第23話 書庫へ
空は済んだ青色を一面に広げ、そこに浮かぶ雲が青一色のパレットに白色を乗せる。流れる白雲と共存する陽光が燦然と輝き、その眩しさにナチは思わず目を細めた。
仕立屋の前の路地を、大樹に向かって進んでいく。時折、商店や露店に顔を出しながら、売られている商品を物色する。見るだけで何かを買う訳ではなかったが、これはこれで楽しいと思えた。
「……探してる人がサリスだって言わない方が良かったかな?」
露店に並べられた緑色の石を加工し、そこに紐を括り付けただけの簡素な首飾りを見ながら言ったマオの表情は、どこか暗い。
先程、店内の空気が重々しくなった事を気にしているのだろう。
「遅かれ早かれ、ネルには聞くつもりだったんだ。大丈夫だよ」
「……うん」
「同情を誘った程度で、街の人の協力を得らえるならそれに越したことは無いし」
「うわあ……最低だね」
少しだけ、表情に明るさが戻ったマオは首飾りを棚に戻した。
「それに、僕達が闇雲にサリスの情報を聞き回るよりも、この街に住んでる二人が情報を集めた方が街の人も答えてくれると思うんだ」
「そう、なの?」
再び大樹に向かって歩き出したマオが首を傾げた。ナチはマオの横で首を縦に振る。
「余程、変な事を聞かなければ答えてはくれると思うけど、余所者が聞くのと顔見知りが聞くのとではやっぱり信頼の厚さが違うよ。答えてくれる情報に少し差が出ると思う」
ブラスブルックに来たばかりのナチには何とも言えないが、この街がもし強固な排他主義の上に成り立っていれば、ナチとシロメリア。同じ質問をしたとしても、差が出る。
それが些細な差であっても、その些細な情報が重要かどうか判別できるのは現状、ナチとマオだけだ。
今は、どんな些細な情報でも欲しい。それが、信憑性の低い噂話程度であっても。それが、現実味の無い空想染みた妄想であっても。
シロメリア達が聞く事によって、それが開示されるのであれば、ナチは幾らでも頭を下げる。その覚悟は出来ている。
「それだと、私達に出来る事って無いのかな?」
「そんな事は無いよ。二人は普段働いてるから、動ける時間は限られてる。だから、基本的には僕達が情報収集しなくちゃいけない。当たり前の事なんだけどね」
ネルもウォルフ・サリの身内とはいえ、サリスを追っている理由は完全に世界樹関連。ウォルフ・サリは全くの無関係と言って良い。
ナチ達の事情で動いている以上は、本当はナチ達だけで動かなければならないのだが、ナチ達だけでは世界を救うには力不足というのが現状。
頼りたくはないが、頼らざるを得ないのだ。
「聞き込みはするとして、他にはどこで情報集めするの?」
「そこなんだよね……。何か良い案無い?」
呆れ混じりの溜息をマオは漏らした。
「考えてなかったの? 呆れた」
「そういうからにはマオも良い案があるんだよね?」
「あると思う?」
「無いと思う」
二人は同時に溜息を吐いた。
これが世界を救おうとしている男と、世界を救う可能性を持った少女なのだから、溜息の質がより濃くなる。こんな事で世界を救えるのだろうか、と少し不安になるが、ナチの不安を解消してくれる都合の良い案は浮かんでこない。
ナチとマオは精神安定もかねて大樹の下まで歩を進めた。
傘の様に伸びる枝葉を見て、ナチは小さく息を吐いた。口は半開きのまま、視線を遥か上空へと向け、穏やかな風に揺れる梢を観察。
数える事すら躊躇う程の無数の梢が、風に揺れる度に騒音レベルの葉擦れを起こす。
だが、街に下りる頃には騒音も減衰し、心地良いと感じる音量にまで下がる。
その音に耳を傾けながら、ナチは大樹の極太の幹に手で触れた。
ヤスリで擦って整えたのか、と思う程に滑らかな肌触り。それは加工された一級品の一枚板に触れている気にさせる。
ナチが両手を広げた程度では到底収まりきらない幹の壮大さに、ナチは苦笑する。幾重にも巻き付いた蔓も、壮大さを助長させる一因になっており、苦笑を強める要因になっていた。
鼻を通る木と緑の香りが、先程まで抱えていた不安を微かに和らげる。胸に宿る焦燥感が拭い切れることは無いが、それでも少しだけ気が楽になった。
おそらく、この焦燥感が消える事は、世界を救う時まで訪れないのだろう。
訪れなくても良い、とも思っていた。焦燥感を抱くと同時に、僅かばかりの緊張感も常に持ち合わせる事になる。
無数の異世界が失われるかもしれない恐怖。これらは常に、持ち続けていたい。焦燥感、緊張感、恐怖。これらはナチを、いつ如何なる時も現実と向き合わせてくれる材料になる。
ナチをナキに近付けてくれる起爆剤にもなり得るから。
ナチは幹から手を離すと、大樹に背を向けた。そのままシロメリアの仕立屋に戻ろうと歩き出そうとした時、ナチ達の前を一つの荷馬車が通り過ぎようとしていた。
馬に繋がれた木造の車には車輪が四つ取り付けられており、馬が前進する度にそれはゆっくりと回転した。木造の車を覆う薄汚れた白色の布は所々破れており、風に煽られる度に積荷がチラチラと見え隠れする。
御者台に座っている中年の男性はナチが急に動き出した事に驚き、馬を停止させようと手綱を振ろうと腕を上げた。だが、ナチが立ち止まった姿を見て手綱を静かに下ろした。
ナチは眼前に迫った荷馬車の御者と目を合わす。
「悪いな、兄ちゃん」
「いえ、こちらこそすみません」
笑顔を浮かべる御者にナチは深く頭を下げた。そんなやり取りを交えながら、通過していく荷馬車。その後ろ姿を眺めながら、ナチは荷馬車に積まれた積み荷に視線を向けた。
積荷に積まれているのは本だ。それも大量の。
それから、大量の本を積んだ荷馬車は、大樹から少し離れた場所に建つ焦げ茶色の四角い建物の前で停止した。その縦長に伸びた茶色の建造物には窓が一つも設置されておらず、外から見ただけでは茶色の建造物が何なのか判別する事は出来なかった。
御者が御者台から飛び降り、四角い建物の扉へと近付いていく。そして、中へと入っていった。
「危なかったね、お兄さん。でも、ちゃんと周りを確認しなかったお兄さんが悪い」
「返す言葉もありません」
子供を嗜める様な口調で言ったマオには視線を向けず、路地にて待ちぼうけを食らっている荷馬車へと近付いて行った。
「お兄さん、泥棒は駄目だよ」
ナチの背後でマオが小声で、けれども強い口調で言った。
「しないよ、そんな事」
なあんだ、つまんないの、と落胆するマオに苦笑しながら、ナチは荷馬車に向かって真っ直ぐに歩いて行く。
本を大量に積んだ荷馬車が、その積荷を下ろす場所。それは本を大量に買い取ってくれる場所。もしくは、本を廃棄してくれる場所だ。
もし、廃棄するという事になれば、本は焼却処分になるはず。本は可燃物だ。燃やして灰にしてから廃棄するはず。だが、茶色の建造物に煙突の様な突起物は見当たらない。
換気が十分に出来ない建物内で、大量の本を焼却処分にするとは到底思えない。
おそらく、あの茶色い建物は本を大量に購入し、保管している場所。図書館、書庫と言われる建築物の可能性が高い。
ナチは荷馬車を一瞥すると、進行方向を変更。荷馬車から茶色の建築物へ。
「ここって何なのかな?」
「行けば分かるよ」
木で作られた簡素な扉に手を掛けると、物音を立て無い様に手前に引いた。躊躇する事なくナチが先に入ると、マオもその後に続いた。
建物内は外部からの灯りを完全に遮断し、蝋燭の火だけが唯一の光源になっているせいか、全体的に陰鬱な雰囲気が漂っていた。
目の前には木で作られた棚が間隔を開けて三列に並んでおり、その全てに本が収納され、奥に向かってずらりと並んでいた。ナチは入り口から一番奥を覗こうとしたが、薄暗いせいもあってか、肉眼では捉える事が出来なかった。
だが、間違いない。ここは書庫だ。
ナチが右へと視線を傾けると、先程の御者と、書庫で働いている司書と思われる男性が談笑混じりに何かを話していた。
二人はナチとマオに気付くと、御者は気さくな笑みを。司書の男性は営業スマイルを浮かべた。
「さっきの兄ちゃんじゃねえか。ここに本でも読みに来たのか?」
「はい、そのつもりです。ここは書庫で大丈夫ですか?」
司書の男性は、首を縦に頷かせた。
「はい。書庫と思っていただいて構いません。特に入館料なども頂いておりませんので、ごゆっくりどうぞ」
機械的な口調で話す司書にナチは軽く頭を下げる。それに倣ってマオも頭を下げた。
「兄ちゃん、今日は新刊も持ってきてるからな。興味があったら読みな」
「ぜひ、読ませてもらいますね」
おう、と力強く返事をした御者にナチとマオは笑顔を浮かべ、一番右側の棚へと移動すると、奥に向かって足を進めた。
色取り取りの本が並ぶ、書庫。本の高さも均一に並べられた大量の本達は、埃を被る事無く綺麗に陳列している。
この仕事に対する真摯な姿勢が感じさせられる整頓具合だった。
「お兄さん、ここで何するの?」
「情報収集、かな」
「本なんか読んでサリスの情報なんて集まるの?」
「本を馬鹿にしちゃだめだよ。本を読めば知識も広がるし、想像力も豊かになる。それに、本を読む事で他人の心に少しだけ触れる事が出来る」
「ふーん」
興味の無さそうな相槌が背中から聞こえてくる。全く興味を持ってもらえなかった様だ。
それから、マオが本に興味を持ってくれそうな話題を考える。マオがおそらく求めているのはサリスを助ける為の力。肉体的、精神的な強さ。そして、能力、技の精度。
ナチが思いつくマオが欲していると思われる知識や経験は、こんな所。恋の悩みや、年頃の少女が抱える悩みに関しては、残念ながらナチが知識や経験を持ち合わせていない事から、答えてやる事は出来ない。
ナチは少し考えた後に、口火を切った。
「マオは氷を作る時、どんな事を想像する?」
「んー、剣とか槍とか自分が作りたい形を頭に浮かべる、かな。あんまり、考えずに作っちゃうこともあるけど」
「それでも、氷を作り出す時には簡単な形でも想像力を働かせるでしょ?」
首だけを動かしマオを見ると、腕を組みながら斜め右上を見て難しい顔で、彼女は答えを探っていた。
「……多分」
「本を読む事で知識が増えて、想像力が豊かになれば、簡単に難しい形の氷を作れる様になる」
マオが見るからに目を輝かせた。意外と単純だな、と思いながらナチは言葉を付け足す。
「かもしれない」
「そこは言い切ってよ」
「だって、実際分からないし。僕は、あんまり氷を複雑に作ろうと思った事ないから」
「じゃあ、特訓だね。私と」
少し勝ち誇った様な顔をナチに向けているマオに、ナチは苦笑を漏らす。
「僕がマオに教わるの?」
「うん。私の方が氷を作る事に関しては先輩でしょ? 私の方が氷先輩なんだよ」
「初めて聞いたよ、その上下関係」
「じゃあ、特訓は明日ね。遅刻しない様に」
「一緒に行動するのに、遅刻も何もないと思うんだけど」
「いいの。こういうのはノリが大事なの」
そう言ってマオがナチの背中を軽く叩いた。静寂に包まれた書庫内に乾いた音が響き渡る。
ナチ達の他に客は居ないみたいだが、それでもあまり騒ぎ立てるのはまずいだろう。ナチは口元に手を当て、マオにしー、と子供にする様な動きを見せると、マオは首を傾げた。
「お兄さん、何してるの?」
「察して」
自分でやってから、とても恥ずかしくなった。顔が熱くなり、それを隠す為にナチは前を向き、奥へと進んだ。
やるんじゃなかった、と頬を掻く。揺れる蝋燭の火は、ナチの心を表しているかの様でどこか腹立たしい。勝手に自分の心を表現するな、と言ってやりたいが、勝手にそう感じているだけなので行動には移さない。
奥へとたどり着くと、そこは一面壁だった。濃い赤色の煉瓦が張られた壁があるだけで、特に変わった装飾は見られない。
もしかしたら、奥には貴重な文献や自伝、本自体に力が備わった魔本の様な物が存在するのではないか、と少し期待していたが、そんな事は無かった。やや落胆の色を表情に灯しながら、ナチは本棚に目をやった。
相変わらず綺麗な配列で並べられた本。八段もある本棚の五段目。ナチが最も手で取り易い五段目から、ナチは鮮やかな緑色のまだ真新しい本を手に取った。
ぺらぺらと数枚めくると、紙にびっしりと書かれた横書きで連ねられた文字を見て、ナチは思い出したかの様に、息を口から漏らした。
ああ、そうだった。ここは異世界だ。ナチが生まれた故郷でも無ければ、ナチが今までに行った事がある異世界でもない。
ナチは、この世界の文字を知らない。だから、読めない。当然、書く事も出来ない。忘れがちになるが、ナキがナチの耳と口に施した「言語解析」と「言語変換」のおかげで、知らない言語を聞く事と話す事は出来るが、それだけだ。
それだけでも十分に助けられてきたのだが、今求めているのはこの世界の文字や文法を解析する術、もしくはその方法。一瞬、文字を覚えるという事も脳裏に過ったが、今から覚えていたのでは間に合わない。
ナキが居れば読み書きも可能だが、ナチの横に彼女は居ない。
文字を覚えるのは頭から抹消し、ナチは本を戻した。
「読まないの?」
「うん。この世界の文字が読めない事を忘れてた」
「そういう事……」
マオは申し訳なさそうに顔を引き攣らせた。その後に、ナチに気を遣ったのか固い笑顔を浮かべ、本を一冊手に取った。
「ええと、なら、私が読んであげるよ。一応、文字の読み書きは出来るし」
マオの提案にナチは笑顔を浮かべ、首を縦に振った。
「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな」
「うん、任せて」
一度、大袈裟に口元に本を当てて咳払いすると、マオは笑顔でその本を開いた。一応、周りを気にしてか、ナチだけに聞こえる様な音量でマオは読み聞かせを開始する。
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