第8話 未知への恐怖

 ナチがウォルフ・サリに入団した翌日の昼下がり。


 ナチはマオと共に、ナチがこの世界に初めて降り立った森を歩いていた。相変わらず生命力に溢れた木々が生え並ぶ、林道を歩いていた。


 木々が風に揺れる度に鳴る葉擦れを聞くのは、今日何度目か。



「今日はあの兎を倒せばいいの?」


「そう、ウサギモドキの住処の破壊」



 ウサギモドキというのか。


 確かに兎の様に愛らしい姿をしているのに、実際は肉食動物の様な鋭い牙を持ち合わせている。ウサギモドキという名前がピッタリの生物だった。



 ナチ達の下へ、ウサギモドキの依頼が来たのが今日の朝。依頼してきたのは、ウォルケンで青果を売っている商人の男性だ。



 ウサギモドキを駆除してほしい、とサリスに依頼内容を告げ、出来れば住処も破壊してほしい、と付け加えていた気がする。



 まさか、自分が行く事になると思っていなかったナチは、依頼内容を話し半分で聞いていた為、あまり覚えていなかった。



「そんなに難しい仕事じゃないけど、気を付けてね」



「分かった。気を付けるよ」



 林道を進むと、ナチとマオが戦闘をした場所にあった湖が見えた。ナチが倒したウサギモドキの死体は既に消えていた。誰かが片付けたのだろうか。それとも、ウサギモドキが共食いしたか。


 他の動物が死体を咀嚼した可能性もあるな、と思いながらナチは更に森の奥へと進んだ。


 ここから先は、ナチは行った事がない。となると、隣を歩くマオの指示に従うしかナチには出来ない。


「マオは昨日も森に来てたけど、仕事?」



 この森とウォルケンは少し離れている。ふらっと遊びに来るには少し遠い気がした。



「……昨日は、暇だったから」



 そう言った後に、マオは視線を下に向けた。どこか気を張っている様な表情を浮かべながら、地面を瞳に映し続けている。


 これ以上は聞かない方がいいか、と判断して、ナチはそれ以上の言及はしなかった。



 人の手が入り、馬車や人が通りやすくなる様に舗装された林道から離れ、ナチ達は獣道へと突入していた。伸びる雑草を踏み潰し、足下に転がる石に躓き何度か転がりそうになるが、結局一度も転ぶ事無く進んでいく。


 その間に適度に雑草や葉を拾ったり、千切ったりしては符に変える。


 それから暫く獣道を歩くと、マオが突然立ち止まり、しゃがみ込んだ。叢に隠れる様にして、視点を一点に注ぐ。


 ナチもマオに倣い叢に隠れると、マオが向いている方向へと視線を向ける。



 目の前にあるのは、巣だ。ウサギモドキの住処。


 倒れた木が四本ほど上手い具合に積み重なり、その下に隠れる様にして灰色の毛皮を持つ兎によく似た生物が、群れを成していた。数は分からない。百はいないが、五十は居ると思われた。


 これが住処だというならば、破壊する必要がある。依頼は住処の破壊なのだから。ナチは符をポケットから数枚取り出した。



「どうする?」


 ウサギモドキの住処を見つめながら、ナチは言った。


「もちろん、特攻」


「え?」



 ナチがマオへと顔を向けた時には、マオの頭上には氷の剣が生成されていた。数は八本。突然の行動に、ナチは咄嗟に動く事が出来なかった。呆気に取られたまま、氷剣が住処へ向けて射出されるのを見送る。


 直進していく氷剣が、倒れている木に突き刺さる。刺さった場所を起点に木は氷結していき、計七本の氷剣が木に突き刺さった瞬間、木は完全に氷結。


 そして、最後の一本が突き刺さった瞬間、氷結した木は音を立てて崩れ落ちた。



 巨大な氷の瓦礫に押し潰されるウサギモドキ達。鮮血が氷に飛び散っていくのが見えた。


 鮮血が視界に入ると同時に、ナチは符に属性を付加。「大気」の属性を付加。そして、足下に生えている雑草を強引に引っ張り、これらも全て符に変えた。最低でも、五十枚はあるのではないだろうか。



 属性を付加。「大気」。



 ナチは属性を解放させ、それら全てをウサギモドキの住処へと向けて放つ。


 ラミルの時と同じだ。住処全体を球体の様に符で囲み、結界内の空気を操作する。これで結界内から脱出する事は不可能。ナチは風の要塞を数秒で作り上げる。



 だが、空気を固定する事はしない。



 ナチは、空気中を構成する気体、窒素、酸素、アルゴンなどを空気中から排除。空気を構成する気体を二酸化炭素のみに限定する。



 二酸化炭素濃度、百パーセントの結界内。二酸化炭素は酸素の二十倍の速度で血液中に溶け込み、ウサギモドキ達をアシドーシス状態に陥らせる。


 呼吸したとしても、吸い込むのは二酸化炭素のみが構成された空気だけ。結果、二酸化炭素を体内から排出する事が出来ず、脳をはじめとする各器官が機能不全に陥り、死亡する。


 空気を固定するよりも、効率的かつ効果的に対象を殺す事が出来る。


 結界内のウサギモドキ達が次々に倒れていく。それを無表情で眺めていると、マオがナチを、まるで恐ろしい物を見るかの様な目で見つめていた。



「何をしたの?」


「空気を構成する気体を二酸化炭素のみに限定して、二酸化炭素中毒を故意に起こしたんだよ。二酸化炭素百パーセントの空間内では、生物は生きていられない」


「ちょっと、待って。何を言ってるの?」


「息を吸えなくした、って感じかな」



 数分が経った後、ナチは霊力を流した。符が効力を失い、宙に浮いていた符が音も無く地面に落下していく。


 ナチは、ウサギモドキの住処だった場所を見やった。そこに転がっているのは大量の死骸。ほぼ全ての個体が無傷のまま死亡しており、その姿は昼時に睡眠を取っている微笑ましい光景にも見えた。


「確認しにいく?」


「一応……」



 二人は無言で巣へと近付いて行った。無数に転がっている死体の一体を右手で触れ、死亡確認を取る。心臓は動いておらず、呼吸もしていない。


 間違いなく、死んでいる。



「……死んでる」



 マオが信じられない、といった様子で呟いた。足下に転がっている灰色の小動物は全て死んでいる。それは、全てを確認しなくても分かる事だ。



「帰ろう」


「……うん」







 街へ帰還する間、ほとんど会話をする事も無く、二人は街へと帰って来た。ナチから少し離れて歩くマオの表情は、どこか強張っているように見える。


 その表情の理由は、大体想像できた。


 未知への恐怖。といった所か。


 ナチが先程、行使した空気を構成する気体を限定した術。あれは、空気を構成している成分を知らなければ、使えない技だ。そして、空気の構成成分を知っているだけでも使えない。


 二酸化炭素が満たされた空間内でどういう現象が起きるのか。それを使い手が知らなければ、術や技に昇華する事は出来ない。


 それらを、マオは知らない。だから、恐怖を抱く。自分が理解できない存在や理論、技術や発明に人は恐怖を抱く。今のマオは、ナチが起こした理解不能の神秘に対して恐怖を抱いているのだろう。


 火や風を発生する能力を、マオはおそらく見た事がある。だから、ナチが火を起こしたり、風を起こしたりする現象に関しては、今の様な恐怖を抱いてはいなかったはずだ。


 だが、今回はラミルの様に分かり易く風を発生させる事はしなかった。


 視覚する事が出来ない空気構成を変化させ、低範囲ではあるがウサギモドキの命を大量に奪った。


 原因が分からないまま生物は大量に死に、理解できない言葉を喋るナチ。


 もし、ナチがマオの立場でも恐怖を抱く。未知には常に恐怖が付きまとう。これは仕方が無い事だ。


 この未知に対する恐怖を無くすには、マオが自分の意思で未知を解明していくしかない。未知と向き合い、調べ、それを定着させる。そうする事で、未知への恐怖は解消されるはずだ。


 だが、それもマオがナチに対して歩み寄る気があれば、の話だが。



 ナチは苦笑を漏らしながら、難しい顔で俯いているマオを見た。彼女に掛ける言葉が見つからず、ナチは口を開き掛けて、結局閉じる。


 二人の間に生まれた静寂を堪能しながら、街中を流れる河の上に作られた橋を渡る為に一歩踏み出そうとした時だ。突如として目の前に現れた男にナチは目を見開き、緊急制止した。


 それに気付かずに歩き続けているマオの右腕を引っ張り、自身の下へと勢いよく引き寄せた。間一髪、筋肉質の男に激突する事は避けられた様だ。


 驚愕に見開かれたマオの瞳が、ナチを見る。そして、すぐにナチから目の前の男に目を向けた。


 眼前にいるのは一人の男性。黒色の短い髪に、肉体美を主張したいのか、タイトな白色のシャツとズボンを身に着けている。


 股間が締め付けられ苦しそうにしているが、ナチは静かに視線を男性の顔へと移した。


 丸い顔に丸い鼻。一重瞼から覗く瞳は淀んだ黒。そして、鱈子の様に太い唇が印象的な二十代前半くらいの男性だった。


「よう、マオ。今日も掃除代行サービスでもしてきたのか?」


 馬鹿にする様な口調で紡がれた言葉に、マオは無反応。それが癇に障ったのか、男性はマオの腕を掴んだ。


「おい、無視すんじゃねえよ。サリスに守ってもらってる弱者のくせによお」


「ちょっと、やめて」


 嫌悪感を露わにしたマオが強引に男性の腕を振り払おうとするが、男性の力が強いのか振り解けないでいた。



「痛い。離して」


「なら、謝れよ。俺の事無視してごめんなさいって謝れよ」


「嫌だ。私が謝る理由はない」



 マオは咄嗟に握り拳程度の氷を生成し、男性の顔に氷片をぶつけた。氷が顔面に直撃した衝撃で、男性は反射的にマオの腕から手を離し、自身の顔に手を当てた。


 マオが男性から距離を取る為に、後方へと大きく下がる。


「もう許さねえ」


「もうやめた方が良いよ?」


 ナチは男性の背後に回ると、右手で頭を持ち、左手で顎に手を添えた。そして、右に頭を少し傾かせる。このまま腕に力を入れれば、男性の首を折る事は容易だ。



「ここで死ぬか、生きて家に帰るか。選んでいいよ?」


「誰だ、お前?」


「こっちのセリフだよ。情緒不安定なの?」



 ナチは腕に力を入れる仕草を見せた。


「どうする? 死ぬ?」


「……悪かった」


「謝るのは僕じゃないでしょ?」



 男性は困惑している表情を浮かべているマオに、対して視線を送る。



「…………悪かった」


 ナチは男性の耳に寄せ、小声で言った。


「次は無いよ?」



 ナチは男性から腕を離し、背中を押す。強く推したわけでは無かったが、体勢を大きく崩した男性は一度ナチを振り返った。その顔はすっかりと青褪め、先程までの威勢は失われていた。


 男性が見えなくなるまで見続け、姿が見えなくなった所でナチはマオへと視線を向けた。


「マオ、帰ろう?」


 俯き、目を合わせようともしないマオに、ナチは右手を伸ばした。



「帰ろう?」



 反応が無いマオを見て、ナチは息を吐いた。マオの手を強引に掴み、無理矢理に橋を渡る。



「ちょっと、お兄さん」


 腕を振り解こうとするマオを軽くいなし、ナチは橋を渡り切った。そして、酒場に向かって歩き続ける。


「マオは僕が怖くなった?」


「え?」


「理解が出来ない力を見て、怖くなった。違う?」



 沈黙が生まれる。ナチはマオの言葉を待った。背後を振り返る事なく、ナチは歩みを進めた。


 そして、暫くの沈黙が続いた後、背後からか細い声で紡がれた。




「……うん」



 ナチは往来のど真ん中で立ち止まった。マオの手を離し、体をマオへと向けると、ナチは真っ直ぐにマオの瞳を見た。



「知らない力や感情は怖くて当たり前なんだよ」



「……当たり前?」



「うん。未知を恐れた結果が、この世界なんだよ。未知を解明し、恐怖を克服する為に、人は様々な物を作る。暗闇から逃れるために火を起こすし、寒さから逃れるために家を作った。人間は未知の恐怖と戦って、克服する生き物なんだよ」



 マオは首を傾げている。多分だが、ナチが言っている事を理解していないのではないだろうか。


 ナチは必死に考える。マオでも理解出来そうな言葉を模索した結果。



「結局、知らない力っていうのは怖い物なんだよ」


「話のスケール下がったけど」


「だって、しょうがないじゃん。マオ馬鹿だし」



 最後の方は小声で言ったナチだが、聞かれた様だ。マオの瞳に怒気が混じる。



「今なんて?」


「何でもないです」


「お兄さん、怒らないから言ってみなよ」



 笑顔を向けてはいるが、顔が引き攣っている。青筋を立てながら、マオはナチの顔を覗き込んだ。


 それは絶対に怒る時の常套句じゃないか、と思いながらもナチは口を開く。


「マオが馬鹿なんだから、しょうがないじゃん」



 ナチは普通に言った。聞こえる様にハッキリと。



「お兄さんが頭良いアピールするからでしょ?」


「してないよ。普通に言ってるだけだよ。ていうか、マオだってウサギモドキ殺してたよね? 僕だけ怖いって思われるのおかしくない?」


「おかしくないよ。二酸化なんとか百パーセントとか言ってるお兄さんの方が、よっぽどおかしいよ。おかしさ百パーセントだよ」


「二酸化炭素だよ! それと、パーセントの意味分かってないでしょ!」


「分かってないよ! 悪いか?」


「悪いよ!」



 往来で大声を上げているナチとマオを誰もが凝視していた。



「ラミルもあっさり倒しちゃうし」


「マオが倒してほしいって言ったんでしょ?」


「言ったけどさあ。そんなにあっさり倒す?」


「向かって来たんだから倒すよ、そりゃ」


「ただの戦闘大好きおじさんだよ、それ」


「おじさんっていうの止めて」



 ナチは耳を塞いだ。


「だって、お兄さん二十歳越えてるんでしょ? おじさん初期だよ」


「やめて、変な造語作らないで」


「ほら、白髪も生えてるし」


「良くない。嘘は良くない」



 と言いつつ、ナチは窓を鏡代わりにして、毛髪を確認した。黒色をベースに白が混じっている。しかも、白髪の量が結構多い。



「ほら、おじさん初期症状が出てるでしょ?」


「初期症状じゃないから。そんなのないから」


「認めなよ。お兄さんは、今日からおじさんだよ」


「やめて、戻して。お兄さんと呼んで」


「じゃあ、私に謝って?」



 勝ち誇った様な笑みでマオは腕を組んだ。ナチは体を震わせながら、腰を丸めた。


「すみませんでした。バカリアさん」


「マオリアですけど? おじさん?」



 もう一度どうぞ、とマオの声が頭の上から聞こえてくる。奥歯を噛み締める。なぜ、年下の少女に往来のど真ん中で謝っているのだろうか。


「スミマセンデシタ、マオリアサン」


「心がこもってないけど、まあいいや。もう帰ろ、お兄さん」


「……はい」



 先を行くマオの顔はすっかり元通りの人懐っこい顔になっていた。

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