第16話 教会を染める赤

 商人や通行人に道を聞きながら、何とか教会へとたどり着いたナチの手には合計二十枚の符が握られていた。来る途中で地面に落ちていた葉を拾ったのだ。


 白く変色した葉には、まだ属性が付加されていない。


 それには意味が当然ある。ここは超能力の世界だ。魔法や魔術の様に複数の能力を持ち合わせている訳では無く、たった一つの能力をその身に宿している。


 という事は、ナチは超能力に合わせて有利な属性を選ぶことが出来る。


 つまり、ナチは彼等に対して基本的に優位に立てるという事だ。


 これが、ナチが様々な世界を渡り歩き身に着けた戦闘スタイル。


 符術と神秘の術を組み合わせた本来の符術とは一線を画す、ナチだけの符術。





 ナチは目の前に立つ白い建物に目を向けた。マスターの言う通り屋根には白く重厚な十字架が設置されている。手入れされていないのか、十字架は錆びついていた。


 ウォルケンの中でも少しだけ標高が高い位置に設置された教会は、百人は余裕で入れそうな敷地面積を有しており、ウォルケンの中で一番大きな建物と言えた。


 緩やかな勾配の坂道を上りながら、ナチは教会に設置された巨大な木造の扉の前に立った。


 この扉を開く事によって始まるのは、開戦か。それとも、待機か。


 ナチは大きく深呼吸した。鼓動が早くなり、体内を流れる血潮が早くなるのを感じながら、何度も深呼吸を繰り返す。


 ゆっくりと、扉のノブに手を掛ける。冷たく無機質な感触が、指先から伝わってくる。


 教会内に人が居る気配はしない。が、声を潜めているだけなのかもしれない。それはナチの不安を解消してくれる材料にはならない。


 ナチは勢いよく扉を開くと、右足を強く踏み込み、素早く内部へと進入。符に属性を込める準備をしながら、ナチは拳を構えた。


 すぐさま教会内を見渡し、敵の数を確認しようと眼球に痛みを感じる程に視線を動かす。


 だが、素早く動かしていた眼球は、徐々にゆっくりになった。


 構えていた拳も静かに下ろす。


 誰も居ない。教会内には人っ子一人いなかった。静寂が広がる無音の室内に、ナチの荒い呼吸音だけが響き渡る。


 ラミルはまだ来ていないのか。それとも、剃髪の男が言っていた情報が偽情報だったのか。


 ナチは規則的な配列で並べられた長椅子の下や、天井を見上げた。やはり、誰も居ない。


 薄暗い教会内に敷かれた木板の上を歩きながら、長椅子と長椅子の間を進んでいく。


 広い教会内の丁度真ん中辺りまで歩いて行くと、ナチは前方に何かが転がっているのが見えて、咄嗟に拳を構えた。じりじりと歩み寄っていく。


 それは白い祭壇の前に居た。蝋燭に灯された火が、転がっている何かを頼りなく照らす。


 上手い具合に、長椅子に隠れて見えないそれは、人だ。


 人が祭壇の前に力無く倒れている。符を構え、拳を構えながら、ナチは一歩ずつ祭壇へと近付いていく。


 そして、長椅子に隠れていた頭部がようやく姿を現す。


 薄いオレンジ色の髪が力無く床に着き、血に濡れた口元は天井を向いている。


 ナチは安堵の息を漏らした。相好を崩しそうになるのを必死に堪える。


 祭壇の前で倒れているのは、マオだ。


 声を上げる事無くマオへと駆け寄ると、マオから静かな寝息が聞こえて来た。生きている。一応、心音と脈も測り、命に別状が無い事を確認する。ジャケットが所々破れているが、それ以外に傷は見られない。


 暴行された様な跡も無く、シャミアやリルに比べると、マオはかなり軽傷だった。


 深く安堵の息を吐いていると、ナチは床に白い葉が落ちている事に気付き、それを拾い上げた。


 これは、ナチがマオにお守りと称して渡していた符だ。属性も込めてあったそれは効力を失い、今はただの葉っぱと変わらない。


 この符に込めてあった属性は「反射」。あらゆる物理攻撃を相手にそのまま跳ね返す単発の鉄壁の盾。


 鍵が有していた、あらゆる物理現象を無効化する能力を参考にして作り上げた属性。


 霊力を大量に消費する為、大量には作れないが一対一の対人戦ならば、絶大な効果を発揮する属性だ。


 ナチがマスターと会話をしている時に、この符を発動し、既に効力を失っているという事は誰かがマオを攻撃した事になるが、最もマオに攻撃した可能性が高いラミルが見られない。


 マオが教会内に居るという事は、ここに運んで来た人物が必ずいるはずだ。なのに、この教会内には誰も居ない。


 ラミルどころか、その部下も居ない。


 不自然すぎる。マオだけがこの場に居るこの状況は、明らかに不自然だ。


 ナチは穏やかな表情で眠るマオから視線を外し、音を立てない様に立ち上がった。教会内を包む静寂さが、余計にナチの心に芽生えた恐怖心を煽る。


 急速に心を埋め尽くしていく不安がナチを冷静から遠ざけていく。


 ナチは手に持っている符を構えながら、目の前にある祭壇を見た。その祭壇の更に奥。収納スペースになっているのか、黒い布で覆われている場所へと、視線を向けた。


 そこに向けてナチが歩き出そうとした時だ。



 ポタッ。



 どこからか水滴が落ちる音が聞こえた。その音にナチは体を震わせた。無意識に肩が上がり、持っていた符を落としそうになる。双眸に力が入り、乾いた瞳が瞬きを要求するが、ナチはそれを無視。


 瞬きをする事すら恐怖に感じる程に、ナチの心は恐怖に駆られていく。


 咄嗟の事で音がする方向を判別する事は出来ず、ナチは壊れた機械人形の様に首をゆっくりと動かしていく。



 上を向く。何もない。



 右? 何もない。



 左? 何もない。



 では、後ろ?



 ナチは固唾を飲みながら、ゆっくりと背後へと体を向けた。



 あった。



 教会内の静寂を破る音の正体は、背後にあった。今も、ポタポタと木板に水滴を落としているのが見えた。


 二つの列を作る長椅子。ナチから見て左側の長椅子に、その正体は存在した。


 蝋燭の火に照らされ、液体は色を宿しながら落下していき、椅子の影に呑まれて再び色を失う。


 その色は濃い赤。鮮やかな赤色を宿す、その液体は血。


 人の歴史の中で幾度となく流れて来たその液体は、今もナチの目の前で滴り落ちている。


 ナチは長椅子でこちらを見上げてくる人物に、目を合わせた。本当に視線が合っている訳ではない。


 合う訳が無いのだ。


 彼の瞳からは、既に命の灯が失われているのだから。


 長椅子で光無くナチに目を向けるのは、ラミル。


 白かったシャツは真っ赤に染まり、白い部分を見つける方が難しい状態になっていた。


 それから、ナチは胸元へと視線を向けた。胸元が大きく開いた着崩しをしているせいか、ハッキリと見えた。胸に大きく空いた空洞を。黒く大きな空洞を。


 丁度心臓がある位置に開いた空洞から、血が絶え間なく流れていく。その量はとっくに致死量を超えているのに。だというのに止まる事は許されず、流れる血液は彼を赤よりも濃い赤に染め上げようとする。


 鋭利な刃物で心臓を貫かれ、即死。といった所ではないだろうか。



「刃物で心臓を一突き……」


 ナチはラミルの服から刃物を探した。ラミルの服からは刃物を見つける事はできず、一応周囲も探したが刃物は一つも見当たらなかった。


 首を傾げながら、ナチがラミルの死体を確認していると、背後から声が掛かった。


「遅かったな、ナチ」


 掛かった声はマオではなく、男性の物。聞き覚えのある声だ。交友関係が限りなく狭いナチだ。聞き覚えのある声も、限りなく少ない。


 ナチは既に声の主が誰なのか分かった上で、背後を振り返った。

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