茶に詳しくないナチでも文句なしで美味しいと思える一品だった。


「これ、美味しい」


 紅茶を飲んだマオが蕩けた表情で言った。マオもナチと同じで、紅茶の味に感動している様だ。あっという間に紅茶を飲み干してしまったマオのカップに、ネルがおかわりを注ぐ。


 それを一口だけ飲むと、マオはほっと息を吐いた。


「どうでしたか? ブラスブルックは」


 笑顔のシロメリアがナチとマオを見る。ナチはカップを皿の上に置くと、カップを両手で触れた。少し熱い位の温度が手の平に伝わってくる。


 カップを少し指で擦りながら、ナチは微かに口角を上げた。


「静かで、自然に溢れてて、人も穏やかで。僕は好きです」


「私も、穏やかで、静かなこの街が好きです」


「そうですか、なら良かった。若い子が楽しいと思うには、ここは静かすぎますから」


 自虐的に笑って、シロメリアは紅茶を一口飲んだ。


「そう言えば、外で何かあったの? 二人が出て少しした後に、何だか街が騒がしくなったけど」


 それは黒い獣が出現した時に起きた騒動の事だろう。街全体がざわつく程の騒動は、一日にそう何度も起きはしない。散策していたナチ達も、黒い獣が出現した以上の騒動には遭遇していない。


 マオがナチを見る。言うべきかどうか、判断を決めあぐねている様だ。ナチはカップから手を離すと、首を縦に頷かせた。


「今日、書庫に行ったときにね。黒い本から黒い兎みたいな獣が出て来たの」


 カップが割れる。その瞬間に響く、甲高い破砕音。中身は運良く飲み終えていたおかげか、零れていない。


 カップが地面に落下し、その衝撃で割れたという事実を音だけで判断し、ナチはその持ち主を目で追った。


 ナチの前にはカップが存在している。ネルとマオの前にもカップは置かれている。となれば、残すは一人しかいない。


 シロメリアだ。


 彼女は、真っ直ぐにマオを見つめていた。瞬きもせず、落としたカップにも目を向けず、大きく見開いた瞳をマオに向けていた。ナチはシロメリアが動揺する理由が分からず、彼女にただ視線を送るしかできなかった。


 震える腕と肩。急速に青褪める白い肌は、西洋人形を唐突に思い出させる。そして、小刻みに震えている唇からは隣に居るナチにしか聞こえない音量で嗚咽が漏れていた。


 涙を流す事無く、彼女は泣いている。


 ナチにはシロメリアの姿が、そう映った。

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