禁域への突入
その日のルフェーブル海は、妙に荒れて波が高かった。
僕達七人とイヴァノエを乗せた船が、大きく揺れ、水しぶきを立てながら進んでいく。
揺れる船の上で、僕はずっと下を向いていた。正直、ちょっと酔ってきてつらい。
「うぅ……」
「エリク、大丈夫ですか」
「もしかして、お船に乗るの初めてでした?」
イヴァノエにもたれかかるようにしながら呻く僕に、両隣に座ったアグネスカとアリーチェが、心配そうな顔を向けてくる。
二人へと、僕は小さく顔を上げながら笑みを返した。
「乗ったことはあるけど、こんな外海にまで出たのは初めてだから……でも、大丈夫」
そう返して、僕は進行方向、遠くの水平線を見る。そう言えば車酔いも船酔いも、下を向いて一点を見つめるのが一番良くないって聞いた気がする。地球で、だけど。
それを思い出して顔を上げれば、徐々に水平線の上に、島らしき影がうっすら見えてきた。
「大丈夫ですよダヴィド様、もうすぐゲヤゲ島の全貌が見えてきます」
船の先頭に座るイルムヒルデも、僕へと微笑みかけてくる。あの薄っすらと見えている島が、目的地のゲヤゲ島か。
漕手を買って出たギーが、オールを動かしながらふと空を見上げる。さっきまで五月蝿いくらいに鳴いていた海鳥の鳴き声は、既に後方だ。
「海鳥の声が聞こえなくなってきた」
「もうそろそろ、聖域の領域内に入るってことかしらね。こう何もないと、区切りがよく分からないわ」
マドレーヌも海面を見つめながら、静かに言葉を零す。波が立つ海面の下は、きっと静寂が広がっているのだろう。
「はい、既に三神教会の定めた聖域には入っておりますわ。海面の下にも、魚一匹居りません。ゲヤゲ島はその危険性の高さから、特に広く聖域を定めているのです」
そう話しながら、少し座る位置をずらしたイルムヒルデの翼が前方を指す。そちらに目を向ければ。
「そして、見えてまいりましたわ。前方をご覧ください」
そこには、海の上にぽつんと浮かぶ島があった。
島の中心に、木造の小屋が一軒。それ以外は目立つ木も、山も、何もない。平坦な砂地と地面が広がる島だ。
「あれが……」
「邪神の領域、その入口であるゲヤゲ島……」
マドレーヌとアリーチェが、目を見開きながらほぼ同時に言葉を零した。そうこうするうちにゲヤゲ島はどんどん近づき、その全容が明らかになってくる。
思っていた以上に普通の、ルフェーブル海上でよく見かける島の姿に、拍子抜けしたように僕が言った。
「こうして見ると、普通の島ですね」
『なんだよ、邪神の領域だっていうから、もっとおどろおどろしい島を想像したのによ』
イヴァノエも少し不満を表しながら、尻尾で船の床をとんとん叩く。この現場には使徒と巫女、あとはカーン神に連なる神獣のアリーチェしかいない。ベスティア語しか話せない彼の言葉も、全員が聞き取れていた。
曰く、カーン神の使徒と巫女はベスティア語が、インゲ神の使徒と巫女はラガルト語が、シューラ神の使徒と巫女はフーシ語がルピア語と同じくらい話せ、聞けるのだが、聞くことに関してだけは自分の担当する以外のものも、ちゃんと勉強すれば出来るのだと言う。僕もそのうち勉強しないとならなくなるだろうか。
イヴァノエの言葉に頷きながら、イルムヒルデが説明を続ける。
「あくまであの島は、
イルムヒルデが言葉を区切るタイミングで、ちょうど船が島の海岸に接岸した。小さく揺れる船から立ち上がったアグネスカが、小屋を見つめながら口を開く。
「じゃあ、あの島が一見普通の島だからって、そこから繋がる禁域も同じように普通だとは……」
「当然、言えませんわね」
その言葉に目を細めて、きっぱりと答えるイルムヒルデだ。この中で禁域の中を見たことがあるのは彼女とディートマルの二人だけ。そのディートマルが、船の最後尾から歩み出しながら説明した。
「
彼の言葉に、無言になる僕達だ。元々この島の様子とは大きくかけ離れた大地が広がる禁域だが、調査の手が入らなかった
砂浜に降り立ち、僕達は島の様子を見回す。海岸を歩けば
マドレーヌが足元の砂を触りながら、そっと呟いた。
「驚くほど……静かね」
「ああ。命の気配が一つもない……聖域である以上、当然ではあるが」
彼女の隣でギーも、目を細めつつ言葉を零す。
予想していたよりも、この島には生き物の息づく気配がなかった。普通、海には貝だったり海老や蟹だったり、小さな生き物がいるものだが、この島の海岸には、そういう気配が一切ない。
さらには地面の方も、草や花が生えている様子が殆どなかった。わずかに雑草が生えるほかは、土がむき出しになっている。
「僕達の聖域は、まだ木が生えて、草花も生えているのに……」
「なんにも無いですねぇ……草花はなく、木もなく、あるのは……」
僕の言葉に、アリーチェも頷いた。
傍から見れば普通の島だが、これはとても、普通とは呼べない。
だから自然と僕達の視線は、島の中心に向かう。つまり。
『あそこに建っている、小屋だけだな』
「イルムヒルデ様、あの小屋が、お話にありました『
イヴァノエが呟けば、アグネスカが首を傾げながらイルムヒルデに問いかけた。
木製の板で壁と屋根が作られ、支柱に材木を使った小屋だ。明らかに人工物、だが木製の小屋にしては破損が全くない。外観も綺麗なものだ。
アグネスカの言葉に、イルムヒルデはにこやかに笑って頷く。
「はい、第一の結界ですわ。あの小屋、そして小屋の屋根に術式が刻まれ、結界を形作る神術円として機能しておりますの」
そう言いながら、彼女は小屋に歩み寄っていく。それに釣られて全員で小屋の側によると、その破損のなさがより際立って見えた。
この小屋そのものに、神術の術式が刻まれ、結界として機能している。つまり、見た目以上の強度を持つとともに、概念としての結界としてここにある、ということだ。
マドレーヌが小屋の屋根を見上げながら、深く息を吐いた。
「凄い術式の密度だわ……」
「これは凄いですねぇ、何度か聖域の結界を目にしたことはありますけれど、ここまでの密度のものは初めて見ます」
アリーチェも感心しながら、小屋の壁に手を添えている。
僕達が小屋の周囲を見ていると、壁の一面に扉があった。一般的な作りの、しかし鍵の存在しない扉を引っ張ろうとしても、ピクリとも動かない。
「っ……開かない。鍵穴なんて無いのに……」
「神術で封をしているのですわ。今、開けますわね」
手に力を込める僕をそこから離し、イルムヒルデがドアノブに手を添える。そうして、彼女は神術を唱え始めた。
「
呪文を唱えた瞬間、彼女の指先から扉へ、扉から小屋の壁へ、光が伝わっていく。
するとひとりでに、先程まで全く動かなかった扉が小さく音を立てて開いた。さっと中に入ったイルムヒルデが、僕達を迎え入れる。
「さあ、どうぞ」
「ここは……」
中に入った僕達は目を見開いた。
何もないのだ。
調度品も、家具も、椅子やベッドの一つすらもない。ただ、人間十人ほどが入れる程度の空間があるばかり。明らかに居住用の空間ではない。
『この中も、何もないな』
「机も、椅子もない……あるのは転移陣と、何かの機械だけ、ですか」
イヴァノエが言葉を零すのに頷いて、アグネスカが小屋の中心部を見た。
そこには、むき出しの地面に埋められた金属製の盤があった。丸い盤の表面には、転移陣が描かれている。その直ぐ側にはなにかの機械があり、転移陣へとパイプが伸びていた。
水は張られていない。つまりこの転移陣は、機能していない状態だ。それを指し示しながらイルムヒルデが話す。
「あの機械が、いわば第二の封印です。転移陣に水が張られていないことがお分かりでしょう? ああすることで、万一禁域側の転移陣に触れられても、転移できないようにしているのですわ」
「じゃあ、どうやって水を張れば……? 確かに周りは海だから、水はたくさんありますけど」
疑問を顕にする僕に、イルムヒルデが小さく微笑んだ。彼女が傍に寄って指し示すのは、パイプの出ている謎の機械だ。
「ここで、ダヴィド様……ラコルデールの使徒の力が必要になるのですわ。その機械に、お手を触れになってください」
「こう……?」
言われるがままに、機械に手を触れる。
と、その時だ。機械が淡い光を放ちながら振動を始めたのだ。同時に僕の胸元、カーン神の聖印が輝きを放つ。
「わっ!?」
「エリクの聖印が……!」
「なるほどー、使徒の聖印と反応させて動作するんですか」
アグネスカとアリーチェが、その様子を見ながら感嘆の声を上げた。
なるほど、こういう仕組みで動作するのであれば、確かに僕が居ないと話にならない。イルムヒルデがパイプの先を示しながら言う。
「この機械で、海水を濾過、清浄な水にして汲み上げて盤に流し入れるのです。ほら、転移陣に水が……」
彼女の言葉通り、パイプから水が流れ始めた。その水は盤に流れ込み、転移陣へと注がれていく。こうしてすぐに、転移陣が光を放ち始めた。
いよいよだ。ここまで来たら、もう後戻りはできない。
息を呑む僕達に、イルムヒルデは真剣な面持ちで語りかけた。
「よろしいですか、皆さん? 此処から先はまさしく魔界、我々の常識が通じない世界でございます。覚悟を決めて、踏み込んでくださいませ」
彼女の言葉に、僕とマドレーヌが生唾を飲み込む中。イルムヒルデはさっと、転移陣に手を触れた。彼女に続いてディートマルが、ギーが、マドレーヌが転移陣に触れて、その場から姿を消す。
後は僕達だ。水面を見つめながらぐっと手を握ると。
その手をアグネスカとアリーチェが握ってくる。イヴァノエも僕の脚に体を寄せてくる。
『エリク……』
「エリク……」
「エリクさん……」
呼ばれる名前。僕も三人の名前を呼び返す。
「イヴァノエ、アグネスカ、アリーチェ……」
それぞれの顔を見た。皆が、僕の顔を見て頷いた。
行くしか無い。皆と一緒なら、大丈夫だ。
「……行こう」
僕は二人と手をつないだまま、イヴァノエに寄り添ったまま、自由になる左足で水に触れる。
視界が、赤みを帯びた光で満たされた。
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