第11話 お守りと神

 ナチは裏庭を囲う石壁の外に一本だけ生える、常緑樹を見つめていた。


 世界樹よりも遥かに小さな常緑樹。その小さな常緑樹は南から吹いた突風に枝を揺らし、葉擦れを起こすと共に葉を数枚、地面へと落下させた。


 新緑が地面に舞い落ち、茶色の土壌に、生命力を強く感じさせる緑色が追加される。だが、大本から離れた新緑は、これから様々な困難が降り注ぐ。


 虫に食べられたり、誰かに踏み潰されたり、自然の猛威に振るわれ、やがてそこに新緑が落ちていた事すら忘れ去られる。


 世界樹から切り離された異世界が、そうなっている可能性は高い。闇に呑まれた世界樹がどの様に生命維持を行っているのか、ナチには分からない。調べる方法も今のところない。


 それでも、ナチが助けられなければ異世界は死ぬ。


 誰も知らないまま、暗い闇の中で消滅してしまう。


 そんな事にはさせたくない。させたくはないのに、今は何もできない。


 悔しさを噛み締める様に奥歯を噛んだ。噛み砕けるのではないか、と思う程の力で奥歯を噛む。



「お兄さん」



 背後から声が掛かった。控えめに呟かれた声。昨日から不機嫌だったオレンジ色の少女の声だ。


 ナチが背後を振り返ろうとした瞬間、目の前の木が風に大きく揺れた。


 再び鳴った葉擦れにナチは耳を傾けた。乾いた音が耳に心地よく響く。ナチは振り返る事もせずに、一本の常緑樹へと視線を向け続けた。


 もう一度、枝が大きく揺れると、梢から離れた新緑が、自身に向かってゆらゆらと落ちてきているのを見た。


 まるで吸い込まれるかの様にナチは手を伸ばす。


 ゆらゆらと舞い落ちる新緑を掴むと、ナチはゆっくりと背後へと振り返った。


「どうしたの?」


「お兄さん、その……」


 肩を小さく丸めながら、ナチと視線が重なると目を逸らす少女を見て、ナチは静かに微笑んだ。何を言いたいのかはすぐに分かった。


 ナチは先程掴んだ新緑に霊力を流し込み、符に変換。属性も付加する。



「はい、これあげる」


「え? あ、ありがと」


「ナチさん特製のお守り。きっと、マオを守ってくれるよ」


「……なんか気持ち悪い感触」


 符を指で擦っているマオは苦渋の表情を浮かべた。


「気持ち良くない?」


「気持ち悪いよ」


「あ、そう……」


「……でも、ありがと」


 符をまじまじと見つめながらマオは言った。少しだけ微笑んでいるように見えるのは気のせいではないだろう。


「……どういたしまして」


 頬を掻きながら、ナチは言った。どうも、しおらしい態度を取るマオというのは調子が狂わされる。


 ナチは少し動揺している自分を悟られない様に、マオに背を向けると常緑樹へ再び視線を向けた。





 その日の夜、ナチは日が暮れた頃に帰って来たサリスに誘われて、酒場に居た。カウンターで隣に並び立つ二人の前には、グラスが二つ。


 ナチの前には黄金色に輝く度数が高くない酒が。サリスの前には琥珀色の度数がかなり高い酒が入っていた。


 サリスは琥珀色の酒を一気に飲み干すと、給仕をしていたマオに追加の酒を注文していた。給仕をしているマオ、という姿に最初は驚いたが、時間の経過と共にそれも気にならなくなった。


「お前、リルの面倒見てくれてるんだってな」


「一応、ね」


「どうだ? 見込みはありそうか?」


 カウンターに肩肘をつきながら、サリスは息子を心配する様な顔つきで言った。


「見込みはあると思うよ。これからの特訓次第で化けるかもしれない」


「そうか。頼むな」


「サリスも何か教えてあげたら?」


 からかう様な口調で言ったが、サリスは鼻を鳴らした。


「俺は、弟子を取らないんだ。面倒くさいから」


「そんな理由なの?」


 ナチは黄金色の酒が入ったグラスを傾け、口に含んだ。苦味が口に広がっていく。十分に口に広がった所で、ナチは飲み込んだ。


「そんな理由だ。俺は誰かに戦い方を教えてもらった事はないからな。戦い方なんてもんは見て盗む物だと思ってる」


「それは一理あるね」


「ずっと気になっていたんだが、お前が使っている能力は何だ? 紙を使っていた様だが」


 ナチはポケットから、まだ符に変えていない葉を取り出した。少し虫食いが見られるが問題は無い。


「僕の能力は符術」


 ナチは霊力を指先から流し、葉を白く変色させた。そして、「大気」の属性を付加。


 そして、マオがトレーに料理を乗せながら客の下へと向かっているのが見えたので、そちらへとナチは符を投げ飛ばした。


 霊力を流し込み、属性を具象化。マオの悲鳴と共に、突如として巻き起こった風はトレーに乗っていた料理を宙に浮かせ、客の下へと料理を運んだ。


「こんな感じ、かな」


「ほう、面白い能力だ」


 サリスは不敵な笑みを零すと同時に、マオが怒鳴り声を上げながらナチ達の下へと歩み寄って来た。


「面白い能力だ、じゃないよ! お兄さんも悪ふざけは止めて」


「そんな事は良いから、早く俺の酒を持ってこい」


「ごめんごめん。早く持ってきてあげてくれる?」


「お兄さんってお酒飲むんだね」


「たまにはね」


「サリスと同じペースで飲んでると潰されるから気を付けた方が良いよ」


「気を付けるよ」


「早く酒を取りに行け」


「うるさいなあ。行きますよ。行けばいいんでしょ?」


「行けばいいんだ。お子様はせっせと働け」


「お子様じゃないし」


 持っていた丸いトレーでサリスを思い切り叩くと、マオは厨房の奥へと消えていった。


「お前はマオに気に入られた様だな」


「気に入られた? あれが?」


「ああ。マオは人見知りが激しい上に生意気だが、気に入った奴にしかそういう所は見せない。今度、マオが他人と話している所を見ていると良い。他人行儀で面白いぞ」


「今度見てみるよ」


 ナチがグラスを傾けていると、カウンターに勢いよく先程と同じ琥珀色の酒が入ったグラスが置かれた。


 頬を引きつかせながらマオがサリスを見上げている。


「お待たせしました」



 凄味を聞かせた物言いをしたマオは、もう一度トレーでサリスの尻を叩くと、厨房へと消えていった。


 運ばれてきた酒を一口飲むと、サリスは肩を竦めた。



「年頃の娘は気難しくていかんな」


「サリスはマオの父親ではないんだよね?」


「ああ。血縁も何もない。ただの他人だ」


「マオはウォルフ・サリを家族みたいに思ってるみたいだけど?」


「あいつの両親はもう死んでるからな。死んだ家族と俺達を重ねているんだろ」


「……そんな軽々しく言って良い事なの?」


 サリスはグラスを揺らすと、瞳に琥珀色を映した。



「お前もウォルフ・サリの一員なんだ。お前も知っておけ。それと、マオの前で両親の話は口にするな。いいな?」


「それを言う為に、僕を誘ったの?」


 グラスに向いていた視線がナチへと向けられる。その後に口角が上がり、サリスは琥珀色の酒を一口飲んだ。


「……まあ、な。釘を刺しておこうと思っただけだ」


「分かった。言わないよ、約束する」


「頼むぞ」



 二人は同時にグラスを傾け、入っていた酒を一気に飲み干した。



「それと、リルの恋も適当に応援してやってくれ。もう知ってるんだろ?」


「まあね。今朝知った事なんだけど」


「あいつもマオのどこが良いんだか」


「私が、何?」


 気が付けば、料理をトレーに乗せているマオがこちらを睨みつけていた。


「おい、マオ。俺達の酒が無くなってるぞ。早く持ってこい」


「注文された覚えがないけど」


「今、しただろ」


 鬼の形相で料理を客の下へと運ぶと、マオはナチ達の下へと駆け寄って来た。



「お客様、ふざけた事ばっかり言ってると出入り禁止にしますよ?」


「お客様は神様なんだろ? つまり、俺は神だ。その神に意見するお前をこの世から出入り禁止にするぞ」


「この屁理屈クソ男……」


「それは働いている側が言う言葉なんじゃ……」


「細かい事を気にするな、ナチ。おい、早く神に酒を持ってこい人間」


「少々お待ちください、神様」


 震えた声で言ったマオの額には青筋が立っていた。

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