第19話 黒鍵
マオは青い雷光を放出しているサリスを尻目に、ナチへと駆け寄った。傷だらけのナチを見て、笑顔を引っ込め真顔になったマオに、ナチは穏やかな笑顔を向けた。
「無事で良かったよ」
「でも、お兄さんが」
「大丈夫。こんなの何でもないよ」
「こんなに傷だらけで大丈夫な訳ないよ」
泣きそうな表情で震えた声を出すマオを見て、ナチは少しの驚きと嬉しさを胸に抱きながら、マオの透き通る秋空の様な青い瞳に視線を合わせた。
そして、努めて優しい口調で言った。
「マオ。大丈夫。僕は死なないよ」
マオがナチから視線を逸らしながら、首を縦に頷かせた。
「お兄さん、あれは?」
マオが指差したのは、サリスだ。雷をその身に受けている狼男。マオがサリスを認識できないという事は、マオはサリスの能力を知らないのかもしれない。
「あれは、サリスだよ」
「サリス? あれが?」
ナチはマオにサリスの能力について説明する。ついでに、サリスがラミルを殺した事も伝えた。
サリスがラミルを殺害した事に関しては、納得したマオ。だが、腑に落ちない所があるらしく、可愛らしく首を傾げる。
「どうして、お兄さんとサリスが戦ってるの?」
ナチは言葉に詰まった。どう伝えるのが正解なのだろうか。サリスが狙っていたのは、マオだ。これは間違いない。
世界を救う可能性がある存在として、世界樹の命令で殺そうとしていた、などと伝えてもマオに理解できるとは思えない。
だが、サリスがこれからもマオを狙う以上は、ここで真実を伏せたとしても、いずれ本人の耳に届く。
サリスがマオを殺そうとした事実は隠し通せるものでは無く、ここで下手な嘘を吐いてマオが真実に気付いた時、傷付くのはマオだ。
ならば、伝えるべきだ。
「サリスは僕達を殺そうとした。だから」
「嘘だ……」
ナチが最後まで言葉を言い切る前に、マオが言葉を挟んだ。マオの表情に明らかに浮かぶ動揺、落胆。歪な笑顔を浮かべるマオにナチは、言葉を失った。掛ける言葉を見失う。
彼女を笑顔に戻す方法を、ナチは完全に見失った。
「そんなの嘘だよ。サリスが私を殺そうとするなんて」
「でも、事実なんだ」
「嘘だよ。だって、サリスは仲間で……家族なんだから……」
揺れる瞳が悲痛を帯びて、マオは縋る様にサリスを見る。サリスに向かって歩いて行きそうになったマオの右手を慌てて掴み、引き寄せる。
マオの体勢が崩れたそのタイミングで、「雷」を込めた符が役目を終える。放電が止まり、毛皮を電熱で焦がすサリスは地面に背中から倒れた。
ドン、と音を立てて倒れたサリスの肉体が元の人間の体に戻って行く。
体内に電気が残っているのか、体を小刻みに痙攣させているサリスに迫ろうとするマオを、ナチは両手を使用しマオを止める事に尽力する。
それでも、マオはナチの腕を振り解こうと腕を頻りに動かす。逼迫した状況が、ナチの心に焦りを募らせる。
「離して。離してお兄さん」
「駄目だ。近付けば殺される。サリスはもう敵なんだ」
「敵じゃない! サリスは私の大事な家族なんだよ」
悲痛を帯びていた表情に悲哀が加わる。
「それでも今は駄目だ。今のサリスは危険なんだよ」
頼むから聞き分けてくれ、と祈りながら、落ちた腕力でマオの腕を必死に掴む。
「危険じゃない! だってサリスは」
マオが言葉を途中で切った。彼女が何を言いかけたのかは分からない。でも、マオが突然黙った理由は理解した。
マオが熱い視線を送る方向へ、ナチも視線を注ぐ。
「サリス……」
サリスが立ち上がっていた。焼け焦げた皮膚。虚ろな瞳が映しているのは、抉れた床か、それとも落下していく自身の血液か。
「サリス!」
マオの声に反応して、サリスの視線がゆっくりとマオとナチを射抜く。
まだ闘気を残した瞳に、ナチは息を呑んだ。まだ戦えるというのか、この男は。
「サリス。答えて」
サリスが真っ直ぐにマオだけを見た。もう仲間意識や、家族愛に溢れていたサリスの瞳ではない。
あれは、獲物を捉えた時の狼の目だ。
「サリスが私を殺そうとしたなんて、嘘だよね?」
サリスの口元が歪む。マオを見る視線に憐れみが混じる。
「だって、私達は家族で」
サリスの瞳がナチへと向く。ハッキリと視線が重なる。
「悲しいなあ、ナチ? お前が命を懸けて守ろうとした娘は、お前の言葉を一つも信用しない」
ナチは何も言わなかった。マオの視線がナチへと向けられた事に気付いていながらも、そちらに目を向ける事もしなかった。
「お前が守った娘は、お前よりも俺を信用する様だ」
奥歯を噛み締める。瞳に怒気が孕む。それでも、真っ直ぐにサリスを見た。
「マオ。俺はナチを殺すつもりは無かった。俺が殺そうとしたのはナチじゃない」
「やめろ」
「俺が殺そうとしたのはマオ。お前だけだ」
サリスが憐れな道化を見る様に、マオを見た。ナチは孕んだ怒気が殻を破るかの様に息を荒くする。
「サリスが私を……殺す……?」
力無く視線が伏せられたマオに、サリスが追い打ちを掛ける。
「お前には死んでもらう」
「させないさ」
ナチは符を数枚握った。剣を持たず能力も解除されたサリスならば、弱ったナチでも、まだ希望はある。
「その娘の為に人生を棒に振ろうと言うのか? お前は」
「そんなつもりはない」
ナチは全ての符に「大気」の属性を付加。
「マオの事も、僕自身も、僕が守り抜いて見せる」
ナチは符を投げ飛ばした。サリスの眼前に迫ろうとする符に、霊力を流す為に、左手の人差し指と中指を立てる。
「甘いな、お前は」
優しく紡がれた言葉に、ナチは見張った。その言葉に、では無く、その言葉の後に起きた現象に。
サリスの足下から溢れ出す黒い何か。闇にも影にも見えるそれは、触手の様に蠢き、サリスを包んだ。
符は黒い触手の様な何かが打ち砕き、闇に呑まれた。
そして、黒い何かから解放されたサリスは、左手に黒い剣を手にして、再び姿を現した。
その左手に目を凝らす。眼球が焼き切れるかの様な熱量を以って黒い剣を見た。
黒一色に染まる剣。全てが黒い剣の柄。そこに浮かぶのは、文字だ。金色に象られた文字をナチは知っている。それは、梵字。
ナチは、椅子から立ち上がろうとして失敗し、再び椅子に尻餅をついた。
「どうして……それを持ってる」
鍵だ。
サリスが手に持っているのは鍵だ。元々は、銀色の刀身を宿し、白の監獄を脱出する際に、銀を失ったそれを、見間違うはずがない。
「世界樹に与えられただけだ」
「ナキは? ナキはどうした?」
「知らんな」
「嘘を吐くな! その鍵はナキそのもののはずだ。知らないはずがないだろ!」
サリスは鍵の切っ先をナチへと向ける。
「世界は毒されている」
ナチは符を一枚投げ飛ばした。何の属性を付加したのか分からない。それでも、力任せに符を投げ飛ばした。
「関係無い事を口にするな!」
サリスに真っ直ぐに向かって行った符は、いとも簡単に鍵によって切り伏せられ、サリスの足下に無残にも落下した。
「知りたければ、旅をする事だ」
サリスが鍵の切っ先を床に向け、それを床に落とすと、鍵は床に吸い込まれる様に姿が見えなくなった。
鍵が視認できなくなった途端に、サリスの足下から再び出現する黒い何か。それがサリスの体を包み、全てを覆い尽くす前に、サリスはナチを一瞥した。
「世界を救う事はお前には出来ない」
サリスを包んだ黒い何かは、水風船が弾ける様に周囲に拡散され、黒い粒子を教会内に雪の様に降り注いだ。
ゆっくりと、舞い落ちる黒い雪の先にサリスの姿は無い。
教会内部のどこを探しても、サリスの姿は見えなくなっていた。
鍵の力でどこかに飛んだのかもしれない。
ナチは大きく息を吐きながら、長椅子の背もたれに腰を預けた。木の固い感触が背中に伝わり、少し体が痛むが、あまり気にする事無く、ナチは深く背中を押し付けた。
ほっと息を吐くナチの横に、マオは少し距離を空けて座った。
「……お兄さん、ごめんなさい」
ナチは視線だけを動かし、悲痛の色を滲ませながら呟いたマオを見た。
「お兄さんは、私を守ろうとしたくれたのに。お兄さんの言葉を私は」
「少し傷付いたかな」
「……ごめん、なさい」
本当に落ち込んでいるマオを見て、ナチはマオの左腕を軽く小突いた。
「嘘だよ。嘘じゃないけど、もう気にしてない」
「本当に?」
「本当だよ」
ナチは微笑みながら、視線を自分の右手に移した。サリスの爪に抉られた右腕。肘より少し手首側に開いた大きな穴から流れる微量の血液。
「世界樹とか世界を救うとか言ってたけど、あれってどういう意味なの?」
「聞きたい?」
マオは首を縦に頷かせた。
ナチはマオに体を向けると、世界樹と世界の関係。無数の異世界が陥っている状況。ナチがこの世界に来た理由。それらを分かり易い言葉で説明した。
マオは、所々顔を顰めていたが、適度に質問をナチにぶつけながら、最後には納得したように顔を頷かせていた。
「何かスケールが大きすぎて、現実味が無いというか……」
「僕だってそうだよ。けど、現実味が無くても世界は終わりに向かって、着々と進んでいるんだ」
「お兄さんは世界を救う為に、この世界に来たんだよね?」
「うん」
「この街にずっといて大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない、ね。この街で世界を救う手掛かりを調べるつもりではいるけど」
「見つからなかったら?」
「他の街に向かおうと思う。悩んでる暇はないんだ。手掛かりが無いと分かった時点で、行動しないと」
「そっか。じゃあ、寂しくなるね」
「何言ってるの? マオも付いて来るんだよ?」
「え?」
「え?」
二人の視線が重なり、マオがナチから視線を外す。
「何で?」
「マオに世界を救える可能性がある以上、常にサリスから命を狙われる。それなら、僕の側に居た方が安全でしょ?」
「安全って……。確かにそうかもしれないけど」
「それに側に居てくれた方が僕も守りやすいし」
「守る……」
視線がナチから外れ、外れた視線は足下に注がれる。次第にマオの頬が赤く染まり、その赤は耳まで広がっていき、やがて全身を覆い尽くした。
そして、マオはナチに表情を悟らせない為なのか、ナチとは反対方向に顔を向けた。
「なら、しっかり私を守ってね。約束だよ?」
マオは右手をナチに差し出すと、小指を突き立てた。ナチはその小指に左手の小指を絡めた。所謂、指切りというやつだ。
マオの細い小指をしっかりと小指で握る。
「約束する。僕が守るよ」
「うん、任せた」
二人は長い間絡めていた小指を離し、お互いの手を椅子の上に置いた。蝋燭の火が二人の門出を祝福する様に、一度大きく揺らめき、溶けた蝋を燭台の上に垂らした。
限界だ。
張っていた気が解れていき、ナチの意識を急激に暗い場所へと連れて行こうとする。意識を混濁させる睡魔に打ち勝とうという気概も無く、ナチは左側へと体を倒した。
「お兄さん?」
驚きを込めたマオの言葉を聞きながら、ナチはマオの膝に顔を埋めた。悪臭続きだった鼻に、マオから発せられる甘い匂いが鼻を埋め尽くす。
瞼がゆっくりと落ちる。
マオがナチの髪に触れた。手から伝わる体温が、サリスとの戦闘で荒立っていた精神にようやく平穏を運んでくれる。
「お疲れ、お兄さん」
ナチは静かに瞼を下ろした。
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