第10話 優しさと甘え
翌朝。日が昇った頃、ナチは酒場の裏庭に立っていた。目の前にはリルがナチと向かい合う様にして立っている。無言で互いを見据え、今か今か、とその時を待ちわびている。
そして今、変化をもたらす旋風が巻き起こった。
「じゃあ、今から何しようか」
ナチは腕を組みながら、相好を崩した。それにつられてリルも笑顔を見せる。
「そう言えばリルの能力って何なの?」
大事な事を聞き忘れていた。リルを強くする為の特訓だというのに、リルの能力を知らないというのは大問題だ。
リルは笑顔を保ったまま、石を拾うとそれをナチに手渡した。
「これを僕に投げてもらえますか」
「良いけど……」
リルはナチから一メートル程距離を取ると、ナチに背を向けた。背を向けたまま、こちらを見ようともしない。どういうつもりなのだろうか。
もしかしたら、後頭部に第三の目が備わっているかもしれない、とナチは胸を躍らせた。
「投げるけど、大丈夫? 当たらない?」
「大丈夫です。いつでもどうぞ」
じゃあ、とナチは石を下から掬い上げる様に、リルに向けて投げた。それは緩やかな軌道を経て、リルの後頭部へ向かって飛んでいく。
それをリルは、こちらを一度も見る事なく首を捻って躱した。リルの前方に落ちた石は地面へと落下し、転がることなくその場で制止する。
どうですか、と振り返るリルは期待の眼差しをナチへと向けているが、これだけではどういう能力なのか分からなかった。
「ごめん、良く分からなかったんだけど。どういう能力なの?」
「えっとですね。僕は、僕に向かって飛んでくる物を予測する事が出来ます。僕に向かって飛んでくる物なら、それが見えてなくても予測できるんです」
「自身に向かって来る飛来物を予測する能力、か。これは、また」
かなり限定的な能力だ。使い所がかなり限られる上に、最悪あってもなくても変わらない。もし、相手が近接戦闘を得意とする者なら、この能力は封殺される。
だが、限定的という事はその限られた状況の中では最高のパフォーマンスが期待できる。弱い能力は活躍が見込める場所が少ないだけで、意味が無いという事にはならない。適材適所というやつだ。
「じゃあ、この能力を使いながら僕と一回戦ってみようか。リルがどれくらい動けるのか見たいし」
葉を拾いながら、ナチは言った。それを符に変換する。
「準備はいい?」
「はい。いつでも」
リルは拳を構えた。構え慣れていないのか、腕が細すぎるせいなのか、あまり様になっていなかった。可愛いとは思う。
ナチは符に属性を付加。「硬化」と「加速」。ナチが使う属性の中で最も使い勝手がよく、最も使用頻度が高い属性だ。
ナチは感情を殺す。リルを見据える瞳孔は、人を殺す鬼の様な無機質な光を纏った。呼吸を一度吐く。
「行くよ?」
ナチの言葉によってリルが浮かべた表情は、恐怖。構えた拳がガタガタと震え、少しだけ素肌が見える足も、拳と同じように震えている。
戦い慣れていないという事が、これだけで分かった。
ナチは符を投げ飛ばし、指先から霊力を放出。属性が具象化された符は、鋼鉄の様な硬度を手に入れると同時に、目で捉える事が出来ない程の速度を手に入れる。風を切る音が裏庭に響き渡りながら、リルへと向かっていく。
ナチは、投げ飛ばした瞬間、左に移動し、一枚の葉を拾った。
それを符に変換しようとした時、リルが最初に投げた符を腹にまともに受けて、後方へと大きく吹き飛ばされているのが見えた。
地面を転がっていき裏庭を囲う白色の石壁に激突する直前で、リルは静止。仰向けに倒れるリルをナチはぽかん、としながら歩みを止め、リルに駆け足で近付いていく。
起き上がる素振りも見せないリルを見て、少し嫌な予感が胸に宿る。
「リル大丈夫?」
リルは腹部を押さえながら、悶え苦しんでいた。だが、気絶している訳ではない様だ。
「怪我はしてない?」
「大丈夫です」
リルはかなり無理をして笑顔を作った。
「予測は出来たんですけど、速すぎて」
「そっか、そういう事ね」
乾いた笑い声を発しながら、ナチはリルの上半身を起こした。そして、リルの腕を肩に回し、同時に立ち上がる。
「まだ続けられる?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、今度はリルが僕に打ち込んでみて。殴っても蹴っても良い。飛び道具を使ってもいいよ。何でも使っていいから、僕に一回でいい。攻撃を当ててみよう」
「はい!」
ナチの肩から離れていくリルは、ふらふらとした足取りでナチから一度距離を取った。そして、拳を構える。
大丈夫かな、と思いながらもナチは、符を作る事も用意する事も無く、リルを迎え撃つ様に拳を構えた。左腕を前に置き、右腕を僅かに後方へと回す。
「いつでもどうぞ」
リルが動き出す。突き出されるのは右腕。向かってくる遅い突きをナチは左腕で僅かに軌道を変え、右腕でリルの右腕を掴む。そのまま、後方へと投げ飛ばし、地面を転がったリルを見下ろした。
すぐに、立ち上がるリル。
また拳を構え直し、ナチへと向かってくる。右足を軸に、リルの左足がナチの顔面を狙う。意外と蹴りの速度が速いことに驚きながら、ナチはしゃがみ込んで蹴りを回避。
しゃがみ込みながら、ナチは左足を伸ばし、その場で回転。伸ばした左足で、リルが軸足にしている右足を蹴り飛ばす。
折れた案山子の様にその場に倒れ込んだリル。
それでも、またすぐに立ち上がる。またすぐに拳を構える。
リルが拳を打ち出す要領でナチに対して、何かを投げ飛ばした。
石だ。
頭に向かって飛んでくる石を、首を捻って難なく躱す。すると、リルの姿が見えなくなった。
ナチは微笑んだ。微笑みながら下方向へと視線を動かす。
しゃがみ込んで拳を溜め込んでいるリルの姿が見えた。石が顔面に向かっている間は、当然ナチは石に意識を集中させる。その僅かな時間、リルはナチの意識の外へと外れる。
石を拾ったのは先程転がった時だろう。
十分に合格点だ。
リルが勢いよく拳を、ナチの顎目掛けて撃ち出す。強烈なアッパーをナチは体を後方へと体を仰け反らす事で躱した。
だが、躱すだけでは終わらない。そのまま背中を地面へと倒し、両手を地面に着いた。
手を地面に着けた瞬間、思い切り地面を蹴る。浮かび上がる、両足。猛烈に速度を上げるナチの両足はリルの顎を蹴り飛ばし、リルの体を僅かに上空へと押し上げた。
バク転しながら、ナチは顔を青褪めさせる。割と本気で蹴り飛ばしてしまった事に。途中から楽しくなって、特訓という名目を忘れていた事に。
ナチは両足を地面に着けると、すぐさまリルに駆け寄った。
案の定、土の上で気絶しているリル。心の中でごめん、と謝りながら、ナチはリルを腕に抱えた。それから、リルの体を日の当たらない場所へと移動させ、土の上に寝かせると、ナチもその隣に腰を下ろした。
服の袖で汗を拭いながら、日陰に吹く涼風に体を震わせた。
「疲れた……」
リルも能力なしの戦闘ならば、それなりに動ける。非力な事と、少し動きに無駄が多いが、それはこれからの特訓次第で解消できる。
問題は、能力だ。
自身に向かってくる飛来物を予測する、という能力をどう活かせばいいのかナチには分からない。
視認していなくても予測できるというのは、大きなメリットだとは思う。だが、それも避けられなければ意味が無い。
せっかく、飛び道具を使う相手だったら常に有利に立てる能力なのだから、この能力を軸にリルを鍛えたい。
だが、どうすれば。
「……ん」
リルが呻き声を一瞬だけ、漏らすと静かに目を開いた。半開きの瞼の奥で視線がゆっくりと動き出す。右に左に、最後にナチを視界に入れると、リルの瞳は水を得た魚の様に大きく見開き、体を起き上がらせた。
その体をナチは無理矢理に抑えつけ、再び地面に寝かせた。
「まだ寝てていいよ」
「……はい」
リルは息を大きく吐き、大きく吸った。それから、澄んだ青空を見ながらリルは口を開いた。
「すみません、弱くて。……がっかりしましたか?」
弱弱しく言葉を紡ぎながら体を丸めているリルを見て、ナチは苦笑を漏らす。
「そんな事はないよ。最後の石を使った攻撃は良かったと思う」
「そうですか、嬉しいです」
「誰かに教えてもらったりしてたの?」
「シャミアに少し。シャミアは、能力は弱いんですけど、殴る蹴るみたいな戦いだったら滅茶苦茶強いんです」
「へえ、意外だね」
「僕もそう思います」
お互いに笑った。静かな笑い声が裏庭に響く。
シャミアと戦ってみないと何とも言えないが、格闘技術などはナチでは無く、シャミアに師事してもらった方が良いかもしれない。
ナチも多少の近接格闘を心得てはいるが、不得手な部類だ。せっかく、近くに近接格闘を得意とする人物が居るのなら、そちらへ聞いた方が良い気がする。
ナチが一度、家屋を見やると窓から、薄いオレンジ色の髪が見えた気がした。気のせいではない。マオがこちらを見ている。
不機嫌な顔をしながら。
「ねえ、リル」
「はい」
「マオがどうして不機嫌なのか知ってる?」
リルは、体を起こした。石壁に背を預け、ナチの隣に腰を落ち着かせる。
「多分ですけど、僕がナチさんに特訓をお願いしたから、だと思います」
「新入りの僕にお願いしたから怒ってる、って事?」
「僕がサリスやシャミアに頼まなかったから、だと思います」
「面倒くさ……」
「でも、優しい所もあるんですよ。仲間思いだし」
左の人差し指を、右手でいじりながらリルは言った。頬と耳を赤くしながら、はにかんでいる。
ナチは、それを見て驚く。
「マオの事、好きなの?」
リルの顔が茹蛸の様に真っ赤に染まる。湯気でも出そうなくらいに顔を紅潮させながら、視線を右往左往させる。
確かに綺麗な顔立ちをしているが、マオのどこが良いのだろうか。ナチはリルの好みを理解する事はできなかったが、それでも応援しようとは思った。
「じゃあ、少しお節介でも焼こうかね」
「え?」
ナチはリルに今からしてほしい事を事細かに説明した。明らかに動揺しているリルだが、これも恋愛成就の為だ。やってもらう他あるまい。
上手くいけば、マオと接する機会が爆発的に増える。
全てを説明し終えると、リルは緊張の面持ちで固唾を飲んだ。
「出来る?」
「……はい」
「じゃあ行っておいで」
「が、頑張ります」
頼りなく立ち上がったリルは、悠然と家屋へと歩き出した。その姿を見て少し心配になるが、ナチはリルから視線を外し、ゆっくりと瞼を下ろした。
ナチとリルが特訓を開始してすぐ。リルがナチの符をまともに受け、吹き飛んだ頃だ。
マオは窓からそれを、不機嫌を宿した眼差しで見つめた。
吹き飛ぶリルに駆け寄るナチ。無理矢理に笑顔を作って再び立ち上がるリルを見て苛立ちを募らせた。
「まだ機嫌悪いの?」
「別に悪くないし」
背後から聞こえて来たシャミアの声に、マオは素っ気なく返す。背後からシャミアが溜息を漏らしたのが聞こえて来た。
「もう、お子様なんだから。そんなに、リルがナチに特訓してもらうのが嫌なの?」
マオは口を開こうとして言葉に詰まった。
物心ついた時から側にいたシャミアと言えど、こんなみっともない愚痴を零していいものだろうか、と。シャミアは今年で二十二歳になるが、街でよく若奥様などと呼ばれ、マオの母親と間違えられる事が多い。
母親にだってこんな事を打ち明けたりはしないだろう。
言葉に詰まっていると、シャミアがマオの横に置いてある丸椅子に座った。
「で? 何がそんなに嫌なの?」
「……特訓だったらサリスとかシャミアとすればいいのに、って」
「リルがナチに教えてもらいたいって言ったんだから、別に良いじゃない。駄目なの?」
「駄目じゃないけど。でも……」
「でも?」
「何か納得いかない」
「子供か」
「子供じゃないし」
マオはシャミアから目を逸らしながら、窓の外を見た。外では、ナチが珍しく拳を構えていた。あの男は符とか呼ばれる謎の紙を投げる以外に近接格闘も出来るのか、と目を見張らせる。
彼の動きを目で追う。
リルの動きが遅いというのもあるが、それでも慣れた手つきでナチはリルを軽々と捌いていた。余裕を感じさせる動き。目で捉えてから動けるだけの身体能力を以ってリルを地面に叩き伏せる。
近接格闘すら得手にしているというのか、あの男は。
「へえ、ナチって結構強いのね。私も混ぜてもらおうかしら」
シャミアもナチの動きを冷静に見つめていた。シャミアは近接格闘ならば、類稀なる強さを誇る。その彼女が言うのだ。
ナチは強い。これは認めざるを得ない。
「ほら、私達にわざわざ教えを請わなくても問題ないじゃない」
「そうじゃないんだよ。分かってないなあ、シャミアは」
「面倒臭いわね……」
窓へと視線を向けると、ナチがリルの顎を蹴り飛ばし、気絶させているのが見えた。慌ててリルに駆け寄るナチの顔は青ざめていた。
楽しくなりすぎてつい羽目を外してしまった、と言った様な顔だ。
「だって、私達は昔から側に居るんだから、最初に私達に相談してくれてもいいのに、って思わない?」
「思わないわよ」
「何で?」
窓から視線を外し、壁にもたれ掛かったシャミアはマオの顔を見上げながら言った。
「リルはもう十七歳。もう自分で色々と決められる。リルがナチに戦い方を教えてほしいっていうのなら、私はリルの意見を尊重するわ」
「だけど……」
「だけどじゃないの。私達は確かに家族の様に育ったわ。私はウォルフ・サリの皆を家族同然だと思ってる。でもね、家族だからって本人の意思を捻じ曲げちゃ駄目。それは、本当の家族でもやってはいけない事なの」
マオは反論する事が出来ず、黙った。それ即ち、少し腑に落ちてしまったという事になるのだが、言葉にはしない。言葉にするのは何だか悔しい。
ちらりと窓を見ると、ナチと目が合った。その瞬間、マオはナチから視線を逸らした。
「多分、ナチはマオが不機嫌だって事に気付いてるわよ」
「え?」
「多分としか言えないけどね。不機嫌な事に気付いたから、すぐマオに声を掛けてくれたでしょ?」
「確かに……」
確かに、マオが苛立ちを胸の内に募らせたすぐ後に、ナチは声を掛けて来た。すぐに突っぱねてしまったが、あれはナチなりの気遣いだったのか。
「ナチは大人ね。抜けている様に見えて、周りをよく見ている。出会ってすぐに我が儘を言いだす娘を許容してくれる、懐の広さも持ち合わせてる」
シャミアに言われて気付く。ナチと出会ってまだ数日なのだ。普通だったら、見放されていてもおかしくは無い。それをしないのはナチが寛大だからだ。
その事に気付いた時、マオは二の句を継げなかった。
「ナチの優しさに甘えるだけでは駄目よ、マオ」
「……うん」
マオが首を頷かせると、不意に家屋に設置された唯一の出入り口が開いた。マオとシャミアは視線を扉へと移動させる。
誰だろうか。ナチとリルが戻って来たのか。外出中のサリスが帰って来たのか。
誰だろうか、と思い扉を開けた人物が姿を現すのを待った。
「あら、リル。どうしたの?」
入って来たのはリル。だけだ。マオが窓から外を見ると、ナチが石壁に背を預けながら、瞳を閉じているのが見えた。
入って来たリルが無言でマオとシャミアの前まで歩いてくると、真っ直ぐな視線をマオ達に向けた。
「どうしたの?」
マオが恐る恐る聞いた。
「二人にも僕の特訓の手伝いをしてほしいんだ」
「……どうして?」
「ナチさんが、僕は符術以外苦手だから、シャミアとマオにも手伝ってもらおうって」
「あらあら。あらあらあら」
シャミアがマオの肩を叩く。振り返ると、シャミアは笑いを堪えながら、横目でマオを見ていた。からかう様なその目線が、腹立たしい。
「私は別に良いわよ。手伝ってあげる。マオはどうする?」
「……私も別に手伝っても良い」
「素直じゃないわね」
シャミアが苦笑を漏らす。
「……ちょっと風に当たって来る」
「行ってらっしゃい」
慈愛に満ちたシャミアの声を背後に受けながら、マオは扉を開き外へと出る。扉を閉める直前、リルの声が聞こえてきて、扉を制止させた。
「ナチさん。マオが不機嫌だって気付いていたみたいなんだ」
「やっぱり。それで気を遣ってくれた訳ね」
「うん。多分、僕がシャミア達にお願いしなかったからだって言ったら、じゃあ二人にも頼んでみようか、って」
「そうよね。私もナチの動きを見てたけど、素人の動きじゃなかったもの。私達に頼む必要なんて本当は無いのよね」
「でも、二人が教えてくれるのは嬉しいよ」
「ありがと」
マオは扉を、音も立てずに閉めた。扉にもたれ掛かりながら、己の幼稚さを恥じる。息を大きく吐きながら、一度目を閉じる。
そうだ。彼は常に優しかった。初めて会った時に言ったマオの滅茶苦茶な言葉にも理解を示してくれた。突然、意味の分からない事を口にした小娘など、相手にしなければよかったのに。
彼はマオを見捨てる事もせずに、街まで同行し、ウォルフ・サリの為に今も力を尽くしてくれている。
シャミアの言う通り、彼の優しさに甘えてばかりでは駄目だ。マオは頬を一度強く叩いた。
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