第十幕『ジャックの苦悩』
星空を背景に、少年ジャック・ジンは船の甲板で浮かない顔をしていた。
その瞳は虚ろに、光のない夜空の色を映し出す。
「くそっ……なんで僕が――」
夜の闇よりも暗い影が、黒服のその背中に渦巻いていた。
それは自分の運命を呪う、少年の苦悩を具現化したものなのだろうか。
ジャックは、丸眼鏡の奥で瞳をとじる。
時々こうして独り、忌まわしい記憶を辿っていく。
少年には生みの親の記憶がない。
ただ一つわかっていたことは、母親に捨てられたということだった。
まだ計算も教わらないほど幼かったジャックは、
雨の降る空港に一人、置き去りにされた。
親を探す術を知らず、
この場がどこなのかさえもわからず立ち尽くしていたことを、
少年は茫然と思い出す。
覚えているのはただそれだけだった。
それ以前の事は何も思い出せなかった。
それでも、思い出そうとするような”記憶がある”という事は、
どこか胸に引っかかるものがあった。
思い出そうとすると、頭が割れるように痛む。
頭の中で、過去の記憶に無理やり蓋が縫い付けられているとすれば、
強引にこじ開けようとすると痛みを伴ってしまう。
それは少年にとって恐怖だ。
今のジャックに声をかけられる者は、団員の中にはいなかった。
それもそのはずである。
重大な役に指名をされたジャックは、女嫌いを理由に悪態をついた。
それは先ほどの出来事だ。
――
「今回は俳優、姫の誘拐をどちらもしてもらわなくちゃいけない団員がいる。
それはアンタよ、ジャック」
他の者ももれなくそうなのだが、
団長の言葉を聞いてジャックは耳を疑った。
自分が女嫌いなのに、どうしてそんな事が言えるのだろう。
団長もそれを知っているはずだ。
この役は自分の適任ではない。
そしてジャックのした返事は――「いやだ」
当然、その場の空気は荒れた。
「んなこと言ったってどうするんだ!?」
「どうしてジャックに‥‥‥」
「ジャックよりもシドの方が向いてるんじゃ……」
「ジャックには無理だぜ」
団員たちは口々に言う。
それを聞くや否や、団長ライラはジャックを諭す。
「アンタしか、姫に近づける役はいないのよ。今回の演目を考えてごらん」
オレリアで上演予定の演目は、『少年と小鳥』という話だ。
今回ジャックは、その主演の少年役を演じる。
ジャックはこの盗賊団の最年少。
この役にはジャックが一番合っているのだろう。
「“少年と小鳥”――この演目は、
オレリアの王女レナ姫が大そう好んでいらっしゃるとのことで、
国からのリクエストだ。主役の少年役は、
舞踏会でレナ姫の隣の席に招待されているの」
だからレナ姫を誘拐するのはジャックが適役、
というのが団長の言い分だった。
しかし、ジャックはその言葉を簡単には受け入れる事が出来ない。
蒼の瞳は冷たく、団長の方を睨む。
「僕は王女を誘拐するなんて嫌だ」
まるで駄々をこねる子供のように。
ほかの団員は皆、これには冷や汗ものだった。
この中でこんなことを言うのは唯一ジャックだけだろう。
最年少というものもあるが、
ジャックは今まで殻で覆われた卵のように扱われてきた。
そしてそのような生き方をしてきたし、さらにむしろ、
ジャック自体がまだ卵そのもののような人物であるのかもしれない。
それは繊細で、割れてしまうほど衝撃に弱いというのもある。
単純にわがままなだけとも言えるが、団員の中でいうと、
世間知らずといえるのだろう。
それからもう一つ。
団長ライラは生物学上男ではあるが、普段はいわゆる”オネエ言葉”を使う。
しかし、それには品があり、その人の味となっていた。
しかも抜群の統率力で団員をまとめている事から、
その人格や人柄は、尊敬はしても軽蔑するような者は決していない。
一方、団長の方は表情一つ変えずに――
「それじゃあ好きにしてもらうよ、ジャック。アンタは盗賊失格よ」
団長は決して、滅多な事ではそういった言葉を発しない。
その言葉は、団からの追放を意味するからだ。
周りの者は息を飲んで見守る。
そして厳しく、団長はジャックに言い放った。
「……やんのかやんないのか、
港に着くまでに外で頭冷やして来な!」
受け取り方によっては考えるチャンスを与えるような言葉だ。
だがジャックは、納得いかないといった顔をしたまま、部屋を後にした。
「さて……。と、なると代案を考えるわ。演目は、変更しようかしら」
盗賊団の会議はしばらく終わらない。
夜が更ける程にまで。
「くそっ……なんで僕が。なんで……僕なんだ」
盗賊団を辞めるか、辞めないか。
(……でも)
自分はどうしても女性に触ることができない。
(どうすれば。一体どうすればいいんだ……)
ジャックは独り、夜風に当たりながら己の運命を苦悩していた。
港へ着くまでには決心できそうにない。
いや、ジャックの心が揺らぐには、何が起きようと到底不可能だ。
姫を抱きかかえようとした瞬間に無様な姿に成り果て、
大悪人として首を刎ねられること以外想像できなかった。
その想像はとても恐ろしいものだ。
次第に視界が渦を巻くような気持ち悪さが、ジャックを覆う。
――……っ!?
突如、切り付けられたような感覚が頭を襲う。
激しい痛みは全身をも貫く。
今まで体を覆っていた卵の殻が割れ、
決壊したダムのごとくどす黒い闇があふれ、
飲み込まれてしまうような恐怖感。
本当に頭が割れて、死んでしまうのかと、精神的にも不安定だった。
(なん……だ……?)
そこからの出来事を、自ら知る術はない。
――ジャックは意識を失ってしまったのだから。
――かあさん、‥‥‥どこなの? ひとりぼっちでこわいんだ。
失われた意識の中で、幼き日の少年の声がする。
――ぼくどうすればいい? どこにいったの?
(僕は……どうしたらいい? また、独りぼっちか?)
ジャックは夢の中で、自らの人生をかえりみる。
――幼い頃。
母親に捨てられたせいなのか、女性に対して見えない壁ができてしまった。
自分が女性だと思う人物には、触れることも触れられることも恐ろしい。
半径1mほどに女性の気配を感じると、何故だか寒気がするのだ。
その度に心は氷のように冷たく、鋭く、その対象に対して嫌悪感を抱く。
触れられると頭痛や吐き気、
体中に起こるかゆみなどの症状に苦しむことになる。
なにも、母親に捨てられたくらいでそこまでなるものかと、
そんな風に言われた事もあった。
自分でも不思議に思う程ですらある。
そうなったのはなぜなのだろう。
盗賊団『マスカレード』に拾われ、理解を得られるまで大変だった。
母性的な愛や触れ合いを求める一方で、
女性だけに近づかずに済む環境は殆どありえなかった。
何度、体の不調と恐怖感に襲われたことか。
思い出すのだけで頭が痛くなる……。
ああ、もうこれ以上ここに“僕”が居ることは無理みたいだ。
僕は知ってしまった。
僕は”何かに”意識を奪われたんだということを。
――
”彼”が目覚めたとき、少年はその場から姿を消した。
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