第14話 悪臭に包まれる路地

 全ての家具を裏庭へと出し終えると、マオは外に出した丸椅子に座りながら、生活感がまるでない家屋へと視線を向けた。


 このまま一日中、座って過ごしたい、と思いながら空を眺めていると、急に空が翳った。いや、空が翳ったのではなく、マオの視界を遮っている何かがあるのだ。


 それはシャミアの豊満な胸だ。マオの頭上にシャミアの豊満な胸があるのだ。マオはそれを右手で鷲掴みにした。


 当たり前だが、頭を殴られる。


「サボってないで働きなさい」


「だって、面倒くさいし」


「私だって面倒くさいわよ」


「シャミアがそれ言っちゃうの?」


「言っちゃうわよ。ほら、さっさと立ちなさい」


 マオは渋々、椅子から立ち上がり家屋の扉へと近付いていく。その後をシャミアが続く。マオを逃がさない為だ。


 このストーカーめ、と思いながらマオが開きっぱなしの家屋の扉を潜ろうとした時だ。


 右側で扉が開く音がした。マオとシャミアが同時に右側へと視線を向けた。酒場の裏庭に用がある人物はウォルフ・サリの人間か、マスターだけだ。


 マオはナチかサリスだと予想したが、それは見事に外れた。


 裏庭へと現れたのは酒場のマスターだ。そして、開けた扉を閉めたマスターはマオ達へと近付いてくる。近付いて来る度に、マスターの体から香ばしいパンの匂いが強くなる。


 おそらく、噴水広場の近くにあるパン屋に行ってきたのだろう。


 マスターは怪訝そうな表情を浮かべているが、その表情の意味が分からず、マオとシャミアは首を傾げた。


「お前らの所の新入りが噴水広場に居たが、何かおつかいでも頼んだのか?」


「何でそんな場所に居るのかしら? 図書館は真逆の方向にあるのに」


 噴水広場があるのは街の北側だ。ナチが向かったはずの図書館は、本人にも説明した通り南側にある。


「迷子なんじゃない?」


「そうね。誰も街を案内した事なんてなかったし、迷子かも知れないわね」


 マオは勢いよく手を挙げた。


「私が街を案内しながら、迎えに行ってくるよ」


 マオの提案にシャミアは顔を顰めた。それもそのはず。ナチを迎えに行くという事は、掃除を放棄するという事だ。それに掃除要員が一人減れば、一人当たりの掃除量は増える。


 シャミアはそれを危惧しているのだ。


 シャミアも掃除するのが面倒なら、毎年恒例の大掃除など止めてしまえばいいのに、と思う。


「マオはナチに対して随分、優しくなったみたいだけど。どういう心境の変化かしら?」


 家屋の中で、物音が鳴った。リルが箒でも落としたのだろうか。


「別に。少しは仲間として認めてやろうと思っただけだし」


「本当に? 本当にそれだけ? 昨日は一夜を共にしたんでしょ?」


 艶めかしいシャミアの視線がマオへと向けられる。隣に居るマスターは無表情かつ無反応を装っているが、右足が半歩マオへと近付いたのを見逃さなかった。


「なっ! 違う! あれはそういうんじゃない!」


 マオが耳まで顔を真っ赤にしながら、シャミアに詰め寄る。唇が震えているせいか、放った言葉も若干震え気味だ。


 家屋の中で少し大きな物音が鳴った。リルが鉄製の箒でも落としたのだろう。


「一夜を共にした事は否定しないのね。でも、急にそんなに仲良くなっちゃうって事は、一線越えちゃった?」


 マスターと一緒にからかう様な目線を送って来るシャミアを見て、マオは熱湯の中に全身を浸けたかの様に、全身を真っ赤にさせた。


 家屋から盛大に何かを落下させた音が聞こえて来る。リルが鉄の塊でも落としたのだろう。


「そう言えば、道のど真ん中で痴話喧嘩してたって、この前聞いたわねー。誰の事かしらー?」


「別にお兄さんとは何もないし、痴話喧嘩じゃないし。……ちょっとおっぱい触られただけだし」


 家屋の中で床が破砕された様な音が響いた。一体、リルはどんな掃除をしているのだろうか。


「誰もマオの事なんて言ってないわよ。ん? おっぱい触られた? どういう事?」


「ちょっと事故で……。って、そんなの別にシャミアに言う必要ない。もう迎えに行ってくるから!」


「え? ちょっと待ちなさい! そこは詳しく」


 マオは背後で未だに何かを言っているシャミアを置いて、裏庭を出た。体に溜まる熱が全身を駆け巡り、早く酒場から離れようと足は無意識に速度を上げていく。


 マオは勢いよく酒場の扉を蹴り破った。







 再び、路地裏へと戻ったナチはすぐに元の場所へと戻る事に失敗し、現在進行形で迷子になっていた。


 入り組んだ路地裏を右往左往。完全に方向感覚が狂い、一度迷った段階で、噴水がある路地にたどり着いた経路は完全に忘れてしまった。


 何故か路地裏に再度入った途端に、饐えた臭いが鼻を刺激し始めたが、床に落ちた吐瀉物を見て、臭いの理由は納得した。


 他にも誰かが捨てた生活用品。戦闘があったと思われる抉れた地面。壁にこびり付いた無数の赤い雫。血の跡があった。


 路地裏だけを切り抜けば、ウォルケンはマオが言う理不尽な暴力に抑圧されている様にも見える。目の前に映るそれらは、街が抱える裏側を細部まで表現したかのような光景だった。



 特に深く考える事も無く直進すると、ナチは眼前で道が分かれている事に気付いた。そのまま直進するか、斜め右に進むかだが、ナチは迷う事無く斜め右に進んだ。


 斜め右に進んだ理由は特にない。気分だ。


 斜め右に進んでも結局、饐えた臭いは相変わらずでナチは上着の袖を鼻に押し当てたが、既に時遅し。嗅覚は麻痺し、上着の臭いを判別するだけの機能を失っている。


 この臭いを我慢して、今は進むしかなかった。


 帰ったら絶対に洗濯しよう、と心に決めながら道を少し駆け足気味に直進。何度か道が再び枝分かれしていたが、特に悩むことなくナチは道を進んだ。


 饐えた臭いすらも認識できなくなる程に嗅覚が麻痺しだした頃、ナチは行き止まりにたどり着いた。右も左も前も、全てが赤土色の石壁に阻まれている。戻るには来た道を戻るしかない。


「疲れた……」


 路地裏に入ってからかなりの時間、距離を歩いている。だというのに、饐えた臭いは相変わらず。元の場所には戻れず。ナチは落胆気味に、その場にしゃがみ込んだ。


 どうしてこんな入り組んだ路地裏を作ったのだろうか。しかも、こんな悪臭を無対策で放置している。ウォルケンの人達は何も言わないのだろうか。


 ここまで路地裏中を悪臭が蔓延していれば、街全体に影響が出ていたとしても可笑しくは無いと思うが。


 それこそ食品を主に取り扱っている商人や店が、文句を言っていたとしてもおかしくは無い気がする。が、今朝も露店の主人達は通常営業だった。


 ウォルケン自体が、この饐えた臭いに慣れ過ぎてしまい気付いていないのか。いや、それは無い。嗅覚を麻痺させる程の悪臭に慣れ親しむ者などいない。


 それにナチが最初に路地裏へと足を踏み入れた時、ここまでの悪臭はしていなかった。饐えた臭いが鼻につく様になったのは、ひったくり犯を逃し、再び路地裏へと進入してから。


 そう。最初、路地裏には悪臭は存在していなかった。多少の異臭はあったと思うが、嗅覚を麻痺させる程の悪臭は存在しなかった。


 つまり、ナチが路地裏へと入ったタイミングで悪臭が発生した。自意識過剰だろうか。だが、タイミング的には理に適っている。


 とりあえずナチがすべき事は、路地裏から速やかに抜ける事だ。どこでもいい。一度人通りのある路地へと出るべきだ。


 どう見ても、この路地は異常に包まれているのだから。


 ナチは立ち上がり、路地へと戻る為に、後方へと体を向けた。


 だが、ナチは一歩を踏み出す事はしなかった。


 いや、出来なかったと言ってもいい。


 ナチの目の前に、道を塞ぐ様に立っている男が二人。ナチを見下す様な視線を向けている。


 この二人には見覚えがある。まだ記憶に真新しいのだから、覚えていないとおかしい。


 ナチの目の前に居るのは、ひったくり犯とそれを追っていた男だ。


 二人共坊主頭で、剃髪かスポーツ刈りかの違いしかない。派手な柄のシャツを身に着け、手に持っているのは銀色に煌めくナイフ。


 この男達がわざわざ路地裏までナチを追い掛けて、楽しく談笑する気が無い事は火を見るよりも明らかだ。


「この酷い臭いは、君達の仕業?」


「ああ。俺達は香りを操る事が出来る。良い臭いだろ?」


「最高だね」


 何故、ここまで急速に路地裏を悪臭で包み込む事が出来たのか、その理由がようやく分かった。入り組んだ路地裏という事は、それだけ路地裏が広範囲にわたって長く続いているという事だ。


 それだけ長く続く路地裏に短時間で悪臭を蔓延させることは、それが科学を超越する超能力であっても難しいはず。


 だが、それが二人の能力だというのならば納得がいく。


 類似した能力を二人で行使すれば、悪臭が流れる速度も二倍。効果範囲も二倍。全てが二倍だ。


「でも、出来ればやめてくれないかな?」


「それは無理だな」


「どうして?」


 歪な笑みを浮かべるフレグランス坊主二人に対して、ナチは笑顔を作った。


「お前は俺達と一緒にラミルさんの所に行ってもらう」


 ここでラミルの名前が出て来た事に内心驚きながらも、ナチはポケットに入れた符を取り出した。路地裏に入る前に石から作った符だ。それを右手で握る。


 おそらく、この二人はラミルの部下。もしそうなら、ナチは路地裏に誘い込まれるべくして誘い込まれたという訳だが。


「それはお断りしようかな」


「お前に拒否権は無い」


 言うと思ったよ、とナチは二人に対して嘲笑を浮かべた。少しは奇を衒った発言をしてほしい物だ。


「生きてさえいれば、体がどうなっていても構わないと言われている。お前に恨みは無いが、覚悟を決めろ」


「後悔するよ?」


 ナチは手に持っている符に属性を付加。


「お前がな」


 一言も喋らなかったスポーツ刈りの男が、小さく何かを呟くとナチに突進。それに合わせてナチは、属性を具象化。「強化」の属性が解放される。


 効果範囲は、ナチの右肩から指先まで。この瞬間から、強化の属性はナチの右腕に剛力をもたらす。だが、「強化」の属性には一つ、デメリットがある。比類なき怪力にナチの肉体が長時間耐えられないのだ。


 ナチが「強化」の属性を右腕に付加できる時間は、約十秒。それ以上は、ナチの右腕が壊れてしまう。おそらくは、二度と使い物にならなくなる程に。


 ナチは高熱を宿したかの様に湯気が立ち込める右腕に力を込めた。


 そして、それを突進してくる男に向かって強引に左から右へと振り抜く。常軌を逸した速度で放たれたナチの右腕は、スポーツ刈りの男の顎を直撃。


 顎を砕き、顔を斜めに曲げながら、スポーツ刈りを右方向へと吹き飛ばした。壁に叩き付けられた男は、耳を塞ぎたくなる程の衝撃音と、壁が砕ける破砕音と共に、地面へと落下した。


 壁に入ったヒビが「強化」の尋常ならざる威力を物語っていた。



 残り五秒。



 剃髪の男が少しの動揺を見せながらも、右手に持ったナイフで威嚇しながらナチに向かってくる。


 ナチも剃髪に向かって、一歩踏み出した。


 突き出されるナイフを左手の甲で逸らし、そのまま左手を滑らせ、男の右手首を強く握った。そして、剛力を宿した右手で男の肘に渾身の一撃。


 骨が鈍い音を立てながら粉砕骨折し、男の手からナイフが零れ落ちる。落下したナイフを足で蹴り飛ばす。


 だが、腕が折れても剃髪の表情は変わらなかった。無表情のまま、ナチに追撃を放つ。


 ナチの股間を狙った一撃。振り上げられた右足は既に、回避不可能な位置まで上昇している。だが、ナチの右腕には常軌を逸した怪力が付加されている。


 普通ならそのまま攻撃を受けるしかない状況でも、ナチが異世界で習得した神秘は、物理の法則を簡単に覆す。


 振り上がった右足に対し、ナチは鉄槌と言わんばかりに右腕を振り下ろした。


 超高速で撃ち出された右腕は、右足がナチの股間に当たるよりも先に脛に直撃。そのまま、地面に撃墜。ひび割れる敷石。鳴り響く骨折音。見た目に変化は見られないが、確実に骨を砕いたはずだ。


 ナチは残り一秒を切った所で符を解除し、右手に握っていた符を地面に放り投げた。


 地面に倒れ込んだ剃髪に、ナチは歩み寄った。


 派手な柄のシャツを掴み、強引に立たせると壁に押し付けた。


「ラミルはどこ?」


「教会だ」


「本当に?」


 ナチが男から手を離そうとした時だ。


 剃髪の男が、目を見開いたまま、口角を歪ませたのが見えた。


「何笑ってるの?」


「早く行った方がいいぞ? お前のお仲間が殺される前にな」


「どういう事?」


「動いているのが、俺達だけだと思うか?」


 ナチはすぐに男が言っている事を理解した。そして、もう一つの事実にも。今、サリスは外出している。ウォルフ・サリを守ってくれる存在は、どこにも居ない。誰も三人を守ってくれない。もし、今ラミルが攻めて来たとしたらウォルフ・サリは、瞬く間に破滅の一途を辿る。


「お前が呑気に俺た」


 ナチは剃髪の男を壁に叩き付けた。何度も、何度も、何度も。頭が赤く染まり、鼻が折れ、砕け散った歯が地面に落下していく。ナチは地面に男を放り投げると、走った。


 背後から男が倒れた音が聞こえてくる。



 背後を振り返る事もせずに、ナチは路地裏を駆けだした。

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