第6話 風殺
撃ち出された風の弾丸。迫る暴風。それは直線上に存在する全てを破砕しながら進む、死風。
慌てる事無く、ナチは持っている符全てに「大気」の属性を付加。霊力を流し込む。属性が具象化された符はナチの手の平から、羽を広げ、空を支配する鷹の様に宙へと舞い上がった。
ナチの前方に壁の様に展開された符は、人には視認できない空気の層を纏い、撃ち出された風の弾丸を真正面から受け止めた。
空気と空気がぶつかる瞬間、ナチは霊力を流し込む。気流を操作し、風を全て後方へと流れる様に気流を変化。風の通り道を故意に作り出す。
そして、風の弾丸にも干渉。ナチが生み出した大気をラミルの風に干渉させ、風の弾丸すらも操作。風の通り道に風を誘導する。
ナチの気流操作によって流れていく風の弾丸はナチを傷付ける事なく、大気中に同化して消えた。
放たれた暴風をいなしたナチは、壁の様に展開された符壁を解除し、すぐさまラミルへと高速で射出する。
「くそっ」
ラミルの表情に焦りが生まれる。
符を撃ち落とす為に放たれる空気弾を全て受け流しながら、ナチは符を一枚も撃墜される事なくラミルの周囲に展開していく。
球体の様に展開された符の結界にラミルを閉じ込めると同時に、ナチは霊力を流し結界内の気流を固定した。
「何をするつもりか知らないが、こんな紙」
結界内でラミルが前方に手を突き出しているのが見えた。自身に満ち溢れた表情も、すぐに焦りに変わり、驚愕に変わった。
「風が使えない……。お前、何をした?」
能力の行使が不可能になったというのに冷静な対応が取れる事にナチは感心しながら、親切に説明を始めた。
「風を操る。そう聞くと格好よく聞こえるけど、実際は大気を操り、気流を操作しているという事だ。だから、僕は大気を操り、空気の流れを固定した、という事なんだけど。分かるかな?」
「インテリ気取りが……」
「僕は頭が良い訳じゃないよ。君よりも大気を操った経験が多いだけだ。分かり易く言うとね、僕の大気を操る力が君よりも優れているというだけの話なんだよ」
「こんな紙、風が使えなくても」
ラミルは、周囲に展開されている符の結界に手を伸ばし握り潰そうとしたが、触れる直前に空気弾をラミルの手に直撃させる。弾き飛ばされた手と共に、ラミルは後退を余儀なくされ、結界内の中心に再び押し戻される。
「無駄だよ。大技ばかりを使う君に、僕の大気を覆す力は残っていない。計画性の無さが仇になったね」
ナチは笑顔を作り上げる。先程まで、彼が浮かべていた様な高圧的で下卑た笑みを。
それを見てラミルの表情が一変する。明らかな怒気を孕み、憤怒の表情を以ってナチを射抜いた。
それを見てナチは、美しい桜色の花を咲かせる異世界の言葉を思い出した。
井の中の蛙、大海を知らず。ふと、そんな諺を心の中で唱える。
「君は世界の広さを知るべきだ」
ナチは指先から霊力を大量に放出。青白い光が指先から天に向かって霧散していく。結界内の気流を更に固定。それを何度も重ね掛けする。
岩の様に強固に固まった空気は、唐突にラミルに変化をもたらした。
「がっ…………」
喉元を手で押さえ、膝から崩れ落ちたラミル。地面に突っ伏し、ナチを見上げる視線には未だ闘気が残っている。ナチはゆっくりとラミルに近付いていった。
符の結界内の手前で立ち止まると、ナチは地面でのた打ち回っているラミルを見下ろした。
「呼吸、できないでしょ?」
人は息を吸って、空気に含まれる酸素を体内に取り入れ、また息を吐く。この呼吸の流れを人は自然と身に着ける。そこに疑問など抱かない。
だから、地上で突然、呼吸が出来なくなる状況を人は知らない。
気流の固定を強めた結果、符の結界内の空気の流れは完全に止まった。
空気を構成する窒素、酸素、二酸化炭素などを排除した訳でもない。
空気は確かに結界内に存在しているのだ。空気の流れを止める力が、ラミルの息を吸う力を上回っただけの話。
符の結界内は今、空気は存在するのに真空状態と変わらない状況という事だ。
何秒経っただろうか。無駄に動く事を止めたラミルの手の甲には太い血管が浮かび上がり、目から零れる涙が敷石に落ちていく。
口端には泡が溜まり、必死に空気を吸おうと大口を開けた結果、零れていく涎が口端に溜まった泡と共に頬を伝っていく。
そろそろ、かな。
ナチは符の結界内の気流固定を弱めた。呼吸が出来る程度、にまで弱める。ラミルの戦意が喪失していない以上は、固定を緩め過ぎるのは危険だ。
固定から解放された空気は、急速にラミルの体内に侵入。体内に入った空気を拒む様に、咳き込んだ。ラミルは手で涎を拭い、涙を拭いた後、憤怒の表情でナチを見上げた。
それに応える様にナチもラミルを見下ろす。
「犯した罪は必ず自分へ返って来る。理不尽な暴力も、こうして君に返って来た。これに懲りたら」
「……許さねえ」
ナチの言葉など、一言も聞いてはいなかった。怒りが感情を支配し、理性を鈍らせている。今のラミルには何を言ったとしても無駄だろう。
「君が傷付けてきた人達も、君の事を許してないと思うよ」
「お前は絶対に許さねえ」
「いいよ、許さなくても」
ナチは再び、空気を固定させた。もう、ラミルに目を向けはしない。
背後を振り返り、先程までラミルと戦闘していた少年へと視線を向けた。
どこにも居ない。
破壊された木箱や樽はあれど、少年の姿はどこにも見えない。辺りを見回すが、少年の姿はどこにも見えなかった。
逃げたのかもしれない。この光景を見て、逃げ出した可能性は大いにある。ナチが勝手に首を突っ込んだことであるため、別に感謝されたかった訳ではないが、少年の安否は少し気になる所だ。
そして、ナチはこちらを見つめる一人の少女に目を向けた。
マオだ。彼女は見るからに驚愕し、呆然とナチと転がるサリスを見つめている。その場に立ち尽くしていたマオは、ナチの視線に気付くと、ゆっくりとナチの下へと歩みを進めた。
ナチの隣まで歩くと、ナチと共に結界内に閉じ込められたラミルを見つめた。
ラミルは既に気絶していた。白目を剥きながら、力無く地面に伏している彼からは、完全に闘気や覇気を感じない。
それを見て、ナチは霊力を放出した。空気の固定を解除し、結界内に新鮮な空気を流し込む。
「倒したの?」
呼吸を再開させたラミルをまじまじと見ながら、マオが言った。
「うん。倒した」
「お兄さん、何者なの?」
「僕はただの旅人だよ」
ただの旅人ではないが、世界を渡り歩く旅人だったのだ。正しくも無いが、間違ってもいないだろう。
マオは首を傾げながら、ナチを見る。その表情はどこか懐疑的だ。
「ただの旅人……」
「旅をしていると色々あるんだよ」
「まあ、色々あるよね」
そう言ってマオは笑顔を見せた。細かい事をあまり気にしない性格なのかもしれない。
「お兄さん、すっかり日も昇ったけど、大丈夫?」
「え?」
マオの言う通り、地平線から顔を出した朝日はすっかりと空に鎮座している。ナチはそれを見て、金魚の様に口をパクパクさせた。
時間が守れないというのは、信用を失う要因になり易い。しかも、ナチがこれから受けるのは入団テスト。遅刻など断じてあってはならない。
「終わった……」
ナチの横で何故か、マオが笑いを堪えているが、特に何も言わなかった。それどころではない。今こうして呆然としている間にも、時間は進み続けているのだ。早く行かなければ、と内心に生まれた焦燥感がナチを急かす。
「早く行こう。僕の信用が失われようとしてる」
「大丈夫。私が説明してあげるよ」
マオはどうして笑いを堪えているのだろうか。それを疑問に思いながら、ナチは霊力を流した。すぐに球体を形作っていた符は、全て力無く地面に落下していく。大量にラミルの体に符が落下していくが、まあ大丈夫だろう。
ナチはマオと共に、ラミルから踵を返し、サリス達が待っているはずの家屋へと向かった。
「リル。大丈夫か?」
サリスに背負われたリルは、力無く頷いた。何度も、地面を転がり壁や木箱にぶつかったせいか体中が痛い。だが、骨や筋肉に異常は無い。と、思われた。
「大丈夫な訳ないでしょ。ラミルに一方的に攻撃されたんだから。しかも、手加減なしで」
「……僕は大丈夫だよ、シャミア。ありがとう」
リルは笑顔を浮かべながら、シャミアを見た。大丈夫だから、とリルはシャミアを安心させる様に、わざとらしく口角を上げる。
「今日はゆっくり休みなさい。いい?」
「うん。ごめんね」
「気にしなくていいのよ」
昔からシャミアはリルに甘い。幼い頃から共に居るが、シャミアは本当に母の様であり、姉の様でもあった。その母性に救われる事が多いが、少しは頼りにしてくれてもいいのに、と思う。
もう十七歳になったのだから。
「まさか、ラミルに喧嘩を売りに行くとはな。さすがの俺も驚いたぞ」
「そうよ。この街でのラミルの評判を知らない訳じゃないでしょ?」
「うん。でも、そこにラミルが居たから」
サリスに言われた通り、喧嘩を吹っ掛ける相手を探していたリルだが、そこにたまたまラミルが現れたのだ。別に誰でもよかったが、少し興味が湧いたのだ。
あの青年が、ウォルケンに吹く希望の風となるのか。ラミルの死風に飲まれ、そのまま理不尽な暴力に晒されてしまうのか。
だから、わざと肩をぶつけた。ラミルはその程度の事で怒り狂い、過信している能力を憂さ晴らしと言わんばかりに、行使する。
まさか、あの青年がラミルを倒してしまうとは思わなかった。圧勝だった。風を操る能力だけで言えば、ラミルよりも一枚も二枚も上手だった。
まず、風の操り方がラミルとは大きく違う。
ラミルは基本的に派手な技を好む。派手で無駄に体力を消費する技をわざわざ連発する。だが、あの青年は地味ではあるが、常に効果的で燃費の良い技を厳選し、効率の良い戦略を立てていた様に思う。
使用していた能力が謎だったが、それでもあの青年は間違いなく強者の部類に入るはずだ。もしかすると、サリスに匹敵するかもしれない。
「強かったね、あの人」
「ええ、そうね。まさか、ラミルを倒すなんて」
「良い拾い物かもしれんな」
「あの人、ウォルフ・サリに来てくれるかな?」
サリスとシャミアが驚いた顔を見合わせている。そんなにおかしな事を口にしただろうか、と思いながらリルはサリスの肩に顔を乗せる。
「来てくれるわよ。きっと」
「安心しろ、リル。俺が無理矢理にでも残らせる」
「逆に残ってくれなくなるわよ」
リルが笑うと、二人も笑った。
あの人に、戦い方を教えてもらいたい。サリスにも一度師事を乞うた事があるが、あっさりと断られてしまった。だが、あの青年の戦い方は、サリス以上にリルには魅力的に映った。
一瞬で、魅了されてしまった。
ウォルフ・サリに来てくれるといいな、と思いながらリルは目を閉じた。
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