もじのむし

備成幸

もじのむし

 奥村美咲は明るいブラウンの髪をした、おとなしい高校生だった。その日、部屋で参考書を広げていた美咲の隣に、吹き飛ばされた枯葉が一枚くるくると旋回していった。春になると桜色に開花する美馬屋山も、すっかり美咲の髪と同じ色で落ち着いたコーデになっている。

「そうだ、肉まん食べよ」

 参考書を閉じると、埃が小さく舞った。それが再び机に落ちるころには、美咲は部屋から逃げ出していた。久しぶりに外へ出ると、すっかり夏はいなくなっていた。そういえば蛙の鳴き声を聞かなくなった、と目をやると、小さな田はすでに稲刈りを終えられ、すっかり固くなった土を転がして禿げていた。

 それから肉まんとホットのお茶を買った彼女は、自然と家路から逸れていた。この時だけは、自分の将来を連想させるようなものを目にしたく無かったらしい。ベンチに腰かけると、背後にある大きな桜の木が花びらの代わりに枯葉を吹いている。大きく息を吐いてみたが、まだ白くはならない。空は涼やかな秋晴れだった。くずかごに包み紙やらを捨てて戻ってきたとき、ふとベンチの下で何かが落ち葉に埋もれている。

 箱。靴を買った時についてくるような、柄もなく黒いボール紙のシンプルなもの。蓋はすんなりと開いた。中に入っていたのは、辞書ほどもある分厚い本で、題名らしいものは無く、こちらも表紙は真っ黒であった。ページをめくってみて、美咲は眉をしかめる。すべての頁が白紙であった。

「もしかして、印刷ミスのレア物? そんな感じでもないけど」

 よく見ると、箱の底には一枚の紙切れが入っていて『文字虫飼育セット』と書かれてある。ひとまず、美咲はセット一式を持ち帰った。公園には誰もいなくなった。


 当セットをお買い上げいただき、ありがとうございます! 文字虫はきっとあなたの心を癒すことでしょう。彼らは通常の生き物とは異なり、餌も水槽も不要です。付属の本とペンがあれば誰でも飼育することができます。


①文字虫の作り方

 文字虫を生むのはあなた自身です。まずは付属の本とペン(鉛筆、シャーペン不可)を用意します。そして思い思いの文字を本に書き込んでください。単語でも文章でも構いません。


 美咲は参考書を押しのけて付属の本を広げ、ボールペンではじめのページに「肉まん」と書き込んだ。すると本は、いや、本でなく書き込んだ「肉まん」の文字が、小刻みに振るえ始めた。文字は徐々にただのぐねぐねした線に分解され、それらは徐々に中央へ集まるようにして球体を作る。そしてその球体は、心臓が鼓動をするようにわずかに動いていた。


②文字虫を作ったら

 文字虫が成長するのに餌は必要ありません。ただ、何かを食べさせようとする場合は、文字虫の隣に食べ物の名前を書いてあげてください。形容詞も一緒に書き込んであげましょう。文字虫はあなたの与えた文字をすべて受け入れ、またその文字によって変化し、成長します。


 手癖で「肉まん」と書こうとしたが、よく考えると共食いになると考えて辞めたらしい。心臓のように動くインクの隣に、美咲は「おいしい餌」と書いてみた。すると中央で丸まっていたインクたちはその形を変えて、犬のような猫のような、四足歩行の獣の形になり、「おいしい餌」を食べ始めた。

 美咲は「すごい」とつぶやくと肉まんに色々な文字を与えた。最初は「甘い餌」「辛い餌」「酸っぱい餌」といった具合だったが、次第に「カレーライス」「ハンバーグ」といったものを書くようになっていった。すると知らぬ間に肉まんは、色々な文字を取り込んで一回り大きくなり、形も人の形になっていた。


③文字虫を増やすには

 文字虫にとって自分のいるページは自分のテリトリーであり、他の文字虫を突然登場させると驚いてしまいます。必ず次のページに書き込みましょう。しかし慣れてくると、文字虫同士でページ間を行き来することもあります。


 美咲は夢中でページをめくり、新たな文字虫を次々に創り出した。ぽち、みけ、太郎、花子。ぽちは元気な犬、みけは可愛げのない猫、太郎はのんびり屋で、花子はツンデレ。数日経つと肉まんと太郎は友人になり、花子はぽちとみけを飼い始めた。まるでアパートを管理しているようで楽しくて、美咲はそれから文字虫の飼育セットを手放さなかった。授業中でもこっそりページを開いては、喧嘩する太郎と花子を肉まんが宥めている様子を見て笑いを堪えていた。気づけば彼女は、もう百匹ほど文字虫を作っていた。

 ある日の土曜日、ぺらぺらと文字虫たちを眺めていると、あるページに違和感を覚えた。何という名前を付けたのかもう覚えていないが、そのページの文字虫は誰かと話すわけでも自由に動き回るわけでもなく、ページの中央にただしゃがみ込んで、ジッと美咲を見つめているのだ。

「お腹すいたのかな」と思った彼女が食べ物の名前を書き込んでも、その虫は一切反応を示さず、むしろ書き込んだ食べ物の文字を避けるような仕草をしてみせた。


④もしも、おかしな文字虫を見つけたら

 仮に文字虫が、貴方のことをジッと見つめて全く動かない場合、これは危険な状態です。その文字虫は異常です、すぐに処分してください。そのまま放置しておくと、他の文字虫たちを混乱させたり、殺したりする場合があります。


 美咲は若干胸が痛んだが、自分の創った世界を守るために、説明書の指示に従って、その虫を処分した。処分の方法は、その文字虫のいるページに『完』『おわり』などを書き込むことだった。知らぬ間にその文字虫は、当初美咲の書いた名前の「肉まん」という文字になって、それから動くことは無かった。

「肉まん、あなたどうして」

 次の瞬間。美咲の耳に張り裂けそうなほどの音が入り込んできた。まるで世界の色々な生活音を同時に聞いているように、電車の音や誰かの話声、テレビの声が一気に耳になだれ込んでくる。思わず頭を押さえ美咲は、外へ出ると「あ」と声を上げた。自分の暮らす世界が、まったく未完成であることに気が付いた。近隣の禿げた田んぼ、公園、そして紅葉に彩られた美馬山。それ以外の世界が何一つ存在しない。肉まんを買ったはずの店も、授業を受けているはずの学校も、そして何よりこの世界には、彼女以外の人間がいない。

 世界の時を進めるような、紙をめくる音がこの世界を揺らす。画面をスクロールする音が世界を滑らせていく。

 美咲はこちらを見た。

 美咲は自分の世界を覗き込む無数の視線に気が付いた。しかし、どこから見られているのかはわからない。雲の上から、地底の底から、天井裏から、すぐ後ろから、無数の誰かが自分を見つめていることに、彼女は気が付いた。

 まずい。私は、すぐさまそのページに『完』と書き込んだ。ページには「奥村美咲」という文字が寂しく横たわっていた。


 ~おわり~

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もじのむし 備成幸 @bizen-okayama

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