第5話 風

 日が昇る少し前に、ナチは目を覚ました。




 朝特有の冷たい空気にナチは体を震わせながら、体を起こした。体を起こすと同時に、木製ベッドが軋み、ナチは宿に泊まっている事を思い出す。




 マオに宿まで送ってもらい、寝ていた店主を無理矢理に起こし、手続きをしたのだ。たまたま、一室空いていたから良かったものの、空いていなかったら野宿が確定するところだった。





 ベッドから降りたナチは、床に無造作に置かれている上着を手に取り、それを羽織った。冷え切った上着を羽織った事によって、さらに寒気が増した気がしたが、すぐに体温によって上着は温められた。




 ふらふらとした足取りで、扉へと近付いていく。




 ナチは扉を開け、部屋を後にした。ナチが止まっていた部屋は二階。未だに覚醒の時が訪れない、寝惚けた頭で階段がある右側を呆然と見続けた。





 目を手で擦る。気のせいだろうか。昨日出会った薄いオレンジ色の髪が見えた様な気がしたが。




 念入りに目を擦る。





「おはよう、お兄さん」





 気のせいではない様だ。目をしっかりと開く。そして、視界にオレンジ色の少女を捉えた。爽やかな笑顔を浮かべながら、腰に手を当ててナチを見上げている。




「おはよう、マオ。どうしたの?」




「迎えに行ってあげようと思って。迷子になったら困るでしょ?」




「ありがとう。それは助かるよ」





 実際、マオの提案は本当に助かる。ナチは土地勘が無い。昨日だって、マオの案内でここまでたどり着く事が出来たのだ。それに、夜と朝では同じ道が違って見える事が多い。




 正直に言って、ナチは酒場まで戻れる自信はそこまで無かった。





「じゃあ、早く行こう」





 何故か、マオがナチを急かす。その理由が分からぬまま、ナチは階段を駆け下ろされ、急速にチェックアウトの手続きを行わされた。




 まだ、早朝という事もあり、宿屋の主人も機嫌が悪い。またあんたか、という目で見られたが、それをまじまじと見る前にマオがナチの腕を引っ張り、宿の外へと連れだした。





 外へと出ると既に空は白み、商店や露店の主人達が開店準備を始めている姿が、ちらほらと見えた。それを横目に見ながら、ナチは直進していく。




 主人達が見えなくなると、同時にナチは視線を前方へと向けた。





「テストって何やるか知ってる?」




「さあ?」





 マオは両手を翻しながら、苦笑を浮かべた。





「サリスと戦ったりするかもね」




「それは嫌だな」





 その光景を想像して、ナチも苦笑を浮かべる。あのサリスという男は、間違いなく強い。ラミルよりも強いのではないか、と思ってしまう程に強者としての風格が滲み出ている。





「サリスって強いの?」






 自分でも抽象的な質問だと思った。





「強いよ。多分、お兄さんよりも」




「ラミルよりも?」




「多分、サリスの方が強い」





 それだと少しおかしい気がする。胸の内に浮かび上がった疑問をナチはそのまま言葉に変換し、口にした。





「なら、僕に頼まなくてもサリスに頼めばいいんじゃないの?」




「頼んでないと思う?」




 少し嫌味が含まれた物言いだった。当然だ。この街に滞在している期間はマオの方が長いのだから、そんな事思いついていて当たり前だ。



 愚問だった、とナチは軽くマオに謝罪した。




「どうして引き受けてくれなかったの?」



「多分だけど、サリスはラミルから街を守るつもりはないんだと思う。サリスが守りたいのは、ウォルフ・サリだけなんだよ」




 なるほど、と思いながらナチは一度、小さく欠伸を掻いた。マオには気付かれない様に、音は極力抑えて。





「そう言えば、ウォルフ・サリって何なの?」





 そんな事を呟いた時だった。前方に見える、弧を描くようにして造られている橋が見え始め、その下を流れる河のせせらぎが聞こえ始めた時、目の前を高速で何かが通り過ぎた。




 左から右へと眼球が動く。




 ナチはマオの腕を引っ張り、無理矢理に後方へと下がらせた。




 ナチは家屋に近付き、壁に貼られていた羊皮紙を手に取った。人相書きがされている事から、おそらく手配書だと思われるが、ナチは容赦なく羊皮紙を縦に引き裂く。



 そして、引き裂いた羊皮紙を重ね、今度は横に引き裂いた。それを何度も繰り返し、一枚の羊皮紙から数十枚の紙を作り上げる。





 それらは、全て符に変換された。





「マオは下がってて。近付いちゃダメだよ」



「はーい」




 マオの軽い応対には反応せず、ナチは数歩踏み出すと右側を見た。吹き飛ばされたのが何だったのか、確認する。



 人だ。茶色の髪を無造作に伸ばし、痛みを堪えているのか髪と同色の瞳を細めている。ナチよりも細い体、おそらくナチと変わらない上背。



 ナチよりも若い少年が、砕けた木箱や木樽の上で悶え苦しんでいた。




 少年の額から流れていく血液が鼻筋を通り、口へと進入していく。そのせいか、少年は勢いよく咳き込んだ。咳き込みながらも少年は立ち上がる。ふらふらだ。



 そして、少年は腕を一杯に振り、ナチの前を通過し、ナチの左側へと全力疾走。



 ナチも少年を目で追っていく。




 走っていく少年の向こう側。そこに立っている人物を見た途端に、ナチは目を見開いた。持っている符を全て落としそうになる。



 金髪の髪を後ろで縛り、昨日とは違う血で汚れていない白いシャツを着用し、シンプルな黒いズボンを穿いた青年。



 狩人の様な鋭い視線を少年へと向けているその人物は、ラミルだ。



 ラミルの右腕が少年へと向けられる。その瞬間、突き出されたラミルの手の平に何かが収束していくのが見えた。



 空気だ。ラミルの手に集まっているのは間違いなく空気。景観が歪み、ラミルの姿が不明瞭になっていく。そして、ラミルの前に集められた膨大な量の大気は、少年が最もラミルに接近した瞬間を狙って撃ちだされた。




 大気が解放される。それは風の弾丸となって、少年にほぼ零距離で激突する。その威力を物語る様に、少年は派手に地面を転がっていき、ナチの右側へと吹き飛ばされていった。



 再び木箱と木樽に激突して、少年は静止した。とてつもない既視感を抱きながら、ナチは吹き飛ばされた少年を見た。気絶している。気絶しているのだから、当然戦意は無い。



 だというのに。



 ラミルは更なる大気を手の平に収束させ、それを茶髪の少年へと放とうとしていた。歪む景色の向こう側で、ラミルが下卑た笑みを浮かべているのが見えた。




 ナチは一歩踏み出す。その背に、背後から声が掛かる。




「行くの?」



「うん」



「気を付けてね」



 ナチは首を縦に振り、ラミルの直線上に立った。


 これがマオの言う理不尽な暴力。弱者を一方的に屠り、弱者を徹底的に痛め付けるだけの矜持もへったくれもない戦いの道理。



 これは戦闘ではない。ただの暴力だ。




 ならば、ナチも暴力を振るうまでだ。理不尽な暴力を叩き伏せる事が出来るのは、それ以上の暴力だけ。ならば、それを今見せてやろう。



 ナチは放たれる風の弾丸に向かって、符を投げ飛ばした。











「ちょっと、止めに行かなくていいの?」




「まあ、もう少し待て」





 路地裏に隠れる様にして、リルとラミル。そして、ナチを見つめるシャミアとサリス。




 シャミアがサリスの袖を力強く引っ張り、サリスを強引に振り向かせる。





「危なくなったら助けるんじゃなかったの?」




「まだ大丈夫だ」




 シャミアはラミルの風を直撃して吹き飛ぶリルを見て、サリスを睨む。少し離れた場所で隠れている二人の所まで聞こえてくる、木箱が砕ける音。




 早く助けに行け、とシャミアはサリスの背中を押す。




「どこが、大丈夫なのよ?」




「ほら、見てみろ?」




「はあ?」




 言われるがまま、シャミアは首を動かし、サリスの背からリル達を覗き込んだ。




 ラミルの直線上に堂々と立つ青年の姿がシャミアの瞳に映った。白と黒が複雑に混ざり合ったボサボサ頭の青年。



 今朝、マオに強引に巻き込まれ、サリスに訳の分からないテストを課せられた不遇な青年が、リルを助ける為に立ち上がっていた。





「俺の言った通りだろ?」




「そういう事じゃないでしょ!」




 シャミアはサリスの背中を思い切り殴る。鈍い音が鳴ると共に、サリスは膝を着いた。呻き声を漏らしながら、サリスはシャミアを見上げた。




「お前が助けに行けば良くないか?」




「……分かってるでしょ?」






 サリスは、それ以上何かを言ってくる事は無かった。分かっているのだ。シャミアの能力はラミルの能力に比べると非力だ。




 格闘センスや筋力がどれだけラミルよりも優れていようが、吹き荒れる暴風の前に、それらは意味を成さない。




「……とりあえず、助けには入ったな。一応、合格点をくれてやるとするか」




「本当にテストしてるの?」




「当たり前だろ」





 シャミアは半ば呆れながら、事の成り行きを見守る事にした。




「あの力は……」





 サリスが何かを呟いたが、ラミルが撃ち出した風のせいで聞き取る事は出来なかった。


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