第22話 森に囲まれた街

 森に囲まれた石造りの街。見渡す限りの常緑樹。浄化された空気は鼻を心地よく通過する。


 体中に溜まった膿すらも浄化してくれそうな空気は、体を浸透していき、全身に行き渡った所で口から息を大きく吐いた。


 都会に住む人間が、田舎に移住したくなる気持ちが、少しだけ分かる気がした。呼吸をするだけで心が少しだけ軽くなった気がするし、耳に届く小鳥の囀りは、聞くだけで耳を溶かしていく。


 そんな場所は、都会には無い。言い切ってもいい。同じ小鳥の囀りでも、ホトトギスとカラス程の開きがある。


 ナチとマオの二人は、新たな街へと足を踏み入れていた。


 森の中に佇む、石壁に囲まれたこの街は、名をブラスブルック。


 石造りの家屋や建物が多いのはウォルケンと共通しており、街の景観だけを見れば、あまり街間を移動した気にはならなかった。


 この街に来た、と強く実感できる要素は間違いなく、街の中央に堂々と生える大樹と言えるだろう。


 天高く生える大樹は圧巻、の一言に尽きた。傘の様に枝葉を伸ばす樹冠は、人には御せない強い日照りから街を守ろうとしている様に見えた。


 敷石が敷かれた地面に薄く積もった土石は、容赦なく靴底に付着し、靴と地面との間に気持ち悪いクッションの様な感触をもたらしていた。


 足裏に伝わる異物感を取ろうと靴底に付いた土を払うが、四回目を払い終えた辺りでナチは、払うのを止めた。


 払い続けた所で、この街を歩く限りは改善する事はない。払う努力をするよりも、慣れる努力をした方が賢明だ。


 マオを先頭に、路地を歩く。街の景観と共に、すれ違う人々を見る。ウォルケンとは大分、街の雰囲気が違った。


 ラミルの様な実力至上主義の人間が街を闊歩し、常に何かしらの物騒な空気が漂っていたウォルケンとは真逆と言ってもいい。


 争い事など知らず、戦争や決闘は絵本や童話にしか存在しない絵空事だと、本気で信じていそうな穏やかな人相で仕事に勤しむ人々。


 空を泳ぐ小鳥達も羽を羽ばたかせる挙動一つ一つに、優雅さを感じさせる。街の印象一つで、それすらもウォルケンとは違って見えた。


 このブラスブルックを童話と例えるならば、ウォルケンは寓話だ。


「平和な街だね、ここ。何か心を洗われるというか」


「それだとお兄さんの心が汚れてるって事になるけど」


「いや、僕の心は綺麗なんだけど、綺麗さが増すっていうか」


「何それ?」


 そう言って、マオは笑った。笑顔を浮かべながら、手に持った手紙と進行方向を、何度も交互に見る。


「この辺りのはずなんだけどなあ……」


 マオが手紙を見ながらぼやく。ナチは、マオが手に持っている手紙を覗くと、そこには綺麗な線と可愛い絵柄で記された地図が書かれていた。


 かなり分かりやすい地図だ。それは読み手の事を考えて書かれた地図だと、ナチでも分かる。


 二人が入り口から街に入り、大樹に向かって直進し続けていると、唐突にマオが一つの家屋に右腕を向けた。人差し指を立て、それを鋭く差した。


「あれかも!」


 マオに指差された二階建ての家屋の壁には、ライムグリーンの塗装が隙間なく施されており、三角の黒い屋根には小鳥が無数に止まっている。家屋の側面に設置された窓は一階に二つ。二階にも二つの計四つ。


 そして、出入り口と思われる扉には、この世界の文字が書かれた木彫りの看板が、埋め込まれていた。


「……シロメリアの仕立屋。ここだ。ここだよ、お兄さん」


 手紙に書かれた地図、文章と看板に書かれた文字を何度も見直し、マオはそれが目的の家屋だと判明すると、ナチの服を力強く引っ張りながら扉の前に移動した。


 マオが扉のノブに手を掛ける。それをゆっくりと手前に引っ張ると、マオはナチの服を掴みながら中へと入った。


 店内に入ってすぐに設置された店頭に立つ茶髪の女性が、ナチ達に気付くと驚きの表情を浮かべ、手に持っていた赤い布の塊を地面に落とした。


 落下した布に視線を向けたナチだが、店頭に立っていた女性とマオはゆっくりと近付くと、両手を重ね合わせて、お互い嬉しそうに笑顔を浮かべた。


「久し振りだね、マオ」


「久し振り、ネル」


 少女二人が仲睦まじく手を合わせる中、ナチは落ちた布を拾い、全ての布を手に抱えると、静かに立ち上がった。


「ありがとう、えーっと」


 茶髪の女性が謝辞を述べながら布を受け取ると、困った様に苦笑を漏らしながら、ナチを見た。


「僕はナチ。よろしくね」


「よろしくね、ナチ。私はネル。リルの姉です」


「え?」


 ナチは少しの驚きを抱きながら、ネルを見る。少しウェーブがかった長い茶髪を腰辺りまで伸ばし、髪と同色の瞳は少し垂れ気味。


 通る鼻筋と、薄い唇、少し丸顔だが、愛らしい顔をしている彼女は、ウォルケンに居る中性的な少年を微かに想起させる。第一印象は非常に穏やか、かつふんわりとした雰囲気を持つ女性だった。


 藍色のエプロンを着用していても膨らみが分かる胸から、ナチは視線を外すと、ネルがナチに詰め寄って来ている事に気付いた。


 思わず一歩後退するが、ネルに白く変色したコートの袖を掴まれ、力任せに引き寄せられる。


「ありゃりゃ、凄い服着てるね。どうなったら、こんなに皺くちゃに……」


 ネルは、ナチからコートを強引にはぎ取ると、裏地を覗いたり、生地を指で擦ったりした。コートの感触を確かめる度に「うわあ、気持ち悪い」と感想を漏らしていたが、やはりそうなのだろうか。


 ナチは、気持ち良いと思う絶妙な肌触りだと思うのだが。


「元々、こういう服?」


「いや、元々は黒かった、はず」


 ネルが目を見開く。持っていたナチのコートを、細かく見つめ直す。


「白いよ?」


「お兄さん、見せてあげた方が早いよ」


 そうだね、と呟きながら、ナチは店頭に置かれた赤色の布を一枚拝借すると、それを右手の人差し指と中指で挟んだ。


 それをネルにも見える様に前に突き出しながら、霊力を放出する。


 赤色を有していた布が、一瞬で白く変色していく。布に広がっていく皺が全体に広がった時、符は完成する。


「何、それ?」


 当然の疑問を口にしたネルに、ナチは符術について大まかに説明する。それから、マオとの戦闘でコートが符に変換され、白く変色した事も。


 全てを聞いたネルは、なるほどね、と口にしながら、しきりに首を縦に頷かせた。


「それでこんなに白くなっちゃった訳かあ」


 ナチにコートを返しながら言うと、ネルは店頭に置いた赤い布を胸に抱える。


「でも、面白い能力だね。物を武器に変えるなんて」


「そうかな?」


「うん、面白いよ。剣を武器にしてる人なら見たことあるけど、布とか葉っぱを武器にしてる人なんて見たことないもん」


 そう言ってネルは、作業場と思われる奥の部屋へと歩いて行ってしまい、奥で座って作業をしていた老齢の女性へと、笑顔で赤い布を渡していた。


「お兄さん、何かデレッとしてない?」


 何故か不機嫌のマオに、ナチは僅かに首を傾げた。


「してない、と思うけど。してるかな?」


「してる」


 脇腹をマオに抓られ、小さな呻き声が漏れる。


「何でそんな怒ってるの?」


「怒ってないし」


「怒ってるじゃん」


 そっぽを向いてしまったマオは、それ以上は何も言ってこなかった。解放された脇腹を擦りながら、ナチは作業場からネルと一人の女性がこちらへと歩いているのを見た。


 ナチはマオの左腕を肘で小突き、ネル達の接近を知らせる。


「マオ、ナチ。紹介するね、こちらシロメリアさん。このシロメリアの仕立屋の店長さん」


 ネルの横に立つ穏やかな瞳をした女性は、優美な挙動で頭を深く下げた。


「初めまして、シロメリアと申します」


「初めまして、ナチです」


「マオです」


 シロメリアにつられて二人も深く頭を下げた。それを見て、シロメリアが穏やかに相好を崩した。


 笑うと顔に浮かび上がる深い皺が、彼女が抱えて来た苦労を物語るかの様だった。


 ナチが店内を見回していると、不意にシロメリアと視線が重なった。


 暗い紫色の双眸は穏やかにナチを見据え、白く染まった髪は綺麗に纏められ、後頭部に髪留めで括り付けられている。


 ネルと同じ藍色のエプロンを身に着けているが、彼女の物はネルよりも遥かに年季が入っていた。


 顔に深く刻まれた皺のせいで気付きにくいが、彼女の顔立ちはかなり整っている。若かりし頃は、かなりの美人だったのではないだろうか。


 そのせいか、ナチはシロメリアと視線が合った瞬間、反射的に視線を逸らした。


「お二人は、ブラスブルックには何をしに?」


「僕達、人を探していまして。その為に、ブラスブルックに立ち寄ったんです」


 ネルとシロメリアが、心配そうに顔を見合わせる。そして、その面持ちのまま、ナチとマオを見た。


「どんな人?」


 ネルの問いに答えたのは、苦笑しているマオだ。


「サリスだよ」


「え? サリス?」


 ネルの表情に浮かぶのは予想通り驚愕。シロメリアはその理由に気付かず、ネルに体を向ける。どうしたのですか? と聞いたシロメリアに、ネルは笑顔を浮かべる事で動揺を誤魔化そうとしたが、既に遅い。


 ハッキリと浮かべた動揺と驚愕は、シロメリアに見られてしまっている。


「サリスというのは、誰なのですか?」


 ナチはサリスについての情報を、シロメリアとネルに伝えた。ウォルフ・サリのリーダーである事や、失踪した事に関して、大雑把に説明。サリスがマオを殺そうとしている事や、世界樹関連の情報に関しては、ナチの判断で説明を省いた。


「そう、ですか。突然、行方不明になられてしまったと」


 重々しい空気が、店内に満たされていく。それを払う様に、ナチは努めて明るく言った。


「そんなに深刻な事じゃないんですよ。少し子供の帰りが遅いから心配になっている親心、みたいな感じですから」


「今度、街の皆にも聞いてみるよ」


「そうね。私からも聞いてみます」


「ありがとうございます」


 ナチとマオは二人に恭しく頭を下げた。


「水臭いよ、二人共。私だってウォルフ・サリの一員なんだから、協力するのは当たり前だよ」


 ネルがナチとマオの肩を叩き、そっと頭を上げさせた。


 二人は顔を上げ、ありがとう、とナチは呟いた。


「二人は、今日の宿はもう決めてあるの?」


「いや、まだだよ」


「それなら、ここに泊まってはいかがですか?」


「いいんですか?」


 実はそれを期待していたのだが、それを悟らせない様にナチは言った。


「構わないですよ。二階に空き部屋もありますから」


「なら、お言葉に甘えて」


「実はそれを期待してたでしょ?」


 ええ、まあ、とナチは苦笑しながら、襟足を触る。ネルには見抜かれていた様だ。意外と図々しいねえ、とからかう様な口調で肩を叩かれたナチは、苦笑をさらに強めた。


 ナチ達がブラスブルックに来た理由も、実はそこら辺にある。宿に泊まれば、当然お金を支払わなければならない。多少の路銀をシャミアから貰ってはいるが、それも無限ではなく、連日宿に泊まるというのは、正直避けたい。


 それに、サリスの行方を探りながら、世界を救う方法を探すという途方も無い事をしなければならない。


 何日街に滞在しなくてはいけないか分からない以上、宿代はいくら有っても足りない。


 そこで、マオが各地に点在しているウォルフ・サリのメンバーを頼ろうと言い出したのだ。宿を無料で貸してくれるかもしれない、と。


 マオの提案を拒む理由は特に無かった為、ナチはそれに乗っかり、ウォルケンに送られて来ていた手紙を漁った。


 全員の住所を把握した結果、ウォルケンから最も近かったのがネルが滞在するブラスブルックだった為、ナチ達はこの街へと足を運んだのだ。


 そう。最初から、無料宿を目指してブラスブルックに来たと言っても過言ではないのだ。


 それから、四人は談笑混じりに時間を潰すと、話題はブラスブルックの中央に生える大樹の話になった。


「ナチ達もブラスブルックに来たなら、大樹は一回近くで見た方が良いよ。何か力貰える気がするから」


「何か胡散臭いよ?」


「本当だって。何なら、今から見に行っておいでよ。日が暮れるまでまだ時間があるし」


 確かに今は昼下がり。日が暮れるまで後、数時間はある。このまま店の中に居た所でナチ達に出来る事は、ありはしない。あるとしても、掃除くらいだ。それは二人の仕事が終わった後に、纏めてやってしまった方が良いだろう。


 ナチがマオに視線を送ると、どっちでもいいよ、と言わんばかりの微妙な笑みを彼女は浮かべた。


 ナチはうーん、と顎に手を当てながら考え、そしてすぐに結論を出した。


「行ってくるよ。初めて来た街だし、観光がてら」


「うん。行ってらっしゃい。マオも楽しんでおいで」


「うん、行ってくる」


 ナチとマオは二人に別れを告げてから、外へと出た。

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