第2話 新たな世界と出会い
茶色の大地に足を踏みしめる。幼い子供が地団駄を踏む様に、ナチは地面を強く踏んだ。
久し振りの土の感触に、少しばかりの感動を覚える。白の監獄は常に宙に浮いているかの様な、生きた心地がしない浮遊感が常に付きまとっていた。
地面に足が着き、大地の鼓動を感じられるというのは、素晴らしい事なのだな、と今更ながらに思う。
ボロボロの靴で地面を擦っていると、足下に野兎が一匹。
灰色の毛並みに、赤い瞳。ナチを真っ直ぐに見上げているが、何だろう、とナチも真っ直ぐに野兎を見下ろす。足を曲げ、片膝を地面に着ける。
ナチの目線が下がると、野兎の目線も下がった。
何かを期待しているかの様に見上げてくる野兎の視線にナチはどうしていいか分からず、たじろいだ。
この野兎はナチに何を期待しているのだろうか。真っ先に思い浮かんだのは、餌。だが、それは違うのではないか、とナチは思った。辺りを見回せば、立ち並ぶ木々に実る果実や木の実が、地面に落ちているのが見える。
大量に落ちている訳ではないが、それでも二、三日は空腹を満たせるのではないだろうか、と思えた。
木に囲まれた巨大な湖もある。飲み水にも困らない。では、何だろうか。ナチは首を傾げながら、野兎の頭に手を伸ばした。愛らしい頭を撫でようと思うのは必然。十人中十人がこの野兎の頭を撫でようとするだろう。
いや、一人くらいは撫でないかもしれない。
手が頭に、ふさふさの毛に触れようとした時、事件は起こった。
手が触れる直前。赤い目が妖しく光り、口が大きく開いた。鋭い牙が剥き出しになる。まるで猛獣の様な牙は、手が食い千切られる様を容易に想起させた。ナチは慌てて手を引っ込める。
ガチン、と歯が干渉した音が聞こえてくる。顎の力も相当強い様だ。
ナチは慌てて後方へと跳躍。野兎から距離を取った。が、そこで違和感。自身が思い描いた着地点と、実際に跳躍した着地点にズレが生じていたのだ。ハッキリと言えば、跳躍力がかなり落ちている。
自身が予測していた着地点より、かなり近い距離にナチは着地した。白の監獄での怠惰な生活で、筋力が落ちたのかもしれない。今はそう納得するしかない。
この野兎は無断で縄張りに入ってきたナチを、排除する為に現れた可能性が高い。先程の噛み付きは威嚇のつもりだったのか、距離を取ったナチに近付こうという気配は見られない。
ここから出て行けば見逃してやる、とでも言いたげな瞳が、ナチを射抜く。ここを離れるだけで見逃してくれるというのならば、離れた方が利口だという事は明白。ナチが踵を返そうと、野兎に背を向けた所でナチは止まった。
振り返った先でも野兎がこちらを見て、牙を剥き出しにしていた。逆立った毛並みが怒りを表しているのは、深く考えなくても分かる。
どちらの野兎も毛並みが灰色。
兄弟だろうか、などと考えながら、ナチは二匹の野兎に視線を注ぐ。
牙を持つ以上、肉食である可能性はある。その可能性を確信に近付かせているのは、ナチが知っている兎とは牙の形状が大きく違う気がするからだ。この野兎が持つ牙は、ナチが別の世界で見た、大型の肉食動物が持つ牙に類似している気がする。
ナチは構える。武器を持っていない以上、素手もしくは術による戦闘になる。ナチは地面に落ちていた新緑の葉を一枚手に取った。人差し指と中指の間に挟み、霊力と呼ばれる力を流し込んでいく。
新緑の葉から緑が消え、白色に変色した。
それは葉というよりは、白鳥が落とした純白の羽根に見える。
白く変色した葉を、手で細かく千切ると、ナチは右手の手の平の上に乗せた。
手の平に乗せた葉に優しく息を吹きかける。葉は意思を持つかのように、ひらひらと野兎に向かって飛んでいった。優雅に舞う姿に野兎も見惚れていたのか、微動だにしないまま、葉が野兎の体に張り付いていく。
葉が体に付着して初めて動きを見せる、野兎。
もう遅いよ……。
ナチは左手の人差し指と中指を立て、霊力を指先から放出した。向かってくる野兎に優しく微笑んだ。
爆発。爆炎が野兎を包み込み、硝煙がナチの視界を遮った。ドサッ、と肉が地面に落ちた音が二つ。ナチは念の為に、もう一枚、葉を拾った。すぐに霊力を流し込む。
ナチが野兎に向けて放ったのは、「符」と呼ばれる物だ。ある世界で学んだ術で、ナチが最も好んで使う、数ある術の中で最も相性の良い術。符に霊力を流し込み、属性を付加。
野兎に放ったのは「火」という属性であり、ナチの霊力に反応して属性は大気中に現れる。
符を対象に張り付けてから、ナチが任意のタイミングで爆発させる。
重火器と電気が発展した世界に存在した、「時限爆弾」という物を応用した術だ。
符を操る術「符術」と、ナチは呼んでいる。世界を渡り歩く旅路で、ナチを救ってくれたのは主にこの符術であり、符術を教えてくれた師匠とも呼べる人物は、世界樹から切り離された世界の中にいる。
何としてでも助けなければ。
硝煙が風に乗って流れていき、視界が晴れていく。地面に転がる二匹の兎。灰色だった毛は黒色に染まり、肉が焦げた臭いが鼻を刺激する。嫌な臭いだ。
死臭が森に立ち込めると同時に、声が響く。
「お兄さん、伏せて!」
突然の声にナチは咄嗟に体を伏せた。聞き間違いでなければ、聞こえてきたのは少女の声だ。それも若い少女の声。
ナチの頭上を通り過ぎるのは、巨大な氷の剣。氷剣はナチの髪を切り裂きながら、ナチの背後へと高速で向かって行く。
地面を横に転がり、ナチは体を起こした。すぐさま、背後へと視線を向ける。射出された氷の剣は、灰色の兎を真っ二つに切断していた。
陽光の光が反射する氷の剣に、付着する赤い血液。それは溶けていく水と混ざり合いながら、土を赤く汚していく。変色していく土壌を眺めながら、ナチは背後の少女へと振り返った。
肩程まで伸びた薄いオレンジ色の髪が涼風に揺れ、澄み渡る青空と同色の美しい瞳がナチを静かに射抜く。気の強そうな瞳だ。鼻が高く筋が通っており、血色の良い唇は極薄だった。まだ幼さを残す容姿をしているが、かなりの美少女だと断言できた。
それから、視線を下へと移していく。藍色のジャケットに、スリットが入ったレギンスの上に、白色のショートパンツを着た彼女からは、スタイリッシュかつ健康的なイメージを抱かせる。
「ありがとう、助かったよ」
ナチは笑顔でそう言った。すると、彼女は手の平をナチへと向けた。その行動の意味が分からず、ナチは暫し呆然。
その数秒後、すぐにその意味を知る。
目の前の少女の頭上に浮かび上がるのは、氷の剣。先程、見た剣よりも小振りな剣が計六本。それらは剣というよりも、短剣の様な大きさだった。
少女が妖しく微笑む。その微笑みを見て、ナチは少女を敵だと判断。交戦準備へと入る。
ナチは服を数枚引き千切り、符を六枚作り出した。ついでに、服も全て符に変換する。白く変色していく服は水分を失ったかの様に、皺だらけになっていく。
六枚の符には「加速」と「硬化」の属性を。服には「硬化」の属性を付加する。
即席の武器を完成させ、ナチは少女の動向を見守った。
息を吐き、符を持つ右手を脱力させる。最高速度の反射を見せるには脱力する事が不可欠だ。力み過ぎるというのは、無駄な力が入っている証拠。
少女が気の強そうな目をナチへと向けるのと同時に、ナチは感情を悟らせない無機質な視線を少女へと向ける。
そして、開戦を告げるかの様にゆらゆらと舞い降りる新緑。
二人は同時に、それを見守った。不規則な軌道を描き、何度も翻りながら地に落ちていく新緑。
それが、地に落ちた瞬間。
二人は同時に、自身の武器を射出した。
投げ飛ばした瞬間、ナチは指先から霊力を流し、属性を具象化。
前方から迫りくる氷の短剣を超える速度を手にした符は、鋼鉄の様な硬度を以って氷に激突。結果は、符の勝利。破砕された氷は、無造作に土壌へと散らばっていき、陽光に反射して幻想的な光景を生む。
だが、その光景に見惚れている場合では無かった。氷の反射に隠れて射出される、七本目の氷剣がナチへと迫る。
直線的に進んでいく符は少女に当てる為に作られた物では無い。よって、符は七本目の氷剣を無視して、少女の横を通過していく。
そして、背後からペキペキと音が鳴る。背後へと冷静に振り返る。ナチの背後に存在するのは、湖。そこに浮かび上がっているのは、氷柱が二本。先端が尖った二本の氷柱は、ナチが振り返った一秒後にとてつもない速度で発射。水面に波紋が広がる。
すかさず、ナチは霊力を流し、服に込めた属性を開放。「硬化」の属性を具象化させる。
硬化を始めた白く皺くちゃな服は、弾丸すら受け止める鉄壁の防護服へと変貌を遂げる。迫る氷を全て服で受け止め鉄壁の防御力を以って粉々に破壊した。
その瞬間、全ての氷を叩き落とされた少女の顔が驚愕に歪む。
好機だ。ナチはすぐさま足を動かし、少女に詰め寄った。
開戦を告げた葉を拾い、符へと変換すると、それを少女の胸に向ける。丁度、心臓の位置に。
「負けました」
少女は両手を上げ、降参のポーズを取った。それを見ても、符を下ろす気にはなれなかった。
「どういうつもりだ。僕を殺すつもりだったのか?」
少女は首を横に振る。
「殺すつもりはなかったよ。ただ、お兄さんの実力が確かめたかっただけ」
ナチは態度には出さなかったが、内心困惑していた。
何の為にそんな事をする必要があるのか、ナチには皆目見当もつかなかったから。
「それを確かめてどうするの?」
「もし、お兄さんが強かったら、私達に協力してもらおうと思って」
「協力? どういう事?」
彼女が何を言っているのか、ナチには全く分からない。
「悪いけど悪事の片棒を担ぐつもりはないよ」
「違うよ。悪い事じゃない。純粋に困ってるから助けてもらおうと思って」
「……何に困ってるの?」
聞く必要があるのか迷いながらも、ナチは口に出した。少女の顔に笑顔が灯る。
「理不尽な暴力」
「……は?」
ナチは、とうとう心に溜めていた困惑を表情に出した。少女が口にするには似つかわしくない言葉が紡がれた事実に、ナチは動揺を隠す事を止める。
「ごめん。何を言ってるのか全く分からない。どういう事? 君達は誰かに暴力を振るわれてるの?」
「私が住んでる街は、強い奴が偉くて、強い奴が絶対だから」
実力が物を言う弱肉強食社会、という事だろうか。それならば、彼女が言っている事にも納得がいくが。
「その強い奴が君達に理不尽な暴力を振るっているって事?」
少女は首を縦に振った。ナチは彼女に向けている符を下ろそうか迷った。彼女が言っている事がもし真実ならば、符を向けるべき相手は目の前の少女では無くなる。
だが、今日初めて出会った彼女の言葉を鵜呑みにする程、ナチはお人好しではない。まだ信用に値するだけの情報が彼女から得られていない以上は、符を下ろすべきではないと思った。
「ごめん。僕はまだ君の言う事を完全に信用できない」
「じゃあ……」
落胆を浮かべる少女の視線が地面へと向けられる。
「だから、君が言う事が本当か。証明してほしい」
一度、伏せられた視線がゆっくりと上がる。宝石の様に美しい澄んだ青色の瞳がナチを見る。口を半開きにしながら、間抜けな顔を浮かべている少女に向けていた符を、ナチは下ろす。
それをポケットに入れながら、ナチは一歩下がった。
「もし、君が言っている事が本当なら僕が君を守る」
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