アヴェリアム・コード ~消えゆく世界と世界を渡る符術使い~

@bojojojo

第1話 プロローグ

 鍵が落ちていた。


 鍵にも、ナイフにも、短刀にも見える一見、刃物の様な鍵。材質は銀のみで構成された純銀の鍵。鍵の柄、と呼んでいいのか分からないが、柄と思われる部分には、少年の知らない言葉が書かれていた。


 少年の知らない言語、それは梵字という言語らしい。ピンと来ない。少年の国では使われていない言語だ。



 少年は鍵をまじまじと見つめた。他には何か変わった特徴はないかと、少年は目を輝かせる。少年は好奇心が強いという訳ではないが、それでも人並み程度には持ち合わせていた。



 鍵を日光に当て、水に沈め、火で炙ったりしたが、何も変化は起きる事は無かった。というよりは、この鍵は何も受け付けない、と言った方が正しいかもしれない。



 光を捻じ曲げ、水を弾き、火を近付けると少年には見えない、空気の層を展開している様に思えた。



 少年が次に何を試そうか、などと考えていると、村に住む友人から鍵について問われる事が何度かあった。その度に少年は、刃物を拾った、と言い切った。



 少年は村では真面目で優しく、義理堅い性分であったため少年が刃物と言い切ると、友人達はそれをすぐに信じた。



 誰もが、この刃物にしか見えない得体の知れない存在を、銀の鍵だと疑うことは無かった。



 なぜそれを少年が刃物だと思わず、鍵だと断言できたのか。それは、鍵がそう言ったからだ。


 この鍵は意思を持ち、あらゆる言語に通じ、様々な知識を持ち合わせていた。知能ある鍵だったのだ。



 若年とも壮齢ともいえる様な包容力のある女性の声で、少年に語り掛け自身の素性を明かした。鍵であることや構成材質、鍵に干渉しようとする物理現象に関しては全てが無効化される事も、鍵自身が言っていた事だ。「最強の盾」。それは鍵が自称していた言葉。



 確かにその言葉通りの力は、持ち合わせている様にも思えた。確証から言っている訳ではなく、経験や知識が足りない幼い心が、そう幻想を抱かせたのかもしれない。


 少年と呼ばれる様な年頃の男子ならば、誰しもが「最強」という言葉に憧れてしまうもの。その例に少年も当てはまってしまったという事だ。



 少年は鍵に質問をした。



 この鍵は何の為にあるのか、と。豊富な知識量と、全ての物理現象を受け付けない「最強の盾」としての能力。そして、鍵に宿った自我。これらは、何をする為に必要なのだろうか。蛇足ではないのか、と思わずにはいられなかった。



 強力な力が必要という場面が、この鍵を作った人間にはあったのかもしれない。越えられない天災を乗り越える為だったのか、遥か高みにいる強敵を打破する為だったのかは分からない。力が必要な場面があったことは間違いない。でなければ、こんな力は必要ない。



 備え付けられた能力が高ければ高い程、目の前を阻む困難は高かったのではないだろうか。この鍵は、何か強大な困難に立ち向かう為に作られた、と少年は思っていたのだ。



 鍵は言った。



 私は、世界を渡り歩く鍵。世界と世界を繋げる力を持っている、と。



 鍵は、ある目的のために世界を渡り歩く必要があるとも言った。その目的が何なのかは鍵から告げられることは無かった。それでも構わなかった。



 その目的の為には、生身の体を持つ人間が必要だと鍵は言った。少年は心を躍らせる。その条件は少年でも突破できるから。少年らしい無邪気な笑顔を浮かべ、目を輝かせる。かつてない程の興奮が、少年に答えを急がせる。



 平穏に生きて、平穏なまま死んでいくと思っていた自分が、平穏な日常から脱却するまたとない機会ではないだろうか。おそらくこの機会を逃せば、この村で一生退屈な人生を過ごす事になる。一生空虚な生活を続ける事になる。そんなのは嫌だ。



 だから、少年は決意をした。鍵と共に、世界を渡り歩く事を決めた。その決意に何の疑念も抱かない。だって、これから幸福に満ち溢れた生活が待っているはずなのだから。



 少年はそれから、数々の世界を渡り歩いた。ロボットと呼ばれる人工生命体が暮らす世界。巨大な図書館の様な、本しかない世界。戦争と内紛が絶えない、血で血を洗う世界。「サムライ」と呼ばれる男達が「カタナ」と呼ばれる武器を持ち、戦う世界。



 鍵曰く、世界は無数にあるらしい。数える事すら、馬鹿らしくなる程に。



 鍵はそれを無限、と称した。


 少年はその事実に、内心喜びを隠しきれなかった。無限の世界が存在するという事は、寿命が尽きるその日まで世界を渡り歩く事が出来るからだ。終わりなき旅。少年を待っているのはそれだ。



 退屈な日常など、既に存在しない。刺激に満ちた世界が、無数に広がっている。



 こんなに幸せなことはない。少年は一生鍵に付いていこう、と決めていた。その為には少年自身も強くならねばならない、と思い少年はあらゆる世界で力を身に着けた。「最強の盾」の側に在り続けるのだから自身も最強にならなければ、と少年は力に執着していった。



 技術や技、時には世界特有の神秘な術も習得できるものは全て習得した。



 やがて年月が経ち、少年は青年になった。



 青年は鍵にも一目置かれるほどに実力を身に着け、渡り歩いた世界の先々で名を轟かす程にまで成長した。それでも青年は、慢心する事も、傲慢になる事も無かった。常に鍵と共に在る存在として相応しくある様、心掛けていたからかもしれない。



 そうしていなければ、不安だったからだ。鍵が自分の下を離れるのが怖くてたまらなかった。強く在り続けなければ、鍵は違う人間の下へ行ってしまう。そう思ったら、盲目的に力を追い求めていた。



 青年と鍵が共に世界を渡り歩いてから、百回目の世界渡り。



 青年は初めて世界を渡る事に恐怖を覚えた。



 自然も機械も人も、一つも存在しない見渡す限り真っ白な世界。どこまで歩いても白で埋め尽くされた宇宙空間の様な世界。方向感覚などすぐに役に立たなくなった。何千、何万歩と歩き続けた青年の精神は徐々に追い詰められていった。恐怖が心に生まれる。焦りが生まれる。



 出口の無い世界。どちらに進んでも道は無く、それでも青年は道なき道を走った。生命の無いこの空間を、ひたすら走り続けた。走り続ける事で、胸に抱える恐怖を払拭しようとした。だが、駄目だった。どこまで行っても不安は増え続けるばかり。



 究極の閉鎖空間に、青年が心折れそうになった時。青年の腰から一つの銀色が落下する。



 鍵。



 そうだ、鍵でこの世界を出よう。今までの様に、違う世界に渡り歩こう。そうすれば、この不安も。




 青年は鍵に呼び掛けた。答えない。焦る心のままに、何度も呼び掛けた。優しく呼び掛けていた口調も、最後には怒声の様になった。



 青年は白の世界に座り込んだ。言葉は出てこない。この世界で死ぬのか。この牢獄の様な世界で、誰にも気付かれる事なく。



 嫌だ。こんな場所で死ぬなんて。



 青年は気付けば叫んでいた。反響すらしないこの世界で。本当に声は出ているのだろうか、と疑いたくなる。それでも叫び続ける。そうしなければ、心が押し潰されそうだったから。心が消えてしまいそうだったから。



 出せ! ここから出せ!



 その声は誰にも届かない。と思われた。



 青年の声に反応したかの様に、目の前に赤い光が姿を現した。鮮血の様な赤。神々しい赤光を放ちながら、眼前の光は光輝を増していく。



 あまりの眩しさに青年は思わず目を両腕で隠す。腕の隙間から覗き見ようとするも、赤い光はより一層明るさを増し、青年はそこで目を閉じた。目を閉じていても分かる。赤の閃光。それは青年の心に抱える不安を恐ろしい勢いで増長させる。



 声が聞こえる。相変わらず目は開けられないが、誰かが直接脳に語り掛けて来ている。脳に反響する肉声。その声が響く度に青年は呼吸を乱した。呼吸が出来ない。呼吸が止まる。空気が無い訳ではないのに、呼吸器官は何も問題は無いのに。


 何度も、窒息しかけては正常さを取り戻す。

 


 鍵の声ではない威厳に満ちた男性の声。恐怖と不安に押し潰されそうになっている青年の脳に響く威厳ある肉声は、青年にある真実を非情に告げる。



 お前は、この空間で一生を終える。ここは監獄。ここは牢獄。罪を犯した者を閉じ込めておく、白の監獄。ここでは全てが意味を持たない。どんな力も無効化される。ここは天国、ここは地獄。どちらに見えるかはお前次第。



 青年は絶句した。言葉が出てこない。代わりに出て来るのは乱れた呼吸。過呼吸になったかの様に短い間隔で吐き出される熱い吐息。苦しい。誰か助けてくれ。この地獄から僕を救い出してくれ。そう願いながら、赤い閃光が消え去るのを待った。



 赤い閃光が消えると同時に聞こえなくなる肉声。その事に安堵しつつ、青年は呼吸を整える。



 そして呼吸が整うと同時に、心に生まれる僅かな静寂。



 それを乱さぬ様、青年は目を閉じた。何をする訳でもない。その場所に足を抱えて、体を丸めて、呼吸をするだけ。そうしなければ、心が壊れてしまう。あっという間に壊れてしまう。何も考えてはいけない。一片の思考すらも許されない。



 思考が毒となり、心を侵す。壊れかけた心の壁を溶かしてしまう。



 眠る事すら許されないこの閉鎖空間で、青年はただ瞼を下ろし続けた。




 そして青年、は途方もない時間を目を閉じて過ごした。青年の心を埋め尽くしていた恐怖や不安が希薄になる程には、青年の心は落ち着きを取り戻していた。



 平静を取り戻した青年は黙考する。



 この空間は確かに地獄だ。虚無の様な時間が永遠に続くこの世界は、村で暮らしていた頃の何倍も退屈で、つまらない。


 だが、見方を変えれば外敵は居ない、政治も戦争も商売も無い。争いの無い世界。青年の感受次第で、天国と地獄、どちらの側面も平等に用意されている。



 青年は考える事にした。何がいけなかったのだろうか、と。平穏で退屈で刺激がない村での生活を受け入れていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。同じ世界で旅を続けていればこんな事にはならなかったのかもしれない。



 でもそれは、本当に自分なのだろうか。鍵と出会ったから今の自分が形成され、今に至るまでの努力が彼を強者として押し上げてくれる結果になったのではないのか。ならば、それは恥ずべき事ではない気がする。



 誰もが何かを成す為に努力し、切磋琢磨して己を高めようとする。その努力が無駄だと言い張るのならば、それが罪だと罵るのならば、それを断言する奴こそが罪ではないのか。


 努力無しで誰かの側に居られるのならば、是が非でも教えてほしい。



 何だか、無性に腹が立ってきた。青年は上を向いた。もうどこが上なのか分からないが。力の限り叫び続ける。ここから出せ、と。上に向かって、炎を、水を、風を、雷を、光を、音を、放つ。



 虚空に向かうそれらは、目の前で霧散した。それでも青年は上に向かって、術を放ち続けた。無駄だと分かっていても、放たずにはいられなかった。



 眠り続けた体は弱っている。だから、すぐにガス欠を起こす。貧弱なエンジンで強力な術を放ち続けた反動。青年はすぐ力尽きた。



 だが、青年は虚空を睨みつける。何も存在しない白い壁を睨み続ける。居るはずなんだ。この世界のどこかに赤い光を放つ男は居るはずなんだ。



 届かない。だから、何だというのだ。届けようという気概が無ければ一生届く事は無い。今回が無理でも、次がある。ここは永久不変の監獄。時間は無限にある。チャンスも無限にある。



 青年は目を閉じた。体を、力を、心を癒す為に。次のチャンスの為に全力を発揮する為に。



 青年はそれから術を放っては、体を癒した。何度も、何度も、何度も。何度もチャンスに挑んだ。そして、星の数だけ失敗を繰り返した。



 それから、どれほどの時間が経ったかは分からない。物凄く短い時間かもしれないし、物凄く長い時間だったのかもしれない。青年は異変に気付き、目を開いた。目を開き、辺りを確認する。



 見渡す限りの白は変わらない。



 青年の肉体にも変化はない。



 青年は自分の足下で、黒い何かが蠢いているのが見えた。




 それは、鍵だ。



 だが、かつての銀色は失われ、柄も刀身も全てが黒く染まっていた。白の空間に出現した白以外の唯一の色彩。濃い黒。久し振りに白以外の色を見た、と青年は呑気にそんな事を考えていた。突然の変化に思考がまとまらない故の現実逃避だったのかもしれない。



 鍵が、青年の胸の高さまで浮かび上がり、止まった。鍵の声が青年の脳に直接語り掛けてくる。安心する声。鍵の声を聞いただけで、青年の精神は落ち着いた。何と単純な男だろうか、と自分を笑ってやりたくなる。



 手に取れ、と鍵は言った。青年はその通りに手を伸ばした。鍵の言う通りにして間違いが起こった事などないのだから。鍵の言う通りにすれば大丈夫なはずだ。



 青年は鍵を手に取った。柄を力強く握る。行こう、と青年が口にした時だった。



 青年の精神に何かが流れ込む。汚染された激流が青年を侵食していく。体が動かなくなる。思考も既に、乗っ取られつつある。動かない頭で、必死に探る。



 暴風が猛り、雷鳴が轟く、精神内部は青年を簡単には近付けない。近付く事は出来ない。青年にこの暴風を突破する力は無い。ならば、と青年は暴風の内側を見やる。あらゆる術を使い、内側を透視する。



 見えない。もう一度、見る。まだ見えない。ならば、見える距離まで移動するだけだ。青年は近付いていく。そしてもう一度見る。微かに見えた。更に、術を重ねる。青年の全てを以って暴風内部を見る為に神経を注ぐ。



 暴風の内側を青年はようやく透視する。



 青年の精神に居るのは、乗っ取ろうとしているのは、黒い鍵。青年の相棒。世界を渡り歩く力を持った最強の盾。その相棒は青年を乗っ取る為に、青年の心に黒い何かを流し続けている。


 相棒の姿を見間違うはずもない。あれは、間違いなく鍵だ。



 どうしてだ? 何の為に? お前は何を……?



 青年の問いに答える様に、声が暴風に乗って届く。



 鍵は元々、この白の監獄を統治している神を殺す為に旅をしていた。その為に幾千の世界を渡り歩き、ようやく自身を操る事の出来る、愚かで滑稽な傀儡を見つけた。自ら従順に服従してくる傀儡。頼んでもいないというのに、勝手に力を身に着け、褒め称えれば更に研鑽を積む都合の良い道化。



 そして、この瞬間。憐れな道化は、ようやく役目を終える。



 誰でもよかったそうだ。白の監獄に連れて来てくれる者ならば、誰でも。



 青年は更に問いを重ねた。今から神を殺しに行くのか、と。



 青年の問いは半分正解。今から青年の体を操って神を殺しに行く。それは合っている。


 鍵が黒く変色した理由。それは、世界を渡り歩く能力を封じられた事が原因だった。世界を渡り歩く事を封じられ、長い年月を監獄に留まった結果、鍵は暴走した。



 白の監獄にはあらゆる力を受け付けない結界が張ってある。それは鍵に備わっていた能力「最強の盾」の上位互換と言っても過言ではない程の、鉄壁の要塞。鍵の能力を封じ込める程の能力。それは神の名に相応しい強力な力。その結界を破る為に、鍵は暴走を始めたのだと、鍵は言う。



 暴走した結果、鍵は能力の性能を完全に引き出し、神の結界を上回る力を体現する事が可能だという。


 鍵は言った。神は殺す。だが、それだけではない。私はこの世界ごと破壊する、と。


 青年は言った。好きにすればいい。鍵ともう一度、旅が出来るのならば、それを神が邪魔をしてくるというならば、神を殺す事はしょうがない、と。



 青年は完全に鍵に身を預けた。鍵が青年の体を使って何を行っていたかは、一部始終を精神内部から見ていた。凄まじい力で結界を破り、神が悠然と構える玉座にたどり着くと、鍵はあっさりと神を殺した。



 本当にあっさりと、まるで蟻を踏み潰すかのように。



 神が消滅したことで、結界は崩壊し、白の監獄も終焉を迎えようとしていた。世界の終わり、というものを青年は初めて見た。この世界が歩んでいた軌跡が、今に至るまでに刻んだ記憶が、一瞬で無に帰す。それを寂しいとは思わなかった。



 これから、また新たな旅が始まる。そう思えば、寂しいという感情は微塵も起こらなかった。


 白の監獄が終焉を迎える少し前に、青年と鍵は世界を出た。白から黒へ。無限の糸が世界と一本の大樹を繋ぐ、世界樹と呼ばれる空間に青年と鍵は到達した。



 どこに行こうか?



 青年は問うた。だが、返答は無い。しばらく待っても返事が返ってくることは無かった。不思議に思った青年は鍵を手に取った。



 鍵は黒いままだった。神を殺し、世界を渡り歩く能力も行使出来るようになったというのに。鍵は暴走状態のままだった。



 世界を渡り歩いていないからだろうか。青年はすぐに、次の世界へ向かおうとした。どこでもいい。どんな世界でもいい。鍵が元に戻るのならば、幾度の戦乱に巻き込まれたとしても構わない。



 青年は手を伸ばす。世界樹から伸びる白銀の糸に。青年が世界に繋がる世界樹の糸を手にしようとしたその時だった。



 君はもう必要ない。



 そんな声が、脳に響いた。その声の主は無論、鍵。青年は思わず鍵を握る力を緩めた。手からこぼれ落ちた鍵は、青年の目の高さまで浮遊すると、とてつもない速度で世界樹へと向かっていく。



 世界樹から伸びる白銀の糸。世界と世界樹を繋ぐ糸。それらを鍵は次々と断ち切っていく。世界樹から切り離された世界は、あっという間に輝きを失い、徐々に黒の空間と同化。すぐに見えなくなった。無数に存在していた世界が、瞬く間に数えられる程度にまで減少していく。



 青年はようやく気付く。世界樹は言わば心臓、脳、血潮。心臓が全身に血液を送る役割を持つ様に、世界を維持する力を世界樹が世界に送っていたのだ。心臓が、頭脳が失われれば、世界だろうが何だろうが死ぬ。鍵は今、世界を大量に殺しているのだ。彼女は今、無数の世界から心臓を取り上げているのだ。


 青年は鍵を止める為に、動いた。だが、神を殺す程の力を持った鍵に青年の力など届くはずもない。そんな事は当然分かってはいる。が、それを黙って見過ごす事も出来ない。



 世界の消失。それは青年が望んだ、永遠に続く旅の終わり。そんな事には絶対にさせない。



 だが、青年の必死の抵抗虚しく世界は二つを残して、その全てが完全に黒に同化した。蹂躙され、望まない死を強制的に押し付けられる世界を、黙って見ている事しかできなかった青年の心身は限界に近い。酷い有り様だ。



 鍵の横に立つ者として、相応しい力を手に入れたつもりが、全く歯が立たなかったのだから。


 青年は、黙って鍵を見上げた。その瞳に、表情に込めた感情が何なのか、青年にはもう分からない。



 青年を哀れに思ったのか、鍵は青年を見下ろす様に青年の頭上で静止した。青年は鍵を見上げる。真っ直ぐに見つめ、鍵の言葉を待つ。そして、彼女の声が脳内に響き渡った瞬間、青年は希望を見出した。



 世界樹から離れた世界はまだ生きている。かろうじて、だがな。世界樹から切り離された世界が消滅するまで、八七七五時間。それまでに世界樹に糸を繋ぎ直せば世界が助かる可能性はある。お前はどうする? 助けたいと望むか? それとも……。



 青年は答えた。助ける、と。もう一度、君と旅をする、と。


 そうか……。ならば猶予をやろう。お前に世界を救う機会を与えよう。これが最初で最後の好機。足掻いて見せろ。みっともなく足掻いて、もう一度ここまでたどり着いて見せろ。


 やってやるさ。世界は僕が救う。世界を消滅させたりはしない。


 残る世界は、後二つ。これが最後の世界渡りにならない事を祈っているよ。



 青年が口を開こうとした瞬間、青年の腕を何者かが引っ張った。腕に絡みついているのは、糸だ。世界樹から伸びた糸が青年の腕を引っ張っている。逆らう事の出来ない理不尽な力で、青年はまだ生きている世界の一つに吸い込まれていく。


 逆らえない引力に青年は身を委ねながら、鍵へ一瞥する。


 青年は驚愕に目を見開いた。


 鍵は黒い光に包まれ、人の姿に形を変えた。黒く長い髪を翻しながら、青年を見つめるその姿は、正に世界樹を滅ぼさんとする黒の女神。神々しい美貌に、美しい四肢。白のドレスに身を包んだその姿に見惚れながら、青年は鍵がこちらに向かって何かを言っている事に気付いた。



「さよならだ、ナチ」


「またね、だよ。ナキ」



 遠ざかるナキ。その彼女の口が僅かに動く。たった数文字の言葉。それをナチは読み取る事が出来ないまま、ナチは世界を渡った。

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