第三章 見えざる敵
戦闘準備 一一月一二日(航海八日目) 一二一三時
駆逐艦〈レックス〉とコルベット〈ゲール〉は、爆雷による攻撃を実施すべく敵潜水艦へ接近していった。今のところ、この試みは実行の段階にまで至っていない。目標は既に水中へ没し、その小柄な船体にふさわしい軽快な動きで追手を翻弄し続けているのだ。
ただしその針路は徐々に東へ逸れており、北北西の方角に進むNA一七船団との距離は開くばかりとなっている。僚艦は護衛対象の脅威を排除するという、与えられた任務を十分に果たしていた。一方で戦隊の残り五隻は引き続き船団の周囲へとどまり、陣形を維持して周囲を警戒している。艦長たちは総員配置の号令をかけておらず、乗組員たちは敵が迫りくる中で、緊張感を抱きつつそれまで通り配置についていた。
一二時になると当直員が交代し、それまで勤務していた将兵たちは休息をとるべく居住スペースへと移動していった。艦橋でも当直士官の業務はフーバー大尉から、航海長であるジェシカ・シモンズ大尉に引き継がれている。艦橋にとどまったのは艦長であるホレイシアと、副長のリチャードだけだ。
引き続き艦橋に立つ事となったリチャードはいま、烹炊室から運ばれてきた昼食を口にしている所であった。勤務の合間に手早く食べられるよう、昼の献立は基本的にシンプルなものが選ばれている。
このとき準備されたのはコンビーフのサンドイッチとピクルス、ジャガイモのポタージュスープに、砂糖とミルクを大量に放り込んだ甘いココアであった。リチャードは一角に置かれた小さな机の前に立ち、時おり部下たちへ視線を向けながら食事をしている。強風と波しぶきで凍えているため、スープとココアの温かさが彼の全身に沁み渡っていった。
電話員が報告の声をあげたのは、彼が最後のサンドイッチを平らげて、名残惜しげにココアを飲み干そうとした時であった。
「〈ローレンス〉より入電。 レーダーニ小型艦ラシキ感一。本艦カラ見テ右四九度、八・五海里(約一六キロ)ニアリ」
リチャードは慌ててカップを空にすると、海図台のほうへと小走りで駆けていった。視界に入る将兵の顔が、軒並み硬くなりだしていることに彼は気づく。無論、それは波風のもたらす寒さが原因ではない。
海図台へたどり着くと、ホレイシアの呟く声が聞こえてきた。
「新手ね。狼群の本領発揮、といった所かしら?」
座席に腰かけた彼女は、正面に広がる大海原を見つめている。その表情はいつも通り穏やかで、微笑すら浮かんでいた。
大した度胸だなと、リチャードは上官の様子を一瞥して思った。
おそらくホレイシアの内心は、恐怖と緊張に満ち満ちているだろう。なにしろ彼女も実戦は初めてなのだ。しかし部下たちを不安にさせまいと、そのような思いを胸にしまって彼女は平然とした態度をとり続けている。指揮官にとって必須のスキルではあるが、同時に一朝一夕で身に付くような代物ではない。
「〈ローレンス〉より続報。 新目標ハ方位二六〇ヘ進ミツツアル模様。速力、約一五ノット」
電話員の声が再び響くと、リチャードはすぐさま思考を切り替えて現状把握に努めた。海図上で彼我の位置情報を比較してみると、新たな敵は〈リヴィングストン〉から見て右に七六度、一一・五海里に位置している。搭載しているレーダーの索敵範囲外であるため、直接確認することはまだ出来ない。おそらく可能な限り接近して船団を目視し、位置情報を把握したうえで攻撃すべく潜航するつもりだろう。
おそらく、船団が発見されるのは間もなくだ。潜水艦からの見通し距離は六海里ほどで、船舶から立ち上る煙を頼りにすれば、それ以上の距離からでも視認できる。敵は最短で一〇分、長くても二〇分前後で水中にその姿を消してしまうだろう。早急に艦艇を派遣し、可能であれば潜航前に捕捉、撃沈しなければならない。
海図を睨み続けるリチャードは制帽を右手でずらし、頭をかきながら心の中で呟いた。(問題は、何隻派遣するかだな)
理想を言えば、〈レックス〉と〈ゲール〉のように二隻送るべきだ。だがそうすると船団本隊に追従するのは三隻だけとなり、警戒網の穴がさらに大きくなってしまう。追加で敵が現れた際の対応が難しくなるだろう。ならば送り出すのは一隻だけという事になるが、そうすると『どの艦を選ぶべきか』という問題が発生する。チームを組めないという不利を、なんらかの形でカバーする必要があるからだ。
彼は考えをまとめ終えると、制帽を元にもどして上官のほうに向きなおった。
「艦長、意見具申を」
「なにかしら?」
「新目標の追撃は、この〈リヴィングストン〉のみで実施すべきと考えます」
リチャードはそう言って理由を説明すると、最後に付け加えて言った。「本艦には自分とコックス一等兵曹がいます。自画自賛するわけではありませんが、実戦経験者のサポートがありますので他艦よりも上手くやれる筈です」
「……確かに、ベテラン二人が乗り込んでいるのは心強いわね」
そう答えたホレイシアは、座席に据え付けられた受話器を手にした。
彼女が連絡をとったのは、右後方を進む〈ローレンス〉であった。同艦の艦長は最先任――つまり指揮権継承順位の最上に位置している。
「……ありがとう。すぐ戻るから、しばらく本隊を頼むわ。以上、通信終わり」
ホレイシアは受話器を置くと立ち上がり、後ろに振りかえって艦橋の端から端に視線を巡らせた。それが終わると、彼女はおもむろに口を開いた。
「信号員、船団指揮船に発光信号。 護衛指揮官ヨリ船団司令官 船団右翼前方ニ新タナ船影アリ、本艦ガ単独ニテ迎撃ス。船団警護ハ〈ローレンス〉艦長ヘ一時委譲セリ。 続いて電話員はレーダー室に、〈ローレンス〉からの情報を伝えて警戒させてちょうだい」
言い終えた彼女は再び正面を向き、海図台を数秒眺める。
「ジェシー、まずは目標に近づくわよ」
ホレイシアは当直士官へそう言うと、ついに〈リヴィングストン〉への直接命令を発した。
「面舵、針路〇六二。最大戦速」
「は、はい」シモンズ大尉はうわずった声で応じ、それを航海士に伝達した。「面舵。し、針路〇六二」
「ヨーソロー。おもかぁーじ、針路〇六二」
航海士が伝声管を用いて命令を操舵室に送り、しばらくすると〈リヴィングストン〉は針路を右に寄せはじめた。
「定針、針路〇六二」
「最大戦速となせ」
針路変更の完了を確認すると、シモンズ大尉は続けて増速を命じる。航海士が再び、伝声管に向けて声を上げた。
命令を受け取った操舵手は復唱すると、右側に置かれた速度指示器(テレメーター)のレバーを前に倒した。それによって機関室に増速を伝える信号が送られ、機関科員たちがあちこちにあるバルブやスイッチを操作してエンジン出力を増大させる。
機関出力が増すにつれて、〈リヴィングストン〉の速力はどんどん上がっていった。艦の振動と吹き付ける風が、より強くなるのをリチャードは五感で感じ取る。ホレイシアのほうは増速を確認すると、風の勢いに顔をしかめさせて一瞬だけ目を閉じた。
再び目を開くと、表情を硬くした彼女はシモンズ大尉にむけて言った。
「総員配置につけ、戦闘準備」
「せんとーう!」
シモンズ大尉は大きく間延びした声で応じると、海図台の端にある警報スイッチに手を伸ばす。次の瞬間、艦内の至る所でサイレンが鳴りはじめた。
非番の将兵は昼食や同僚との談笑、あるいは上官から命じられた課業をこなしていた。だが鐘を連打するような音が響きだすと、彼女たちはそれらを中断して――なかにはトイレに入っていた水兵もいた――駆けだしていく。
艦橋では警報発令から三〇秒ほどで、最初の一団がラッタルを登ってきた。彼女たちは壁に掛けられた『スープ皿』ヘルメットをまず手に取り、戦闘時に着用を義務付けられているそれを被る。それから当直員たちと合流し、点呼や装備の確認といった作業に取り組んでいった。その中には、ソナー員であるコックス兵曹の姿も含まれていた。
各部署の指揮官は準備が完了すると、上官にその旨を報告した。すなわち航海・砲術・水雷・対戦・機関の各科長はそれを確認し、全部署がそれを終えると艦橋に連絡する。
「艦橋要員、すべて配置につきました。通信およびレーダーも問題ありません」
最初に知らせてきたのは、既に当直士官として艦橋にいた航海長――シモンズ大尉であった。続いて後から来た水雷長と、対潜長が声をあげる。
「魚雷発射管異常なし。即時発射可能です」
「爆雷班、用意よし。ソナー班も配置につきました」
しばらくすると電話員を通じて、各々の配置についた砲術長と機関長からも用意よしとの連絡が届いた。
「機関長より。ボイラーおよびタービン異常なし、ただいま速力二七ノット」
「砲術長より。主砲および機銃、すべて用意よし。初弾は既に装填済み」
幹部士官からの報告が完了すると、リチャードは警報を止めるよう指示して腕時計に目を向けた。
(四分半。着任した頃に比べればマシだが、もう少し短縮したいな)
そう思いはしたものの、今は任務中である。改善策は母港に帰ってから、じっくり考えるべきことだ。
既に自身の担当を確認し終えていたリチャードは、海図台の脇に掛けられていたヘルメットを手に取った。頭に載せて顎紐が締めたあと、定位置に定められている艦長席の真後ろへ移動する。
「応急班、所定の位置につきました。隔壁もすべて閉鎖しております」
応急班とは副長の指揮下に各科の余剰人員を集めたもので、重大な損傷が発生した際の対処がその任務である。通路に一定の間隔で設けられた隔壁の閉鎖は、火災や浸水の拡大を防ぐための予防措置だ。
最後にリチャードは副長として、準備作業の最終報告をおこなった。
「艦長、全部署配置につきました。駆逐艦〈リヴィングストン〉、戦闘準備完了です」
「ありがとう、副長」
頷いたホレイシアは副長と同様、ヘルメットを被って座席についた。その時、電話員の声が聞こえてきた。
「レーダー室より。目標を捕捉、右六度、七・五海里にあり」
「見つけたわね」ホレイシアはシモンズ大尉のほうを見た。「ジェシー、操艦指揮は任せるわ。このまま接近してちょうだい」
「はい、分かりました」
先ほどに比べていくらか落ち着いた声で大尉が応じると、ホレイシアは受話器をとって砲術長に連絡した。
「サリー、このまま目標に接近するわ、いつでも撃てるように準備しておいて。ただ私が許可するまで、絶対に発砲しないように。……ええ、頼むわ」
彼女は通話を終えると、今度は後ろに控えるリチャードへ尋ねた。
「副長、後どれくらいで捕捉できるかしら?」
「本艦からの見通し距離は、おおむね八海里です。悪天候を考慮しても、そう時間はかからないと思われます」
部下の淀みない返答を聞いて、ホレイシアは「分かったわ」と満足げに頷いて正面を向いた。リチャードも上官に倣ってそちらに視線を巡らせる。
目前に広がる大海原は、それまでと変わらず荒れていた。上空は灰色の雲に覆われ、洋上でも波がうねりまわっている。そのような環境のなかで、〈リヴィングストン〉は上下左右に揺れながら、これまでに無い速度で疾走していた。ぶつかった波が砕け散り、水しぶき――というよりは海水の塊となって船体に襲い掛かる。
おそらく大きな波に乗り上げたのだろう。しばらくして〈リヴィングストン〉はふわりとした浮遊感とともに、文字通り海面から飛び出てしまった。艦首を天に向けたと思うとすぐさま落下し、盛大に水しぶきをまき散らしながら海面に叩きつけられる。
リチャードは近場の手すりへ咄嗟につかまり、艦橋に降り注いだ海水でずぶ濡れになるだけで済んだ。だが航海に不慣れな部下たちは、彼ほどうまく対応できない。後方では電話員がひとりバランスを崩して尻もちをつき、どうにか転ばずにいられた者も、あちこちで(女性らしい)小さな悲鳴をあげている。シモンズ大尉が「静かに」と、周囲を一喝する声が聞こえてきた。
しかし将兵がそのような惨事に見舞われても、〈リヴィングストン〉は歩みを止めない。悪天候にもめげず波を切り裂き、あるいは乗り越えながら、倒すべき敵を求めて進み続けた。
(まさに、『戦うフネ』のあるべき姿、それを凝縮したような光景だな)
そんな事をリチャードが考えていると、報告の声が聞こえてきた。
「レーダー室より。目標は右六度、六・八海里にあり」
メートル法に換算すれば一一キロほど、着実に敵艦との距離は縮まっている。
ホレイシアが不意に声をあげた。
「電話員。レーダー室に、以後は半海里ごとに報告するよう伝えてちょうだい」
「……レーダー室、了解とのことです」
電話員が連絡を終えると、ホレイシアは「ありがとう」と言って頷いた。耳にヘッドフォンを装着し、胸元に大型のマイクを取り付けたこの女性水兵は、冷静に各部署とのやり取りを続けている。
彼女のみならず、乗組員たちはみな黙々と仕事をこなしていた。リチャードの傍では航海長が操艦に努めているし、後方では見張り員たちが周囲の警戒を行っている。波に洗われ続けている艦首では、前部主砲の砲員たちが射撃準備を整えて待機していた。
密閉式の砲塔ではないため、彼女たちは常に波に洗われているはずであった。押し寄せる波にさらわれる可能性すらあるが、それでも文句ひとつ言わず、命令が届くのをただ待っている。男性兵士のそれにも劣らない忍耐力だと、リチャードは強く感じた。
「レーダー室より。目標は右六度、距離六海里にあり」
〈リヴィングストン〉は敵艦へ更に接近していたが、見張り員はまだ目標を発見できていなかった。羅針盤の前に立つ航海士――若い少尉が不安そうに電話員を見つめている。リチャードが険しい表情で目線を送るが、彼女の気持ちは理解できる。相手が先にこちらを発見し、潜航してしまうかもしれないからだ。少尉は上官の様子に気づくと、慌てて正面へ向きなおった。
「艦長、射撃を命じるべきでは?」シモンズ大尉がおそるおそる言った。「目標の位置は把握できていますし、ここは少しでも早く攻撃して……」
「まだよ」
ホレイシアは航海長の提案を半ばで遮った。
「まだ、相手を目視できていない。いま撃っても無意味だわ」
彼女の言うとおりであった。小さな潜水艦をこの距離で狙い撃てるような探査精度を、現行のレーダーは有していない。そのうえ〈リヴィングストン〉の主砲は、有効射程が九キロ前後だ。砲員たちの技量も考慮すれば、無理な相談であることは明白である。
その点を薄々理解していたのだろう。シモンズ大尉は分かりましたと、申し訳なさそうな表情で上官に頷いた。
しばらく沈黙が続いたあと、電話員の声がふたたび響いた。
「レーダー室より。目標は右五度、距離五・五海里にあり」
敵との距離は、九キロと少しになった。あとわずかで射程距離に入るため、相手を発見さえ出来れば安定した射撃を行うことが出来るだろう。だがそれでも、命中させるには何発も撃つ必要がある。百発百中などという事態は、よほどの事がなければ発生しないのだ。
右舷側の見張り員が声を張り上げたのは、おおよそ二分後のことであった。
「敵潜水艦らしき艦影ひとつ! 右に五度、距離五海里弱!」
艦橋に立つ将兵の間に、ざわめきが瞬く間に広がった。リチャードはその様子を一瞬だけ視界にとどめ、すぐさま双眼鏡を構えて報告のあったほうに向けた。
数秒の間をおいて、リチャードは潜水艦の姿をその目に捉えることが出来た。灰色の塗装を施された、クジラを彷彿とさせるシルエットが海上で漂っている。その寸法は〈リヴィングストン〉の三分の二ほどしかないため、荒れ狂う波でその船体がしばしば見えなくなった。発見に手間取るはずである。
彼が目を凝らして観察を続けると、船体の中ほどにある艦橋――先ほどの喩えに従えば、クジラの背びれに相当する――に、見張り員らしき小さな点がいくつか確認できた。艦内へ戻りはじめているのか、その数はみるみるうちに減っていく。
(まずいぞ)
リチャードは思わず内心で舌打ちした。撤収をはじめているのは、無理に外に立つ必要がなくなったからだろう。船団本隊か〈リヴィングストン〉のどちらか、あるいは両方を発見したに違いない。どちらにしろ、間もなく水中へ没するのは確実だ。
「艦長!」
「ええ」
副長の言葉に頷くと、ホレイシアは受話器を手にして砲術長へ命じた。
「右五度、五海里に敵潜水艦、砲撃はじめ!」
すでにフーバー大尉も目標を視認していたのだろう、砲撃はさほど間をあけずに始まる。〈リヴィングストン〉にとって、『敵』に向かっておこなう初の砲撃であった。
砲弾は轟音と共に、緩い放物線を空中に描きながら飛翔した。砲員たちは訓練通りに装填を続け、早撃ちのガンマンもかくやという勢いで砲撃が行われる。だが目標は正面に位置しているため、撃っているのは艦首の連装砲一基だけだ。
最初の着弾までに要する時間は、この距離の場合一〇秒ほどである。
(……駄目か)
着弾の瞬間、リチャードは眉間に皺を寄せつつ溜息をついた。次々に放たれた砲弾は、いずれも目標の手前に落下している。爆音と水柱で敵兵を驚かせたかもしれないが、それ以上の効果は期待できない。
よく見ると、敵艦は艦首を水面へ傾けだした事に彼は気づいた。潜航をおこなうべく、艦内のバラストタンクに注水をはじめたのだろう。砲撃の合間を縫って、その姿があっという間に消えていく。
最終的にはなたれた砲弾は一〇発。結局そのうちの一発も、敵に命中する事は叶わなかった。
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