出発前夜
重要すぎる話が終わって、その日の夜。
僕は屋敷の庭で、イヴァノエとルスランと一緒に夜空を見上げていた。
傍にはブリュノとダニエルもいる。この二人は神域に残り、神術や使徒としての心構えを身に付けて行く。無論、リュシールやルドウィグもそちらの用事があるため今回はお留守番だ。
「出発があの話の翌日明朝ってぇのも、随分急な話ですね」
「仕方がないのですぞ、事態は一刻を争いますからな」
ぼやくブリュノに、ダニエルがゆるゆると頭を振りながら答える。
そう、彼の言うとおり、今回の事態は一刻を争うのだ。本当だったらあの話の後にすぐ出発しよう、とイルムヒルデは考えていたのだが、無理を言って翌日の早朝に出発を延ばしてもらったのだ。
「どうしよう……心の準備が……」
傍にいるイヴァノエの前脚を、僕はゆるく握る。正直、延ばしてもらった今も不安はぬぐえない。
何しろ、相手は神だ。邪神だ。その邪神が支配し、拡大し続ける領域に踏み込まないといけないのだ。
とても怖い。逃げたい。しかしそれは、僕には決して許されないのだ。
震える僕の手に、イヴァノエがそっと顔を寄せてくる。
『心配すんなエリク、どんな魔物だろうと、どんな邪神だろうと、俺が傍にいたらお前に手出しはさせない』
「そうとも、おのれには心強い伴魔がいるではないか。それにかの神獣人も供をするのであろう?」
反対側から、ルスランも僕の顔を覗き込んできた。
今回の冒険に、ルスランは同行しない。お願いしたのだが、きっぱりと断られてしまったのだ。アリーチェは「何が何でもついていきます!」と言ってくれたのに。
「ルスランも来てくれるんなら、もっと心強いのに……」
「そうしたいのは山々だがな。我が同行したら我が
縋るような目を向けても、ルスランは頷いてくれない。ただまっすぐ、僕の目をその瞳で見つめ返すだけだ。
うなだれる僕の頭に、ぽんと彼の大きな前脚が乗っかる。
「なに、命の保証がされているだけよいではないか。それに
「そうだけど……」
気楽な口調で言ってくるルスランだが、僕の返事は暗いままだ。
確かに人間じゃない生き物に変身できる
ダニエルが難しい顔をして頷きながら口を開いた。
「そうですな。確かに
ゆっくり、ゆったりと歩きながら、ダニエルが夜空を見上げて話す。神域の中の空はいつも晴れて、星が綺麗に見える。その星を見上げながら、彼はため息をついた。
「しかし、『器』を書き換えられるということは、決して元に戻ることが出来なくなる、と言うことです。性質的には
その寂しげな、悲し気な言葉に、僕もブリュノも口をつぐむ。と、そこにイヴァノエがベスティア語で口を挟んできた。
『『器』の変質って、アリーチオがアリーチェになったのと同じ感じなんだろ? 神様ってそうほいほいとそれを
その声を聞いて、ダニエルはこくりと頷く。彼もカーン神の使徒、ベスティア語でのやり取りはお手の物だ。イヴァノエに目を向けつつ、ベスティア語を口から吐き出す。
『三大神や三大神直下の伴神であれば、
「あ……そうですよね、神罰の重要さが薄れちゃいますし……」
「であるな。罰を受けてないのに同じことをされたら、何のための罰なのだ、となってしまう」
彼の言葉に、僕とルスランが一緒になって頷いた。
三大神が神罰として光を下ろし、その『器』を書き換えて別の存在へと変えてしまうのは、一度目にしている。罰として機能しているそれらを、罰もなく行使したら、重みづけが無くなるのは当然だ。
「そういうことですぞ。エスメイはそれを分かっていながら手を出してくる。故に、性質が悪いのです」
真剣な表情で告げてくるダニエル。その声色には、いつもの軽妙で穏やかな空気は、一切ない。
それでも僕は、祖父と孫ほど年の離れた彼に声を上げる。何か尽くせる手はないのかと問いかける。
「
「考え得る限りで最も有効な手段ではありますが、あれ相手ですとどこまで効果があるか……そうした護りも、あの手この手ですり抜けて力を使ってきますのでな」
僕の質問に、彼は再び頭を振った。そもそも出発は明日の早朝。今からミオレーツ山に行ってトランクィロの手を借りようにも、果たして間に合うかどうか。
力なくうなだれる僕を見て、今まで黙りこくっていたブリュノが口を開いた。
「で、でもよ、使徒には三大神の極大加護があるんでしょう? カーン神のご加護があれば、多少のことは……」
彼の言葉に、僕の顔が僅かに持ち上がった。
そうだ、どんなに相手が邪悪だろうと、僕は使徒だ。カーン神の極大加護を賜った使徒である。エスメイの位は神の中では高いとはいえ、三大邪神の下。力関係で言えばこちらの加護の方が上なのだ。
ダニエルもその点は承知の上で話していたようで、こくりと頷いてみせる。
「はい、多少のことは跳ね除けられますな。エリク殿もその『魂』と記憶は守られましょう。加護が外されることもあり得ませんから、使徒の位を失うこともございませんな」
「それなら……」
期待に満ちた目でダニエルを見るブリュノ。しかし、対して老爺の使徒は固い表情をしたままだ。
「とはいえ、相手もまさしく神。三大神より位は落ちると言っても神ですぞ。そこについては、努々お忘れないよう、お願いいたします」
その容赦のない言葉に、ブリュノも歯噛みしながら俯く。
何度も言う。何度だって言う。相手は神だ。邪神だ。物語に取り上げられるくらいに強大な邪神だ。
油断なんて一片もあってはならない。命は取られなくても、命以外のものを根こそぎ奪われかねない。そういう相手なのだ。
分かっている。理解している。けれど。
「……分かってます」
『エリク……』
どうしても、その覚悟を心で決められなくて。
力なく俯く僕に、イヴァノエはそっと頬を寄せながら僕の名前を呼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます