彼は人間の代表だった

オジョンボンX

彼は人間の代表だった

 彼は人間の代表だった。

 全権を委任されて宇宙人と交渉しているだとか、歴史に名を遺す偉業を成し遂げたといった話ではない。どこにでもいる普通の人間だった。しかし彼は人間の代表だった。

 彼はいつも怒っていた。何かが根本的に間違っていると感じていた。彼には親友がいた。今から一緒に走ろうと誘ってみたら断られた。ほとんど何が起きたか彼には分からなくなった。そんなことは間違っている、不当だ、おかしい、と親友をなじった。仲裁にきた者達は「お前が間違っている」と彼に言う。彼にはますますわけが分からなかった。そんなことはおかしいと何度訴えても誰も聞いてくれない。彼は悔しくて泣いて、泣けばますます心が苦しくなってさらに泣き喚いた。この人間は付き合うには値しない。もう二度と誘ってやらない。それでもいいのか。そう絶叫した。言葉が通じないからもはや暴力に訴えるしかなかった。それ以外の方法が彼には尽きていたから仕方がなかった。


 不当な、大きな力が彼を圧迫してくるのを彼は感じた。世界が間違っていると思った。

 以前はこんな風ではなかった。彼が少しでも何かを要求すれば、それはそのようになった。泣けば全てが手に入った。彼は人間の代表だった。彼は何もやり方を変えていない。世界の方がおかしくなった。世界がおかしくなったから、彼はそれを圧倒しようとそのやり方をより激しく実行した。大声で喚いたり、怒鳴ったり、叩いたりすると人は「お前が間違っている」と言う。しかしそんなはずがないしそれ以外のやり方がないから、彼はもっと怒鳴り、叩いた。世界と自分との我慢比べだった。世界の方が根負けして彼の要求が通ることもあったし、彼が世界に屈服させられることもあった。

 負けると彼は絶望と悔しさから一時間も二時間も慟哭した。


 大きな力はますます大きくなって彼を圧迫してくるのを彼は感じた。彼以外の全員が敵だと思った。この世界に自分の場所がないと感じた。みんなが園庭で遊んでいた。開け放たれたガラス戸から春の生ぬるい空気と一緒にみんなの声が部屋に流れ込んできた。彼は蛍光灯のついていない薄暗い部屋で、椅子に座って絵を描いていた。ちょうど目の前にある散らばった積み木を一つずつ丁寧に描き写していた。今目の前にはない積み木も描き足していった。一つ一つの積み木をバラバラに描くのに飽きて、三角の積み木と、長四角の積み木が組み合わさって家の形になっているところを描いた。しかし自分の描いた絵がどこか違うような気がしたから、目の前にある積み木を組んで確かめてみようとした。

「積み木なんて面白くないでしょ」

 彼が積み木を組むのに集中していたからすぐそばにいたのに気付かなかった。かつての親友だった。

「積み木なんてやってないし!」

 彼は激して答えた。彼は積み木を確かに組んではいたが、それはあくまで絵を描くためであり積み木で遊んでいるわけではないという理屈だった。その上、園庭でみんなと遊ばず一人で部屋の中で絵を描いていたことをわざわざ揶揄されたことも彼には腹立たしかった。

「はあ!? 積み木やってるじゃん!」

「やってないし! 絵だし!」

 しかし彼はそうした腹立たしさの源泉や理屈を言語化する能力を満足していなかった。さらに怒りで冷静さを欠いていたからますます説明ができなかった。彼らの言い争いを聞きつけた別の人間が現れた。

「どうしたの」

「こいつが積み木やってるのにやってないとか言って急に怒ってきた。意味わからんし」

「だーかーらー!!」

 野次馬が増えていった。みんなが「お前がおかしい」と彼に言う。何も事情を知らない人が親切ぶって「謝った方がいいよ」と彼に言う。彼は怒った。感情があふれ出して悔しさを抑えきれずに泣いた。先生が来た。おしゃべりな人間が先生に状況を伝えた。彼はそれを聞いて全く不正確だと思ったし不当だと思った。先生は人々を一旦散らした後、彼に向き合った。彼は泣きながらこの不当な出来事を訴えたがしゃくり上げるばかりでまともに説明できなかった。先生がおおよしよしと彼を抱き締めようとした。彼はそうじゃないと思った。慰めて欲しいわけではない。言い分を聞いて正当なジャッジが欲しいだけだった。だがやはり彼にはこの瞬間の苛立ちがそうした理由に発していると自覚することはできない。だから先生を叩いた。先生は彼を反射的に突き飛ばし、軽蔑した目で彼を見た。その目には涙が溜まっていた。先生は無言で彼を置いて行ってしまった。彼は強いショックを受けて深く傷ついたし混乱したが、自分が悪いわけではないと確信しながら悔しさに耐えていた。


 それが午前のことで、午後は知らない中学生が三人やって来た。近くの中学校のボランティア活動で中学生のお兄さんとお姉さんが来て遊んでくれると先生は説明したが、彼にはボランティアや中学生というものが曖昧にしか理解できなかったため、さしあたり彼らが遊んでくれるらしいということだけを理解した。

 中学生のうち二人はそれぞれ複数の人々を連れて園庭に出ていった。子供たちは中学生を取り囲んであれをやろうこれをしようと興奮していた。残りの一人は小さな人々との接し方が分からず所在なさげに部屋に残っていた。彼は朝から続いて机で絵を描いていた。

「この部屋を描いているの?」

 中学生が彼の横に座って彼の手元を見ていた。彼は手を止めて中学生を見たがどう答えていいのかわからなかったから黙っていた。中学生は不安そうな顔をして、彼も不安そうな顔をしていた。

「これが机で、これが椅子で、これが積み木。すごく上手だね」

 彼は誉められて嬉しかったが、この中学生との心理的な距離感の方がまだ上回っていたから黙ったままだった。

「僕も何か描いてみていい」

「うん」

 彼はいつも大声で叫んだり要求したりすることが習慣化していたがそれは慣れた相手にだけで、知らない人のいる空間では極端に大人しくなる。消え入りそうな声で許可すると、中学生はクレヨンでアンパンマンの顔をさっと描いた。中学生は彼の顔を見ずにずっと画用紙に視線を落とし続けていた。

「すご」

 それから彼は中学生にしょくぱんまんも描けるか聞くと中学生は描いた。カレーパンマンやジャムおじさん、ばいきんまんやてんどんまんを簡単に描いてみせた。顔だけでなく体も描けたし、どんなポーズやシーンを頼んでも簡単に描いていった。彼はリクエストを出すにつれて声が大きくなっていった。耳元で叫ぶように言うから、中学生は少し顔をしかめた。テレビや本でしか見たことない絵を、自分と同じ道具を使って目の前で、その場で手で描くことができるのは彼にとって想像したことのない驚きだった。ああいう絵は何か最初からそう存在しているものだと思い込んでいたから、人が描けるとは考えたこともなかった。しかも自分が言えばその通りに目の前にできていく。急速に世界を取り戻しているという感覚だった。自分が言えばその通りになる本来の世界が戻ってきた。しかもこの凄さを今自分一人が独占している事実が嬉しかった。

 余白が無くなったから彼は新しい紙を部屋の外へ取りに行った。戻ってくると部屋は騒がしく中学生は子供達に取り囲まれていた。園庭に出ていた子供たちと中学生のグループが部屋に戻って来ていた。中学生は裏紙を使って周りの子供たちの求めに応じて次々に色々なアニメのキャラクターを描いていた。この凄さは最初にこの自分が発見したのだ。自分の方が先に知っていたのにずるいと彼は思った。彼は無理矢理人垣に割って入った。

「新しい紙がないと描けないでしょ!」

 怒気をむき出しにして言うから中学生も呆気に取られながら「ありがとう」と紙を受け取った。新しい余白を得て人々が一斉に新しい注文を中学生に浴びせた。彼は誰にも負けない大声でキャラクターの名前を叫んだ。他の人からうるさい、ずるいと非難が上がるが無視して叫び続けていた。自分でももう分からなかった。本当にその絵を見たいわけでもなく、あの人の手から目の前で絵が生まれる驚きや不思議に出会いたいわけでもなく、ただ他の人間を排除して独占したいから叫んでいるだけだった。他の人々の非難はますます激しくなり、彼の反発も呼応して激しさを増し、場は混乱していった。彼が中学生の耳元に顔を寄せてキャラクター名を絶叫したから、中学生は思わず彼の体を突き放して耳を手で覆って苦痛の表情を露にした。彼の心を一瞬で罪悪感が覆ってほとんど泣きそうになったが、みんなが悪いのにという気持ちが直後に彼の心をオーバーライドした。悪いんだ、悪いんだと人々はさらに彼を非難した。別の中学生が心配したがその中学生は「大丈夫、ちょっとびっくりしただけ」と答えていた。

 別の中学生が人々に別の遊びを提案した。この混乱からやや離れて見ていた一人が

「あ、私それやる」

と提案に乗ると他の人々も園庭へ流れていき、再び部屋は彼と中学生の二人になった。二人ともしばらく黙っていたが

「じゃあ、さっきのね」

と中学生が彼のリクエストしていた絵を描き始めた。彼は黙ってそれを見つめていたが、以前のわくわくするような気持ちはまるで湧かなかった。ただひたすら息が苦しかった。中学生が描いている途中でふいに手を止めた。

「ねえやっぱさっきのはダメだよ」

「何がっ!!」

「違うよ。僕も君も、他の人も、みんな君と同じ人間なんだから」

「何言ってるかわからんし!! もういい!!」

 彼は机の上の画用紙を発作的にぐしゃぐしゃにして投げ捨てて、中学生に背を向けて走り去った。部屋の隅に座り込んで落ちていた絵本を開いた。まるで内容が頭に入らなかったがしばらく絵本を見ているふりをしていた。彼が少し振り返って見ると、中学生は幼児用の低い椅子に座って目を瞑ってぐったり頭を垂れていた。大人がつらそうにしているのを初めて見たと彼は感じた。彼には信じられないことだった。大人はいつも大丈夫なものなのだと思い込んでいたから、そうではないと知ったことが衝撃だった。そうしたのは自分だと分かっていたから胸と腹の間の奥が油にまみれて重いような、苦しさに沈んでいた。世界がおかしいといういつもの考えが救済するのも追い付かず、どうしてこうなるの。毎回なんでこうなるの。とぐるぐる彼は考えながら絵本に視線を落としていた。


 彼は翌朝、登園を拒んだ。昨夕からずっと気落ちした様子だったから彼の両親は最初体調不良を疑った。彼の両親は彼にあれこれ訊ねたが彼は「ちょっと」とか「行きたくない」としか言えなかった。理由を隠しているというより理由が何か彼にも理解できなかった。彼の両親は相談して、その日は父親が休暇を取得して彼と家に残った。彼はレゴのデュプロで遊んだりテレビを見たりして過ごし、彼の父親は時々一緒に遊びながら会社のノートパソコンでメールの処理をしたりした。昼食に父親が車でマクドナルドへ連れていくと、彼の気分は少し上昇して少し饒舌になって父親を安心させた。

 翌朝も登園を拒んだが、体調は悪くなかったし両親も休むことが難しかったからその要求は却下された。彼は案外素直に従った。その後も時々行きたくないと彼が言うこともあったがその頻度は徐々に低下していった。しばらく経って先生は親に、最近はお友達とも上手に遊んでいる、お友達ときちんと相談できるようになった、と彼のことを誉めた。彼の親は彼が以前より大声を出したり無理を言い続けたりすることが減っているとその時思い至った。

 世界と自分の不適合が、世界が間違っているからではなく、自分が間違っているからだという転倒に彼は辿り着いた。それと同時に自分が他人と同じ大勢いる人間の一人だという認識が訪れた。それは言語の構築によって把握されたというより、やむなく開始された試行と望外の成功という実践の積み重ねによって数週間かけて確信されていった。一度そうした視点に切り替わると、かつてどう見ていたのかは完全に忘れ去られた。世界が彼を圧迫してくるあの感じが晴れていた。実際には自分が変わったのに、彼にはまるで世界が変わったかのように見えたが、以前苦しんでいたことはすぐに忘れてしまった。言語で把握されないことは忘れ去られるよりほかなかった。

 彼は人間の代表であることをやめ、少し人間になった。それは世界に妥協して回収されたということだった。彼は四歳になった。

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