第6話 助けたかったのに
小学生の頃
柔道の道場からの帰り道
いじめられている犬を見た
飼い主らしきヤクザのような大男に蹴っ飛ばされながら
その犬は無理やりに綱を引かれて、よろよろ歩いていた
片目は煙草を押しつけたような丸い火傷の跡で潰れていた
残ったもう片方の目は涙でうるんで見えた
パグのような外見をしたその犬は
蹴飛ばされながら、細い尻尾をくるんと丸めていた
茶色い短毛の上からだってわかる。
あちこちに、血色した痣が見えた
止めて! とその場で叫びたかったが、勇気が出ず
代わりに私は最寄りの公衆電話に向かって全速力で走った
そして急いで、自宅の電話番号を押した
携帯電話なんてない時代だった
電話に出た母に私は急いで言った
いじめられてる犬がいる
男の人が蹴っ飛ばしながら歩いてるの
火傷みたいな跡とか、ぶたれてる跡がいっぱいあるの
いじめるなら、要らないのならうちの子にするからくれませんか?
そう言っていい?
うちは都営住宅だ
犬を飼うなんて、無理に決まっている
わかってる
わかってるわかってるんだ
でも、言わずには居られなかった
緑色の受話器を握る手はがちがち震えて
涙もぼろぼろ、こぼれていた
母が一瞬、息を呑んだのが分かった
ああ、母を困らせている。
駄目だって言われるにきまってるのに
でも、あの子を助けたい。
その一心で祈るように母の返答を待つと
母は
「連れて帰ってきていいよ」
と、言った。
私は急いで電話を切って、今来た道を引き返した
助けてあげる
うちの子になったら、絶対ぶったり蹴ったりなんてしない
火傷や傷跡に薬をちゃんと塗ってあげたい
あんな無理やり綱を引くんじゃなくて、好きなように歩かせてあげるんだ
美味しいご飯をお腹いっぱい食べさせて
いっぱいいっぱい撫でてあげたい
だけど、あの大男はどこにも居ない
辺りは住宅地で、カレーの匂いがする
あの子を見失ってしまった
諦めきれずに私はあたりをぐるぐる回った
でも、あの子は見つからなかった
――私がいじめられっ子じゃなかったら、子供特有の情報網を使って
男と犬の家を見つけられたかもしれない。
でも、子供たちから、つまはじきに遭っている私には何の手立てもなかった
打ちひしがれて、とぼとぼ帰ると
母が扉の前で心配そうに私を待っていた
母の温かい腕の中で、私は顛末を話した
助けたかった
助けたかったのに
泣きじゃくる私はどこまでも無力で
助けたかったあの子はどこまでも遠かった
力のない優しさは、極限まで無意味に近くて
悔しくて、悔しくて、堪らなかった
大きくなってからアンディを飼って
その子の分まで幸せにしたいと願った
十六歳のアンディを空の彼方に見送ってからは
毎月数千円、保護団体に寄付をした
マロンを飼うまでそれは続けた
罪滅ぼしのような
懺悔のような
でも、それとは違うような
助けたかったのに助けられなかったあの子を思い出す度に
うちの子にできなかったあの子を思い出す度に
幸せにしてあげたかったあの子を思い出す度に
私は。
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