第18話 人狼

 狼男。魔法が栄えた世界で数度と見たそれと今のサリスは酷似している。


 狼と人間。その両方の特徴を併せ持つ獣人は、ある世界では怪物として、ある世界ではごくありふれた人種として受け入れられていた。


 そして、どの世界でも共通していたことは、狼男は人よりも遥かに優れた身体能力や五感を持ち、人間から恐れられる存在だったという事。


 目の前に佇む人狼は果たしてどうなのか。


 ナチは静かに息を呑んだ。


「行くぞ?」


 ナチは無言で符を構えた。属性も込める。


 ナチが符を投げ飛ばそうとしたその瞬間、サリスの姿が掻き消えた。


 符を向ける対象を見失う。サリスの姿を目で追い掛けるが、完全に視界からサリスを見失った。


 常軌を逸した機動力を持つサリスに今持っている符では駄目だ、とナチが新たな符を取り出そうした時、ナチは気が付けば上空を見上げていた。


 顎に感じる鈍痛。ナチが受けたのは強烈なアッパー。サリスの接近に気付かず、無防備に受けたアッパーにナチの体は僅かに宙に浮いた。


 空気が口から大きく漏れ、それに付随する形で、唾液が盛大に宙に噴射される。唾液の雨が顔に降り注ぐ。


 顎を殴られた衝撃で意識が一瞬だけ吹き飛び、気が付けばナチは吹き飛んでいた。


 とてつもなく速い速度で宙を飛んでいき、ナチは床を転がりながら、祭壇に激突した。


 祭壇から離れた位置で戦っていたはずなのに、意識が戻った時には、手を伸ばせばマオに触れられる距離まで移動していた。


 ナチが体勢を立て直そうと、体に力を入れようとした時だった。


 既にサリルは左に立っていた。


 刹那の瞬間、目が合う。


 ナチは持っていた符を発動させ迎撃しようとしたが、右手には符が無かった。吹き飛んだ拍子に落としたのか。鈍い思考が答えを絞り出す為に躍起になる。


 ナチの視線はサリスの後ろへと向けられた。サリスの後ろでゆらゆらと舞い落ちる、一枚の符に。


 それに気付いた時、ナチはまた吹き飛んでいた。


 壁に激突し、ナチは頭から床に倒れた。頬を床に擦り付ける。腹部を蹴られたのだと気付く。


 あの鋭く巨大な黒い爪が胃を貫通したのではないか、と思う程の激痛が腹部を通じて全身に伝わってくるが、それを押さえる事すら出来ない。


 腕に力が入らないのだ。それは両足も同じ。立ち上がる事を拒んでいる。


 体が戦闘継続を拒否していた。だが、動かなければマオが死ぬ。この場でマオを助ける事が出来るのは、ナチだけなのだ。


 ナチが戦闘を放棄するという事は、マオの死に直結する。ナチが弱音を吐く事は許されない。ナチが敗北を認める事は許されない。


 ナチは歯を食いしばり、手を動かすと、一枚の符をポケットから取り出した。 


 属性を込め、床に顎を乗せる。視線を眼前に向ける。


 だが、そこでナチは固唾を飲んだ。心臓が跳ねる。それとは反対にナチの思考は急速に鈍る。眼前の事実を受け入れる事を、脳が拒む。


 ここまでの強者だったのか、この男は。


 目の前には既にサリスが立っていた。地面に這いつくばるナチを、哀れむ様な瞳で見下ろしている。


 ナチは指先から霊力を流し、込めた属性を具象化。しようとした瞬間、サリスの足がナチの右手ごと、符を踏み潰した。


 鈍い音を立てながら手の骨が軋む。爪が皮膚に食い込み、裂いた。爪が骨に触れ、骨すらも貫通しそうな勢いでサリスは足に力を入れた。


 痛い。もうすぐ右手が折れる。その予兆が音となって聞こえてくる。声を上げない様に歯を食いしばり努めているが、その代わりに大量の吐息が漏れた。


 唾液が口から零れ、床に滴り落ちる。


「世界を救おうとしている男が、この程度とは。聞いて呆れる」


 サリスが足を上げると、さっきまでナチの手を踏み潰していた足がナチの目の前に現れる。血液が毛を濡らし、爪にも赤黒い血が付着している。


 ナチが腕の痛みに悶えていると、頭を巨大な狼に似た手で鷲掴みにした。眼前にサリスが突如として現れ、視線が重なる。金色の瞳がナチを嘲る様に見た。


「世界樹から切り離された世界を救うんだろう? 符術使い?」


「君は……一体……」


 ナチは力無く、サリスの目を見た。


「お前が世界を渡り続け、白の監獄で数百年の時を何もせずに過ごした後、この世界に来た事を俺は知っているぞ」


 驚愕に見開かれるナチの瞳。それを見て、サリスは巨大な口を歪ませた。隠れていた牙が姿を現し、そこから薄い紅色の舌が覗いた。


「世界は一度滅ぶ必要がある」


 その言葉の意味を理解する前に、ナチは投げ飛ばされた。祭壇とマオが下方向に見える。そして、ラミルの死体が寝ている長椅子の一つ隣の長椅子にナチは落下。


 長椅子は落下の衝撃で折れ、折れた木材と一緒にナチは床へと二度目の落下を果たした。


「がっ……かはっ」


 ナチは背中を強く打ち付けた影響か、激しく咳き込んだ。唾液が口から零れ、それを床に吐いた。唾液に混ざった血液を見て、ナチは笑顔を浮かべた。


 この状況で笑顔を浮かべている自分が信じられない。どうして、笑顔を浮かべているのかも分からない。


 絶望的な状況がとうとう理性を崩壊させてしまったのか。


 ナチはラミルの死体が乗っているはずの長椅子に手を掛け、立ち上がった。ふらふらの足を一歩踏み出そうとして、失敗。そのまま通路に転がった。


 もう一度、長椅子に掴まり、ナチは立ち上がった。今度は転ばない様に、しっかりと両手で椅子を掴む。震えている足を支える為に着いた手も、情けなく震えている。


 これでは、後どれだけの時間立っていられるか。それに右手はサリスに踏み潰され、爪で抉られたせいで握力はほとんど無いに等しい。


 足は動かず、右手は死んだ。残されたのは左手と、かろうじて動く頭だけ。


 限りなく絶望的な状況だ。この状況でどうやって希望を見出そうか。


「世界が一度滅ぶ必要があるって、誰が言ったんだ、そんな事」


 弱々しく言いながら、ナチはポケットから一枚の符を取り出した。初めてサリスにあった時に作った符を。属性も既に付加され、後は属性を具象化するだけ。


 だが、問題はこの符をどう当てるかだ。今のナチに機動力は無い。投擲する腕力も無い。今のナチは何かを支えにしなければ立つこともままならないのだ。


 この場から動かずに、常識から外れた機動力を持つサリスに攻撃を当てる方法。


 サリスが攻撃に着た瞬間を当てるしかない。それがナチのラストチャンス。失敗すれば間違いなく死ぬ。


「もちろん、俺だけの意見ではない」


「それは……誰?」


「世界樹」


 ナチは首を傾る。


 世界樹に意思があった事に驚きだが、世界を滅ぼそうとしている存在が二つ。ナキと世界樹。どういう事だ。


 世界樹が世界を滅ぼそうとしているのなら、何故ナキは異世界を切り離した。ナキが直接手を下さなくても、世界は滅ぶ運命にあったという事ではないか。


 それに世界を二つも残した理由。


 分からない。どうなっている。どういう事なんだ。


「世界樹が……世界を滅ぼそうとしているって事?」


「その通りだ。だから、世界を救う可能性を持つ存在は殺さなければならない」


 やはり、世界樹は世界を滅ぼそうとしているのか。サリスが言い放つ全てを無条件に信用していいのか。


 だが、もしサリスの言っている事が本当ならば、マオは世界を救う可能性を持つ存在という事になる。消滅の危機に瀕した世界を救う希望の光。それがマオだというのならば、彼女が殺されるのを黙って見ている訳にはいかない。


「世界を滅ぼすという事は、この世界も滅ぶという事だ。それでもいいの?」


「何度も言わせるな。世界は一度滅ぶべきだ」


「悪いけど、何度言われようが僕は世界を救う。その意見を曲げるつもりはない」


「お前は、世界を滅ぼす上で最大の障害になる。ここで死んでもらうぞ?」


「こっちの台詞だよ」


 サリスは世界を救う上で最大の障害になる可能性が高い。ここで殺しておく必要がある。


「悪いけど、ここで死んでもらうよ?」


 虚勢を張る。まだ残された力があるのだとサリスに信じ込ませるように、ナチは顔に笑顔をこびり付かせる。


 一度だけ、祭壇前で眠るマオに視線を送る。これだけ騒々しく戦闘を行っていても静かに綺麗な顔で眠っている彼女を見て、ナチは少しだけ肩の荷が下りた気がした。


 この状況で眠っていられる緊張感の欠片も無い眠り姫を見て、ナチは全身に張り巡らせていた無駄な力みを、大きく吐いた息と共に解放する。


「強がるのも大概にしろ」


 ナチとサリスは同時に口を開いた。


「死ぬのはお前だ」


「死ぬのはお前だ」


 そして、ナチにとって最後の反撃が始まる。


 ナチは息を吐いた。


 目の前に立っていたはずのサリスの姿が消える。霊力を指先から放出開始。


 突如、眼前に姿を現したサリスの左腕がナチの頭を狙う。


 サリスが左腕を撃ち出す少し前に、ナチは体を支える為に椅子を掴んでいた両手を離した。ナチの予想通りに膝が折れる。視界が徐々に低くなっていく。


 高速で撃ち出された左腕。命を掻き散らす黒爪。それをナチは膝を折る事で躱す。躱したなどとは到底言えない芸当で頭上を通過するサリスの腕を見つめる。


 そのままナチは倒れ、符をサリスの鳩尾に押し当てた。


 具象化する準備は整っている。符に付加された属性は「雷」。ナチが付加できる属性の内、最強の破壊力を持った自然現象。


 勝つ。この一撃に全てを懸ける。


 負けるわけにはいかないんだ。


 属性が具象化する。


 突如として、サリスの全身を覆う灰色の毛が逆立った。


 放電が始まる。青い稲妻を見に纏う灰色の狼男は背筋を伸ばし、筋肉を痙攣させ、サリスが持っていた肉体に指示を送る権利をナチが奪う。


 だが、そこで重大なミスに気付く。


 サリスとナチの距離はほぼ密着状態と言っていい。サリスの肉体から周囲を巻き込む様にして放出されている青雷が、ナチに迫る。


 妙に冷静に迫りくる青雷を見つめていた。


 肉が焦げる臭いが鼻を埋め尽くす。今日は悪臭続きで嗅覚が悲鳴の嵐だ。


 そんな下らない事を考えられるくらいには、頭は冷静だった。


 倒れてくれ、サリス。これで沈んでくれ。


 もう縋るしかない。


 ナチを数百年閉じ込めた神でも、空想上の神でも何でも良い。この戦闘において、ナチに勝利をもたらしてくれるのならば誰だっていい。


 雷を受け入れる直前、ナチは目を閉じた。


 目を閉じた瞬間だ。ナチは吹き飛んだ。背後の椅子に激突し、背もたれに背中が打ち付けられ、そのまま椅子に座り込む。


 突然の事にナチはすぐに目を開ける。


 雷の効果範囲から逃れられたのは素直に感謝するしかない。問題はその理由。どうして、ナチはサリスから離れる事が出来たのか。


 サリスでは無い事は間違いない。彼の筋肉は今、機能不全を起こしているはず。サリスにそれだけの余力は無い。


 となれば、この場に居るのは一人しかいない。


 ナチは右の袖に付着した氷片を払い落としながら、眠りから覚めた姫に視線を送る。


 オレンジ色の髪を揺らす姫は、勝ち誇った様な小生意気な笑顔を見せながら言った。


「お兄さん、貸し一つだからね」


 ナチはそれを見て、優しく頷いた。ああ、やっと笑顔が見れた、とナチは安堵の息を漏らす。

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