第六幕『少女の名』






「ナイト様……」



 伸ばした手の先には何もなく、

ただ、目の前は絶望で真っ暗だった。


(あ……)


 いつもと同じ、目を閉じるより暗いこの暗闇が、

少女が夢から覚めたことを教えてくれた。


 しょせん、夢は夢。

目覚めれば、とてつもない虚無感に襲われる。


 そんな日々を、もうかれこれ幾年も過ごした。

気の遠くなる歳月の間、少女は空想し、演じた。

理想の自分を、まだ知らぬ幸せを。


「ホーリーナイト……」


 夢に現れた男の顔は、最後に見ることができたのか、できなかったのか。

ぼんやりとして思い出せなかった。


(私の望みを叶えてくれるといったのに)


 もしあの時、心の奥では死を望んでいたのなら、

ここはすでに死の世界とも考えられる。


 貴女は既に死んでいると言われても、

何の感情も湧いてこない。


(――ああ、そうか。

結局は、どちらを選んでも、あるのは死……)


 自分は、この死の運命から逃れることは出来ない。

望んだものは、夢の中に消えてしまった。

死を明日へ控え、生きた心地がしない


――とはいうものの、生きているとはどういうことなのだろう。


――どうすれば今、自分が生きていると思える?

己が生きていたと証明できる?


(所詮、夢は夢。わかっていたはずなのに)


 一度目覚めると、先程まで居た場所に戻ることは不可能。


 夢は儚く、ささやかな祈りを聞いてくれる神はどこにもいない。


「ああ、こんな人生とは。

虚しい」


(そして呆気なく、終わってゆくのね)


――果たして私に、この世に生れ出た意味はあったのだろうか。


 少女の嘆きは心の中だけで響く。


「私の、騎士……」


 そして深く、少女が落胆のため息を吐いた事さえ、

知るものは一人として存在しない。



――



「夕食をお持ちしました」


 時を知るのは、いつもこの声がした時。

 食事の時間が来るたび、黒っぽい服の少女が

ささやかな灯りと共にそれを運んで来る。


――その時、重い扉は開くが、私はここを離れられない。

 何故かはよくわからないが、

目には見えない力が働いているようだった。


 闇色の服を着た小柄な少女は、どこからか本を取り出し、

ページをめくる。

 すると、本の中のとあるページから、鍵の束が現れる。

 その中から、慣れた手つきで一つを取り出す。

そして、小さな手で淡々と鍵を開ける。それが、少女の仕事。


 少女が使っているのはなんとも不思議な本だが、

とても大切に、とても慎重に扱っている。

 他の人間がこの扉を開けているのは見たことがない。


 そして、この部屋の数少ない家具の一つである、

簡素な木製テーブルの上に銀色のトレイを置く。

(部屋の家具は、小さな一人分のテーブルと、狭いベッド。

それからあとは……食事時だし、ノーコメントで)


 今日の食事の内容は、いつもより、

多少ではあるが豪華なようだ。

 いつもは銀の安っぽい食器に、

どれも味がわからないような食事だった。


 しかし特に、隅の皿に乗せられた、スポンジのように柔らかそうな、

白い箱のようなものが気になった。

 円を何等分かに切り取ったような、扇形の箱のようなそれだ。

イチゴが乗っているので、食べ物なのだろう。


「これは、何?」


 そこでふと、少女へ質問を投げかけてみる。


「こちらは、明日へ迎える誕生日のケーキでございます。

ささやかですがお祝い申し上げます」

 表情は一つも変わらない。

仕事の一つをこなしただけのようで、淡々とそう述べた。


「それでは私はこれにて」

 フリルのあしらわれたエプロンの前で手を揃え、

少女は丁寧にお辞儀をする。


 闇色のスカートがふわりと広がると、身を翻す。

そうして再び、重いドアの向こうに消えていった。

 ガチャリと鍵の音がした後、

そこにさらに鎖もかけられる。


 あの少女は、いつもこんな感じだ。


 冷たいと言えばそう感じる人もいるだろう。

しかし、言葉遣いは柔らかく丁寧なものだった。


――逃げようと思えば、

もしかすると逃げられたのかもしれない。

 相手は自分よりも小柄な少女。

しかも自分より幼いだろう。


 しかし、逃げようという欲が湧かないのだ。

決して逃げられはしないと、

心の底ではわかっているからだろうか。


「誕生祝い……これはどういう皮肉なのかしらね?」

(私にとって……自分の誕生日など、呪いでしかない)


 眉間にしわを寄せながら、添えてあった小さなフォークで、

ケーキの角をふわりとすくいあげる。


 口に入れた瞬間――

これは、甘いという味、感情なのだろうか。


 ひんやりとしたクリームと、ふわふわの生地。

この触感には、少しばかり衝撃を覚えた。


(何、この不思議な味……)


 食べるのが勿体なく感じられたのか、

“ケーキ”は最後に食べることに。


 それから。普段は食べられない、ローストチキンをナイフで切り取り口に含む。


――またしても口の中に広がり、

ゆっくりとはじけていく衝撃。


「これはなんて言う味なの!?」


 『おいしい』を知らない少女は、

わが一生に悔いなし……

とここで一人、冗談をつぶやいたとか、つぶやかなかったとか。




 食事の時間はあっという間に過ぎ、

お腹が落ち着いてくる頃合いになった。


 夕食と共に運ばれた、ランプに灯った火が消えるまで、

時間もあとわずか。


(この灯りは今まで、食事をするためだけだった)


 その火が消えるとともに1日が終わる。


――少女の夜の始まりである。


 そして今日は最後の夜。


 何故だかわからないが、今日は胸騒ぎがする。

明日を迎えるにあたって、やはり動揺しているのだろうか。


 紅の瞳が、揺れるランプの灯を映している。


 少女がそんな風に思いを巡られていると、

扉の向こうに何やら、人の声がした。


「くれぐれも、ここで目にしたことは他言されませぬように」


(……誰?)

 少女は瞳を閉じ、ありとあらゆる音に耳をすませる。 


「手短に」


 何を言っているのか、はっきりとは聞き取れなかったが、

誰かがいるのは確かだった。


 しかも一人ではない。

二人以上いなければ、会話などしないだろうから。


(一人は……さっきの子ね)

誰が来ようと、知っていさえいれば気配でわかる。



 得体のしれない何かが、扉の向こうにいる。

 しばらく様子をうかがっていると、小窓から何かが覗いた。

「誰か……いるの?」


(この声……?)


 声の主を侵入者とみなし、正面から睨みつける。


「そこにいるのは誰!」


 一瞬びくりと動いたが、何も返事がない。


 しばらく緊張が続いた後に、扉の向こうの人物は、

こちらに伝わってきそうなほどに震えながら、言葉を発した。


「あなたは……誰なの?」


 お互い相手を探り合うばかりで、何も進まない。


 こうなれば、こちらから名乗るのが早い。


 しかし、いきなり現れて名前を聞かれるとは、

なんだかおかしな気分だ。


 向こうには悪気はないらしい。

ましてや、自分に対して怯えている。

警戒するには値しないようだ。


「私の名前は――」

 何の迷いのない瞳で相手を見据える。


「一度も名乗らず終わるはずだった、名前だけれど」


牢獄の中の、少女の赤い瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。


「――レナ。私の名前は、レナ・オレリア――」


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