第8話【第二章】

 驚くほど透明度の高い空間が、俺を包み込んでいる。


「どうだ、キョウ? とっても綺麗だろう?」


 父親が操縦席から呼びかけるが、俺は上の空。いや、海の中か。


「うわあ、すっごい! これ、全部水なんだね!」


 代わりに答えたのはユウだ。


「そうよ。お父さんは毎日、ここでお仕事しているの」


 母も会話に加わる。


 火星極地に残された湖、かつての海の名残り。父はその深海調査隊のリーダーだった。第五次火星海底調査計画。父は、かつて漁業を生業にしていた祖父の影響で、この仕事を選んだらしい。やっていることは随分違うが、一応、両方共海洋に関する任務ではある。


 地球からの移住前、ある程度の火星の知識は、有識者を始め多くの人々に供与されていた。

 火星の海というのは、主に極地の厚い氷の下に広がっている。何かしらの鉱物資源を探り当てられるかもしれないし、未知の生命体との遭遇もあり得る。そういうわけで、多くの科学者がこの計画に従事していた。


 父は、毎日の筋トレを俺たち家族に推奨しながらも、自身はバリバリの頭脳労働者だった。確かに、余暇は彼自身も運動に精を出していた。が、任務中に使うのは、潜水艇のコントローラーを操作する手先のみ。

 長いこと海中で、代わり映えのしない景色を眺めているのは、随分退屈な任務だっただろう。だが、当時の俺やユウに、そんなことは関係なかった。俺が十歳、ユウが六歳の頃の話だ。


 今俺たちが乗っているのは、一般の作業や調査を行うカプセルではない。多人数の搭乗を想定した、特殊仕様の潜水艇だ。本来なら、俺や母、ユウのいる場所には科学者が陣取り、周囲に何かないかと四方八方に視線を遣る場所である。

 それを、家族サービスという名目で父が一日だけ借り受けたらしい。今思えば呑気なものだが、それでも当時、十年前の俺たちは大興奮だった。父の狙いは、見事に達せられたわけだ。


「もっと面白いものを見せてやる。足元をごらん」


 ほとんどが透明な強化プラスチックで造られた潜水艇。父に言われた通り、足元に視線を移すと、そこには漆黒の闇が広がっていた。


「今から宝探しをやるからな」

「宝探し!?」

「本当に!?」


 俺とユウが同時に声を上げる。きっと両親は、そこに歓喜の響きが溢れているのを感じ取っただろう。


「手すりに掴まりなさい、二人共」


 母に促され、俺たちは手すりに近寄った。深海の暗さを恐ろしく思ったのか、微かにユウの肩が震えている。それを見た俺は、そっとユウに近づき、同じ手すりに掴まった。


「大丈夫だよユウ、お父さんが操縦してるんだから」

「う、うん」


 その応答からは、まだ不安を拭いきれないユウの気持ちが伝わってきた。でも、ユウだって目が慣れてくれば自然と恐怖感はなくなるだろう。


「ヘッドライト、点灯」

《ヘッドライト、点灯します》


 父の声に、潜水艇に搭載されたAIが応じる。海面からの日光は完全に遮られ、頼りはこのライトだけになってしまった。流石に俺も、背筋がぶるりと震える。


「これが火星の海だ。地球の海よりずっと海底は凸凹しているから、注意しなければならないんだよ」


 父は慣れた様子で答える。

 問題は、その直後に起こった。


「なんだ、これは」


 父が呟く。手すりに手を遣ったまま操縦席を覗き込むと、ディスプレイがいくつも並んでいた。俺には、どれが何を示しているのかさっぱりだ。しかし、その中でも一際目立つディスプレイが一つ。どうやら、海底の温度を立体表示したものらしい。


「キョウ、下がっていなさい」


 母に後ろ襟を掴まれ、すぐに戻される。だが、父はそんなことはお構いなしだ。


「こいつは大変な発見かもしれないぞ……!」

「あなた、子供たちが一緒なのよ」


 今度は父に向かって、母が注意を促す。しかし、父の耳には届いていないようだ。


《熱源を探知。海底火山と思われます》


 AIの無機質な合成音声が響く。父は自らもコントローラーを握ったまま、AIに命令した。


「安全深度を維持したまま接近だ。海中の成分採取、急げ」

《了解》


 たくさんの節がある金属製のアームが、前方へと伸びていく。


「あなた、何か見つかったの?」


 生物学者である母もまた、興奮を抑えきれないようだ。


「ここは火星の生物にとってのオアシスだ。何かいるかもしれな――」


 と、父が言いかけた直後、緊急アラームが鳴り響いた。照明は真っ赤に点灯し、潜水艇自体が、ふわりふわりと海中を舞う。


《海底に新たな熱源を探知。すぐにこの場を離脱してください。繰り返します――》

「あなた、一体どうなってるの!?」

「と、父さん!」


 俺と母は口々に叫ぶ。その間を縫うように、ユウの泣き声が聞こえる。ふと視線を前に遣ると、真っ暗だったはずの視界は気泡で覆われ、視界が奪われていた。その奥に、微かに赤い発光が見える。あれが、海底火山か。


「すまない、即刻離脱する!」


 父の操作に伴い、潜水艇の下部に設けられた上昇用フローターが、フルパワーで回転を始める。しかし、事は遅きに失したようだ。


《耐熱限界を超えます。即刻離脱してください。耐熱限界を――》

「うっ!?」


 俺は思いっきり、手すりに額をぶつけた。頭を無理やり押さえつけられるような感覚――どうやら潜水艇は、猛スピードで上昇しているらしい。だが、それもしばしの間のことだった。

 海面に出るまであと十メートル、といったところで、フローターの故障が告げられた。高熱に晒され、その上でフルパワーを出すという無茶な操艦。それで機械的に無理が生じるのは当然だろう。


「皆、ライフジャケットは着ているな? 今からこの潜水艇は、パーツを捨てて自由上昇に入る。酸素マスクを着けろ!」

「さあ、これよ。キョウ! ユウ!」


 母の手際も慣れたもので、俺とユウはすぐに潜水準備を整えた。早く海面へ上昇しなければ。


「もう少し上昇する。上手くいけば海面まで脱出できるぞ」


 そんな父の楽観的考察は、一瞬の後に打ち砕かれた。足元の透明プラスチックに、クモの巣のようなヒビ割れが生じたのだ。海水が勢いよく噴出し、たちまち潜水艇が水浸しになっていく。

 同時に、中に海水が入ったために、潜水艇は重くなって、再び下降し始めた。


「くそっ! 右翼ハッチ、強制開放だ!」

《海水の流入が想定され、危険です》

「構わん、やれ!」

《了解》


 父の怒声に従い、潜水艇のハッチはミシミシと音を立てながらスライドした。この水圧で、よく開けたものだ。同時に海水が膨大な圧力の壁となって、俺たちに襲い来る。

 

 そこから先は、俺にとってはまさに僥倖だった。付近で作業中だった潜水艇が数機、救援に向かってきたのだ。それはちょうど、最初に船外に出た俺をアームで優しく挟み込んだ。

 いや、待て。俺だけか? そんな馬鹿な。父さんも母さんもユウも、まだ沈みゆく潜水艇の中にいるのだ。


 俺はアームに挟まれたままジタバタと四肢を巡らせ、さらに救助活動をするように訴えた。だが、その挙動にそんな意味があるとは、誰にも伝わらなかっただろう。


「ぶはっ!」


 海面に引き上げられた俺。土着コロニーの内部とはいえ、急激な気温変化に身体がついていかない。一瞬で身体が硬直しそうになる。

 そんな事情などどこ吹く風で、俺は素早く担架に載せられ、救急車に担ぎ込まれた。

 震える両手を駆使し、なんとか酸素マスクを取り外した。


「待って! 父さんが! 母さんが!」


 と言いかけた時に、見えた。ユウのぐったりとした身体が、そっと引き上げられるのが。俺と同じ救急車に、担架ごと乗せられる。意識を失っているようだ。


「ユウ! おいユウ!」

「止めるんだ、君!」


 俺は救助隊員にがっしりと腕を掴まれ、ユウから引き離された。隊員は荷台から降りて、ハッチを閉めて勢いよく二度叩く。すると救急車は、すぐさま発車した。


「ユウ! 目を開けてくれ! ユウ!」


 ようやく俺は、腕と胴が固定されているのに気づいた。


「そんな、嫌だ! 父さん! 母さん!」


 どのくらい時間が経ったのだろう。瞬きをしたら、いつの間にか俺は、薬品臭い部屋のベッドに横たわっていた。あまりに暴れるものだから、鎮静剤でも打たれたのだろう。

 意識は鮮明だが、身体が動かない。首だけ持ち上げてみると、もう身体が固定されているわけではないようだ。やはり薬の影響か。


 そんなことより、父さんは。母さんはどうした。ユウはどこにいる?

 疑問詞で頭がいっぱいいっぱいになった時、医師と思しき男性が入ってきた。ここが個室であることに、今更ながら気づかされる。


 医師は、簡単な意識の確認と記憶の整合性を確かめ、問題なしとして本題に入った。

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