第15話 奪われる家族

 マオが噴水広場へとたどり着いた時だ。風に運ばれて、何かが腐った様な酸っぱい臭いが鼻を通過し、食道を通過しようとした所でマオは咳き込んだ。


「何この臭い……」


 ジャケットの袖で花を押さえながら、マオは噴水へと近付いた。絶え間なく吹き続ける噴水には目を向けず、首を動かしマオは辺りを見渡した。


 すぐに見える範囲には、ナチの姿は見えない。


「すれ違ったかな」


 一人ぼやきながら、噴水を通り抜け、マオは僅かばかりの階段を上がり、パン屋へと近付いていく。


 店先に今日のおすすめを書き記した看板を置いている男性に、話し掛けた。



「おじさん、おはよう」


「おう、マオ。おはよう。おつかいか?」


 男性の大きすぎる声量にマオは苦笑しながらも、首を横に振った。



「違うよ。お兄さん見てない?」


「お兄さんって言うとウォルフ・サリの新入りか?」


「うん」


 男性は少し考える様な仕草を取ったが、結局思い当たらなかった様で首を横に振った。


「すまん、見てないな。何かあったのか?」


「迷子になってるみたいで。探してるんだ」


 大声で笑いながら、男性は腕を組んだ。その大きさに思わず、耳を塞ぎたくなったが本人の手前、耳を塞ぐことはしなかった。



「そうか、迷子か。見つかるといいな」


 目尻に涙を溜めながら、男性は言った。



「マオ、少し待ってろ」


 男性はそう言うと、店の扉を潜り、店内へと入って行ってしまった。


 取り残されたマオは、置かれていた看板に目を通す。今日のオススメはシナモンクノーテン、と豪快な字で書かれた看板を見て、マオは不意にお腹を鳴らした。


 香ばしいパンの匂いが、風に運ばれて流れて来る悪臭を打ち消し、食欲をそそらせる。



「おまたせ」


 店内から出て来た男性は、手に小さな紙袋を持ちながら現れた。マオの所まで駆け寄ると、持っていた紙袋をマオに手渡した。



「これ、失敗作で悪いが、食べな。迷子を捜すのは体力が居るからな」


 マオは紙袋を受け取る。中を見ると、そこにはシナモンクノーテンが三つ入っていた。マオにはどこが失敗作なのか見当がつかないが、プロから見ると失敗作なのだろう。


 砂糖をまぶしてあるのか、甘い香りが漂ってくる。涎が垂れそうになって慌てて、口を閉じる。


「ありがとう。大事に食べるね」


「おう。マオの所の新入りのおかげで、この街は少しだけ住みやすくなったからな。感謝しているんだ。それに、口には出さないが他にも感謝している奴は多いんだぞ」


「そうなの?」


 マオは紙袋を大事に手で抱えながら、驚きの表情を浮かべた。



「ああ。あの兄ちゃんが来てラミルを倒してくれてから、ラミルはびっくりするくらい大人しくなったんだ。住みやすいったらありゃしないよ」


「……そうなんだ」



 それを聞いて少しだけ先輩として誇らしくなった。


「だから、感謝しているんだよ。もちろん、マオにもな」


「私は何もしてないよ?」


「マオが、あの兄ちゃんを連れて来たって聞いたけど。違うのか?」


「それは当たってるけど、ラミルを倒したのはお兄さんで、私は何もしてないから」


 男性がマオの肩を優しく叩く。


「マオが連れて来てくれなかったら、あの兄ちゃんがウォルケンに来る事は無かったかもしれないんだ。あまり謙遜するな」


「……うん。ありがと」


 マオは満面の笑みを浮かべた。



「そろそろ探しに行くよ。パンありがとね」


「ああ、頑張れよ」


 マオが軽く頭を下げ、踵を返そうとした所で、男性の表情が一変した。顔に恐怖がこびり付く。呆然自失に佇む男性を訝しみながらも、マオは踵を返す。


 だが、すぐに制止を余儀なくされた。



「ラミル……」


 紙袋を持つ手に力が入る。ほとんど無意識に。


 背後を振り返った先に居たのは、ラミル本人。金髪の長い髪を悪臭に塗れた風に揺らし、無表情でマオを見つめる姿はいつもと変わらない。


 そして、いつも身に着けている白いシャツを血で赤く染めている事も普段と変わらないはずなのに、今日はそれが酷く心を騒ぎ立てる。


 嫌な予感がする。心臓が早鐘を打ち、あまりにも早い鼓動に過呼吸を起こしそうになる。


「運が良かったな、お前」


 静かに口を開いたラミルは微笑を浮かべた。


「どういう意味?」


「この血。誰の血だと思う?」


 血が付着したシャツを手で掴みながらラミルは言った。そこで気付く。その血はまだ乾いていない。湿り気を保ち、服が肌に張り付いている。


 あの血液は、まだ鮮血だ。



「……誰の……血なの?」


 マオは震えた声でラミルの言葉を待った。震える腕を止める為に、紙袋を強く握る。


 だが、どれだけ紙袋を強く握っても紙袋が押し潰されるだけで、震えは止まらなかった。



「シャミアとリルだ」



 時間が止まった。世界のではない。マオの体内時計が驚きと衝撃のあまり、止まってしまったのだ。


 紙袋を落とす。落下した紙袋からクノーテンが転がっていき、ラミルの足にぶつかり止まった。


 それをラミルは足で踏み潰した。


 マオは唇を引き絞り、両手を強く握った。驚愕の後に浮かび上がった感情は、強い怒り。憤怒と言っても良い程の怒りが胸の内から沸き起こる。



「ラミル!」


 マオは叫びながら頭上に氷剣を作った。


 それを射出しようと、氷に指示を出そうとした時、突然呼吸が止まった。


 吸っても吸っても空気が体内に入って来ない。両手で首に触れ、マオは膝から崩れ落ちた。


 パニックに陥りそうになる頭。それを防ぐ為にマオは、下唇を強く噛んだ。歯が唇に食い込み、裂けた。そこから溢れる血が涎の様に顎を流れていく。



「どうだ? あいつの技だ」


 あいつというのが誰を指しているのか、すぐに分かった。ナチだ。


 これは、ナチがラミルを倒した時の状況に似ている。見下ろすラミルと、見上げるマオ。あの時もこういう状況だった。



「やめろ、ラミル!」


 背後から男性が叫ぶ。この街でラミルに意見するのは危険行為だ。なのに、彼は声を上げた。上げてくれた。


 この街は変わりつつある。ナチがもたらしてくれたささやかな変化だ。


「うるさい! 黙ってろ!」


 空気の弾丸が撃ち出され、それは男性に直撃。看板に激突しながら、男性は壁に打ち付けられた。


 気絶してしまったのか、男性は力なく地面に伏せた。


 マオは作り出した氷剣を最後の力を振り絞り、ラミルに向けて射出した。高速で撃ち出される氷の大剣。


 二人の距離はほとんど零距離だ。ラミルを倒せはしなくても、深手を負わす事は出来るはず。


 そんな甘い希望は、簡単に打ち砕かれた。


 ラミルに当たる直前で、氷剣は空中で粉々に砕け、氷の破片が地面へと落下していく。


 こいつが全てを壊すのか。ナチが作ってくれた変化の兆しも、マオの大事な家族も全て。



 嫌だ。そんなのは嫌だ。



 誰か。誰でもいい。助けてくれ。



 私の大事な家族を守ってくれ。



 私の大事な物をこれ以上奪わないでくれ。



 助けて。助けて、お兄さん。



 頬を伝う雫を拭う事も出来ず、マオは意識を失った。








 ナチが路地へと出ると、そこは運良く酒場の近くだった。ナチも知っている道。ナチは路地に出てすぐに右へと曲がると、路地を駆け抜けた。


 後は、直進するだけだ。迷う事無くたどり着けるはず。


 路地に出てからも街を包む悪臭に咽返りながらも、ナチは走り続けた。


 すると、前方に大勢の人々が集まっているのが見えて、ナチは足を止めた。いや、止めざるを得なかった。


 人々が集まっている視線の先にはあるのは酒場だ。ナチの目的地。


 何が起きているのか分からず、ナチは人々を掻い潜り、強引に掻き分け、奥へと進んだ。


 集まってくる野次馬と、既に居る群衆が各々声を発している為、耳を覆いたくなる様な喧騒が耳を突く。



「どけ!」


 大声を上げるが、巨大な喧騒の前にナチの声は無残にも掻き消された。



「邪魔なんだよ」


 男性も女性も、全てを払い除け群衆の一番前にたどり着いた時。そこに広がる光景を見て、ナチは絶句した。


 固い敷石の上に寝かされた二人。全身傷だらけの体。折れた腕や足。口から零れる大量の血液。それが地面を赤く濡らし、今もその領域を拡大している。



「シャミア……リル……」


 地面に寝かされていたのは、シャミアとリルの二人だ。仰向けに寝かされた二人の顔に付着した血は、まだ乾いていない。絶えず流れる血液のせいか、乾く事を許さない。鮮血がそれを許さない。


「間に合わなかった……」


 ナチが膝を折り、二人に近付くと微かな呼吸音が聞こえて来た。弱い。だけど、呼吸している。生きている。



「医者は? 医者はまだなのか?」


「もうすぐ来るはずだ」


 右側から話しかけられ、そちらへと視線を向けると、そこにはマスターが立っていた。白いシャツの上に黒いベストを羽織っているが、白いシャツは自身の血で赤く染まっていた。右腕を押さえ、苦痛を顔に浮かべたマスターもまた負傷している。


「誰がやったの?」


「ラミルだ。ラミルが突然やってきてシャミアとリルを」


 ナチは奥歯を噛み締めながら、ある事に気付く。辺りを見回す。群衆の中にその人物を探す。


 居ない。どこにも居ない。


 見慣れつつある薄いオレンジ色の少女が見えない。家族思いで、生意気な少女の姿がどこにも見えない。


「マオは? マオは無事なの?」


「会ってないのか? マオはお前を迎えに噴水広場に」


「僕は会わなかった。擦れ違ったのか……」


 噴水広場というのは、噴水とパン屋がある場所の事だろう。


 ナチは指先から霊力を放出する。


「マオは噴水広場に行ったの?」


「ああ。だが、マオがここを出たのは随分前だ。噴水広場にいるかは分からないぞ」


「でも、他にマオが居るかもしれない場所なんて」


 おそらく、ラミルはマオを追っているはず。人質にするだけなら、ここに居るシャミアとリルで十分なのだ。なのに、二人をここに放置している理由は、最初からマオを人質に取るつもりだったから。


 この仮説がもし正しければ、ラミルは既にマオへと接触している可能性は高い。


 そうなれば、今から噴水広場に行ったとしても、マオが居る可能性はマスターの言う通り、低いと考えた方が良いだろう。


 ナチはふと、思い出す。先程、剃髪の男が言っていた言葉を。


 あの男はナチを教会へ連れて行くと言っていた。マオ達を人質にするという事ならば、当然、ラミルも教会へと向かうはず。


 教会で待っていれば、ナチがラミルよりも先にたどり着いたとしても、ラミルは教会に現れる。後手に回ったとしても同じだ。ラミルが行き付く先は教会。



 ならば。


「教会だ。教会の場所は?」


「教会なら、街の一番北にある。屋根に十字架が付いているからすぐに分かるはずだ。だが、教会に行ってどうするというのだ? あそこには祭壇があるだけで、何もありはしないぞ」


「多分だけど、ラミルは教会に居る」


「それは本当か?」


 ナチは頷いた。


「多分だけどね。僕は今から、教会に行ってくる。二人をお願いしても良い?」


「それは構わんが」


「よろしくね」


 ナチは立ち上がると、すぐさまシャミア達に背を向けた。



「……ナチ」


 背後から聞こえてくるのは女性の声だ。ナチは振り返る事はせず、次の言葉を待った。


「……マオを頼むわね」


 弱弱しく言ったその言葉を一文字も聞き逃す事無く、ナチは首だけを動かし、背後を見た。


「必ず助ける」


 シャミアが微笑む。優しく、体を襲う痛みなど微塵も感じさせない笑顔でナチを見た。強い女性だ。ナチが持ち合わせていない強さ。芯の強さ。心の強さ。それらをシャミアは持っている。余所者のナチを受け止めてくれた恩も合わせて。


 敬意を表す必要がある。 


「……行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 事切れたかの様に気を失ったシャミアから視線を外し、ナチは走り出した。

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